2019年4月 9日 (火)

グラバー園

1dsc01627
3dsc01634
 旧三菱第2ドッグハウス
 「ドックハウスとは、船が修理などのためにドックに停泊している間、船員達が宿泊するための施設です。
 この洋風建築は、1896年に三菱造船所第二船渠の建造にともない、船渠の傍らに建築されました。
 明治初期の典型的な洋風建築であるこの建物は、1972年(昭和47年)に三菱造船株式会社より長崎市が寄贈を受けて現在地にに移築復元されたものです。」
4dsc01633_2
5dsc01640
6dsc01642
7dsc01636
 旧リンガー邸
8dsc01648
9dsc01646_3
10dsc01647_2
 旧オルト邸
10dsc01657
11dsc01654
 三浦環の像とプッチーニの像
 
 三浦環(たまき)は、東京音楽学校で声楽を学び、1903年、奏楽堂において催された日本人の手による初めてのオペラ公演に出演。
1914年、夫である医師・三浦政太朗とともにドイツに留学するも、第一次世界大戦が勃発。
 戦禍を逃れて渡ったイギリスでオペラ歌手としてデビューすることになりました。
 以後、1935年に引退するまで、イギリス、アメリカ、イタリア、フランス、スペインのオペラ劇場で、プッチーニの「蝶々夫人」やマスカーニの「イリス」を演じ、出演回数は2000回にも及びました。
 1922~24年に帰国した際は、長崎に滞在しオペラの普及や歌手の指導にあたりました。
12dsc01659 13dsc01660
 旧グラバー邸
14dsc01661
15dsc01667
 グラバーと妻つる
16dsc01664
17dsc01670
18dsc01662
 
 トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover, 1838~1911)
「イギリスでは、産業革命後、製造業とともに、商業も急速に発展した。
 イギリス東インド会社はそれまで主としてインド綿布や中国茶の買い付けにあたっていたが、18世紀後半期になると、会社の保護下で活動していたイギリス系の商人が、「地方貿易」と呼ばれるアジア諸港間、なかでもインドと中国間の貿易に進出するようになった。
 これらの地方貿易商人は、東インド会社の援助にささえられて、従来のインドの綿布、・絹織物の貿易から大々的にアヘン貿易に従事するようになり、イギリスからインドへの綿製品輸出、インドから中国へのアヘン輸出、中国からイギリスへの茶輸出という、いわゆる「三角貿易」の重要な一端をになうようになった。
 東インド会社によるアジア貿易の独占に対する批判は、イギリス国内の産業資本家や、地方貿易商人(カントリー・トレイダー)など自由貿易を主張する人々の間でしだいに強くなり、東インド会社は1823年に茶をのぞくアジア貿易の独占権を放棄し、1833年には従容活動も全面的に停止することになった(ただしン東インド会社が解散されるのは1858年のことである)。」
 1840年、アヘン戦争。1842年、南京条約。
 「この条約によって清朝は、それまで広州一港にかぎっていた制限貿易にかわって、広州をふくめてあらたに上海・寧波(ニンポー)・福州・厦門(アモイ)の五港を開港するとともに、香港をイギリスに割譲し、さらに翌年には領事裁判権などをふくむ不平等条約に調印せざるをえなかった。
 こうしてジャーディン・マセソン商会、デント商会、ギブ・リビングストン商会をはじめとする地方貿易商人があいついで香港に進出し。香港は対中国貿易の拠点となった。」
 19世紀半ばのイギリスでは綿工業や鉄鋼業などの産業部門を中心にめざましい産業の発達がみられ、イギリスは「世界の工場」と呼ばれていた。
 スコットランドでも、西部を中心に亜麻工業や綿工業などの繊維産業や石炭、鉄鋼、機械、造船業などの発達がみられた。
 このヴィクトリア中期と呼ばれる時代には、こうした急速な産業の発展を背景にして、若い世代あいだでは、旧来の伝統的な社会通念に代って、自分の才能を発揮することによって社会的地位を上昇させる可能性を追求することがしだいに強く意識されるようになった。
 なかでも政治や産業・商業という分野は、このような期待をいだいている若者にとって、かっこうの活躍の場であり、なかには貿易商、技術者、あるいは宣教師として海外に雄飛していく人たちも多かった。
 グラバーも、こうしたヴィクトリア時代の精神と風潮の影響をうけた一人だった。」
 「スコットランド最大の輸出品は「人間」であるといわれるように、多くのスコットランド人が海外にでていった。」
 「インドはイギリスのアジア貿易の重要な拠点であり、世界でもインドほど冒険的で利益をもとめるスコットランド人が多くみられた地域はなかった。
 とくに東インド会社の保護下に活躍した地方貿易商人のなかには、ジャーディン・マセソン商会やデント商会をはじめとするスコットランド出身の貿易商人が多かった。
 かれらは、カルカッタやボンベイを拠点としてアジア域内の地方貿易に参加して綿花やアヘンをとりあつかい、最終的には東インド会社の貿易独占を打ち破るのに貢献し、インドにおいてもジュートや茶野生産、船舶や鉄道、金融において重要な役割をになった。」
 (「明治維新とイギリス商人ートマス・グラバーの生涯」(杉山伸也/岩波新書)から)
 安政の五カ国条約(米蘭露英仏との修好通商条約)では、和親条約によりすでに開港されている下田・箱館のほか、1859年7月に神奈川(横浜)および長崎、1860(万延元)年1月に新潟、1863(文久三)年1月兵庫(神戸)をそれぞれ開港し、また1862年1月に江戸、63年1月に大阪を開市(商業活動ができる)すると定められていた。
 通商条約における「開港」とは、神奈川や長崎などの特定の開港場でのみ外国貿易を認めるというもので、この形態は居留地貿易と呼ばれています。
 居留地貿易はこの時代、南京条約(1842)、天津条約(1858)、タイのバウリング条約(1855)、朝鮮の日朝修好条規(1876)と欧米諸国と欧米諸国との通商条約(1882~84)など、欧米諸国とアジア諸国との通商条約では一般的に認められる形態のものです。
 「居留地貿易の制度は、幕府にとって、日本人を欧米諸国の影響から隔離し、かつ「鎖国」下長崎・出島での会所貿易と同じように、外国貿易の管理が容易であるという点で好都合であった。
 それと同時に、欧米諸国にとっても、東アジアという本国から遠く離れた地域における防衛力の限界という観点から。自国民の財産の防衛と保護のためにより有効な方策であった。」
 1959年7月長崎開港。
 開港にあわせて大浦海岸一帯の地域が埋め立てられ、10月には、居留地区画の割り当てと登記がおこなわれた。
 「大浦地区の一番はポルトガル代理領事でもあるデント商会のジョセフ・エヴァンス、二番はフランス代理領事でもあるジャーディン・マセソン商会のマッケンジー、三番はアメリカ代理領事でもあるウォルシュ、四番はサッスーン商会のエツェキールがそれぞれ入手した。」
 スコットランド東北岸フレイザーバラを生まれ故郷とするトーマス・ブレーク・グラバーが、開港直後の長崎に到着したのは1859(安政六)年9月19日、この時グラバーは21歳の若者でした。
 グラバーは18歳頃に上海に渡り、貿易業務を学んだらしい。
 イギリス領事館の在留名簿には、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人であったケネス・マッケンジーの下で働く「商会事務員」であると記載されています。
 「グラバーは幕末・維新期のドラマにかかすことのできない人物である。
 しかし、かれの貿易商としての活動が、1861年5月の商会設立から1870年8月の倒産にいたるまでの僅か10年間にすぎなかったことは意外にしられていない。」
 日本人大工の手になる日本最初の洋風建築であるグラバー邸が建てられたのが1863年でこの時グラバーは、24歳。
 若いですねー。
 若いと云えば、アーネスト・サトウがイギリス外務省の通訳生として着任したのが1862年のことで19歳、日本の政権を将軍から天皇を戴く諸侯連合に移すべきと主張して「明治維新の原型」と評されることもある「英国策論」を横浜の英字新聞「ジャパン・タイムズ」に発表したのが1866(慶応二)年で、サトウは25歳でした。
 グラバーやサトウだけではなく、当時の上海や香港には、勇気・気概・野望と冒険心に満ちあふれた若者が大勢集まっていて、カントリー・トレイドは今風(ってほどでも無いか)に言えばベンチャー企業のようなものだったのでしょう。
 1861年、ケネス・マッケンジーが長江中流域の漢口に貿易拠点を移したため、グラバーは「コミッション・エージェント」として独立し、マッケンジーから代理店業務に関する事務を引き継ぎ、同時にジャーディン・マセソン商会、デント商会、サッスーン商会の長崎代理店もかねることになりました。
「欧米諸国との貿易がはじまると、生糸、茶、蚕卵紙などが日本からの主な輸出品となり、綿糸・綿織物、毛織物・、砂糖、艦船、武器類がおもな輸出品となった。」
「1868年に兵庫や大阪が開港・開市されるまでは、長崎は中心的な貿易港で、瀬戸内海を通じて商業中心地大阪とむすばれていた。
 長崎の貿易額(輸出入の合計)は、1860年の約130万は、1860年の約130万ドルから、65年には241万ドル、さらにピークの67年には823万ドルに増加しているが、横浜の貿易が急速に増加するにつれて、長崎貿易の地位は後退し、1862年以降は全国の貿易額の20%前後をしめるにすぎなくなった。
 しかし、幕末期の国内政局を考えると、長崎の貿易港としての意味は、こうした数字にあらわれる以上におおきかった。
 横浜が欧米向けの生糸や茶の輸出を中心に大幅な輸出超過であったのにたいして、長崎の貿易は逆に大幅な輸入超過であった。
 この輸入超過の原因は、長崎が江戸から遠くはなれているために幕府の支配力が弱く、それゆえ薩摩、長州、土佐、佐賀藩などの西南雄藩にとって、絶交の艦船や武器の購入市場となっていたからである。
 そして長崎の貿易は、地理的な位置と歴史的な存在の故に、欧米諸国との貿易だけではなく、中国やアジアとの貿易の窓口としての役割もはたすことになったのである。」
 1861年に設立されたグラバー商会が最初に手掛けた仕事は茶の再製と輸出でした。
 再製とは黴の発生を防ぐために、梱包する前に再び火入れをして乾燥させることで、グラバーは長崎で最初の再製工場を設立し、最盛期には1000人以上の日本人男女が雇われていたらしい。
 1862年、グラバーは鉄製蒸気船ランスフィールド号とファイアリー・クロス号を薩摩藩に売り渡す契約を結んで、蒸気船の販売に乗り出します。
 もっとも生麦事件が起こって、ゴタゴタした結果ランスフィールド号は、ジャーディン・マセソン商会横浜支店を通して長州藩に売却されました。
 ファイアリー・クロス号のほうは、無事に薩摩に引き渡されています。
 生麦事件は居留地貿易にも大きな影響を及ぼし「この事件をきっかけに、1863年7月に幕府はイギリスとフランスに横浜居留地の防衛権を認め、これ以後1875年3月まで約12年間にわたって両国の軍隊が横浜に駐屯することになった。」
 グラバー商会は、1864~68年に24隻の艦船(蒸気船と帆船)を売却しています。
 売却先としては、薩摩藩が6隻、熊本藩に4隻、幕府、佐賀藩、長州藩に各3隻など。
 グラバーの兄チャールズがアバディーンで設立した船舶保険会社グラバー・ブラザース商会を通して、各藩の依頼でイギリスでの船舶の建造を仲介することもあったようです。
 武器・弾薬類の輸入は1865年以降に急激に増加するようになります。
 輸入された小銃はミニー銃、エンフィールド銃など先込施条銃やスペンサー銃やスナイダー銃など。
 1865~70年にかけて、50万挺の銃が輸入されたが、これはアメリカ南北戦争(1861~1865)の終結で、余った小銃が中国市場に出回り、それが日本に持ち込まれたためです。
 グラバーも西南雄藩に小銃を売却してはいるが、グラバー自身が銃砲や弾薬について詳しい知識を持っていたわけではなく、特別の武器輸入ルートを持っているわけでもなかった。
 1865年4月、グラバーは、長崎奉行を通じて幕府から大砲35門と10万発の砲弾の注文を受け、イギリスの兵器製造会社アームストロング社に発注しています。
 これらの大砲は1867年長崎に到着したが、幕府の支払いが遅れたために、グラバー商会の倉庫に保管されたままで、68年1月に徳川慶喜追討令が出され、長崎奉行河津伊豆守が長崎を脱出したため、結局は官軍の手に渡り、グラバーも儲けににならなかったらしい。
 グラバーは貿易商ではあったが、同時に企業家としも活動しています。
 グラバーは1864年上海支店を開設し、1867年7月ユニオン蒸気船会社(Unionn Stream Nabigationn Co)を設立し「当時揚子江航路をほぼ独占していたアメリカのラッセル商会の上海蒸気船会社にイギリス資本としてはじめて対抗した。」
 1865年にはジャーディン・マセソン商会が上海の博覧会に出品した蒸気機関車アイアン・デューク号を引き取り、大浦海岸通りで走らせて、グラバー商会の存在感を誇示しています。
 「グラバー商会は、1865年までにロンドン保険会社、ノーザン保険会社、インペリアル保険会社、広東・香港保険会社、ロンドン・オリエンタル蒸気船輸送保険会社の長崎代理店となり、さらに67年には香港火災保険会社の代理店になっている。
 船舶保険でも、1865年に世界最大のロイド船舶保険会社の代理店になり、また銀行関係では、67年に香港上海銀行と東洋銀行という東アジアの二大銀行の長崎代理店に指定された。」
 グラバーは、1866年頃から薩摩藩と共同で、長崎の小菅に、1200トン以下の船舶を修理するためのスリップ・ドッグの建設を開始しています。
 スリップ・ドッグは巻上機を使って、修理船を算盤型のレール上に引き揚げる構造で「算盤ドッグ」と呼ばれることもありました。
 薩摩藩が購入した5400坪の土地に、アバディーンのアレキサンダー・ホール社に発注した設備機材を敷設するという計画だったが、完成間近の1896年4月、グラバー商会の資金繰りが悪化して、明治新政府に売却されています。
 1868年6月、グラバーは佐賀藩と契約を結び、長崎南西14,5キロにある上二子島、下二子島の借地権を得て、高島炭鉱の開発に乗り出しました。
 高島炭鉱は佐賀藩の支藩である深堀藩の所領で、18世紀初めから石炭採掘がはじめられ、製塩用の熱源として中国・四国地方に販売されていたが、長崎開港当初から欧米の商船や海軍に注目され、1860年代から上海に輸出されるようになり、70年代後半期には上海における石炭市場の約60%を日本炭がしめるほどに発展して行きました。
 高島藩が、グラバーとの共同開発を決定したのは、蒸気船やスペンサー銃の購入代金をグラバー商会にたてかえてもらっていたという事情があったためです。
 グラバーは、炭鉱開発は旧武士階級や、多数の日本人技師や職人に職を与え、日本の船舶や船乗りに傭船と雇用の機会をあたえるので「日本の繁栄にとっても、政府収入にとっても、絶対に必要」であると力説し、またイギリス本国や豪州から石炭を輸入するよりも、はるかに有利であり、欧州の熟練労働や機械設備(工業)にも大なる利益をもたらすだろうと云っています。
 グラバーはオランダ貿易会社やジャーディン・マセソン商会から調達した全資金を高島炭鉱の開発に投資、最短用機械設備をイギリスに注文し、イギリス人技師モーリスを雇い入れて、44メートルの日本最初の洋式立坑である北渓井抗の開削に着手、69年5月に2,4メートルの炭層に到達した。
高島炭鉱は、1986年に閉鎖されるまで、日本の石炭業の中心として産業の発展に貢献し、近代日本の産業史に大きな足跡を残すことになりました。
 グラバーと薩摩藩の関係が始まったのは、1862年のランスフィールド号の売却前後からで、急速に接近するのは63年8月以降のことです。
 薩英戦争の後、グラバーは薩摩藩の五代友厚と懇意になり、五代は長崎のグラバー邸に滞在中に、薩摩藩の富国強兵策を立案し、上海貿易の促進と英仏への留学生の派遣を骨子とする上申書を提出した。
 五代の提案は藩に受け入れられ65年4月、五代友厚、町田久成、新納(にいろ)刑部、松本広安、森有礼など15名の留学生が、グラバー商会所有の蒸気船オーストラリア号で、串木野羽島から欧州へと出発。
 松木広安(後の第4代外務卿・寺島宗則は、幕府よりの対日政策の薩摩方への転換をイギリス外務省に働きかけ、五代友厚は小銃・騎兵銃や紡績機械を買い付けています。
 薩摩では、イギリス人技師を雇い入れ、1870年にわが国最初の近代的機械紡績工場である鹿児島紡績所を設立しています。
グラバーが、いわゆる「長州ファイブ(井上聞多、遠藤勤助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉)の英国留学を斡旋したという説があるが、彼らの渡航を手配したのは、ジャーディン・マセソン商会横浜支店の支配人サミュエル・ガワーです。

『1866年2月に、グラバーは薩摩藩の招待で鹿児島を訪れた。

これはパークスの鹿児島訪問の計画についてイギリス側から非公式ながらも肯定的な感触を得ていた薩摩藩が、グラバーに計画の具体化を依頼するためだった。

グラバーはパークスに薩摩藩の意向をつたえ、同時に江戸の薩摩屋敷におもむいて仲介の労をとった。

その直後にパークスと薩摩藩士相互訪問が実現し、パークスの鹿児島訪問が決定した。」

「パークスは66年7月3日に横浜を出航、途中長州再征伐直前の下関に寄港し、長崎を経て、27日に鹿児島湾に入港した。

 薩摩藩は、21発の祝砲をうってパークス一行を歓迎した。

 この時グラバーは公使館員シーボルト、ラウダーとともに旗艦プリンセス・ロイヤル号に分乗していた。

 パークス一行は8月2日まで7日間鹿児島に滞在し、島津斉彬が磯の別邸隣に造った近代的工場施設である集成館を見学したり、大砲射撃や野砲操練の実演をおこなうなど、薩摩側との親交をふかめた。

 イギリスからの指示を期待していた薩摩藩は藩をあげてパークスを歓迎し、2万両の経費をついやしたという。」

 グラバーは後に、「つまり、自分の一番役に立ったのは、ハーリーパークスと、それから薩長の間にあって壁をこわしたことで、これが自分の一番手柄だったと思います」と述懐しています。

 1868年5月に明治政府は大阪に造幣局を設置し、新貨幣を鋳造することになり、グラバーは同年閉鎖の予定であった香港造幣局の造幣機械設備を買い取って、明治政府に転売しています。

 しかし、思ったほどには儲からなかったらしい。

 1867年(慶応3)12月7日兵庫開港、大阪開市。

 また、68年の暮れ頃には戊辰戦争の帰趨もみえてきて武器類の輸入も減少したことから、貿易港としての地位が低下、外国商会は長崎から撤退するようになりました。

 この時期、グラバーは高島炭鉱の経営に全力を傾注しています。

 石炭は飛ぶように売れたが、日量500トンの採掘量を見込みのところ300トンほどしか生産できず、グラバーは次第に資金繰りに窮するようになった。

 ジャーディン・マセソン商会からの資金援助も打ち切られ、1870年8月、長崎のイギリス領事法廷で、グラバー商会の破産が宣告され、9月、上海のグラバー商会も倒産。

「グラバーは、たしかに機略にとんだ貿易商であった。

 新政府の樹立へとむかう政局の変化の中で、グラバーは投機的取引のおわりが近いことを彼特有の政治的嗅覚で感じ取り、貿易省から企業家への転進をはかったのだろう。

その意味で、グラバーの目指した方向はけっして誤ってはいなかった。

しかしグラバーの自己資金はきわめて限られており、企業家へのへの転進は容易なことではなかった。

ジャーディン・マセソン商会やオランダ貿易会社から調達した資金の大部分は、高島炭鉱、小菅スリップドッグ、砲艦の建造、船舶の保有などへの投資に向けられ、固定化してしまった。

 こうした投資の固定化はグラバーの運転資金の資金繰りをいっそう難しくさせた。」

 「あまりにも急激な政治経済環境の変化は、グラバーの意思や予想をはるかに超えたところで動き始めていた。

 グラバーが夢に見た明治維新の政治的成功は。グラバーのビジネスの終焉でもあった。」

 グラバーは、商会倒産後も長崎に留まり、居留地自治会の世話役やポルトガル領事を務めたりしています。

 高島炭鉱はオランダ貿易会社の所有となったが、明治政府が1872年に鉱山心得書、73年に日本坑法を公布し、外国人による日本国内での鉱山所有を禁止したために洋銀40万ドルで官収された後、後藤象二郎に払い下げられ、グラバーは高島炭鉱の支配人として復帰しています。

1881年からは、後藤象二郎を雇用していた三菱が直接高島炭鉱の経営に乗り出し、グラバーは三菱会社に籍を置いて高島工業所の顧問になりました。

 グラバーは1886年、長崎から東京・芝に転居して三菱の顧問になりました。

 この頃、横浜居留地にあった日本最初のビール製造工場「スプリング・ヴァレー・カンパニー」を買収し、お雇い外国人らと協同して「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」を設立、渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎らの出資も取り付け、1888年、明治屋を代理店にして「キリンビール」を販売しています。

 「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」のビールは1907年(明治40)麒麟麦酒株式会社に継承されました。

 1908年7月、グラバー、勲二等旭日章を受賞。

 「慶応年間王政復古の気運親交するにあたり国事に周旋の労を執ること少なからず、よく時機に応じ良図をたすく、当時外国使臣の意向区々(まちまち)にして一定せざるに際し復古の方向を覚らしむることに尽力し、維新の大業を遂行するに関し多大の利益を供せしむるに至りたる等その功労実に顕著」(伊藤博文、井上馨による叙勲申請書草案)。 

 「グラバーの歴史は、江戸から明治という大きな政治的な転換期の中で、一人のイギリス人貿易商が演じることのできた役割と限界を示している。

 そして皮肉なことに、グラバーが情熱をかたむけた政治的変革が実現されるにつれて、グラバーはしだいに政局に翻弄され、時代の波にのみこまれ、活躍の場は逆にせばめられていった。

破産を含む前後の落差の大きさは、このことを端的に物語っている。

 グラバーが、明治日本の歩んだ道程についてどのようにおもったかわからないが、「グラバ自身の歴史は一つもありませぬ」(『史談会雑誌』)と述懐するとき、グラバーの胸に去来したものは、明治日本の「栄光」にたいする自負と自分自身にたいするいいようのない挫折感だったのだろう。

 グラバーは、1894年にいったん長崎に戻った後、再び上京し、芝公園に居を定め、三菱合資会社の顧問を務めながら、妻ツルと悠々自適の生活を送りました。

1911年(明治44)3月23日、慢性腎臓炎のために麻布富士見町の自宅で死去。

享年73歳。

 グラバーの息子・倉場道三郎はペンシルヴァニア大学で生物学を学んだ後、ホーム・リンガー商会に入社、1907年に長崎汽船漁業会社を設立し専務取締役に就任、日本で最初のトロール漁法を導入し、遠洋漁業の発展に貢献しました。

 富三郎夫妻は1939(昭和14)年、グラバー邸を三菱に売却、三菱は1957年にグラバー邸を長崎市に寄贈しています。

 太平洋戦争が始まると、富三郎は憲兵に監視されるようになり、神経衰弱のようになりました。 

 1943年妻ワカに先立たれ、終戦直後の1945年8月26日、富三郎は心労のため、長崎市松が枝町の自宅でピストル自殺。

 74歳でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月 1日 (金)

臼杵磨崖仏・臼杵城

 < 臼杵磨崖仏 >

1dsc01767_2

2dsc01768

 ホキ石仏第二群 修理工事をやっていた。

ホキは地名で、「崖(がけ)」という意味らしい。

3dsc01774

 ホキ石仏第一群

4dsc01778

6dsc01781

5dsc01779_2

 山王山石仏

8dsc01787

9dsc01788

 古園石仏

10dsc01794

13dsc01804

12dsc01802

 六十余体の石仏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたものらしい。

 満月寺。

 「真名長者夫妻像」「蓮城法師像」があります。

 真名長者(まなのちょうじゃ)の発願を受けて、蓮城法師が満月寺を創建し石仏を彫ったと云われている。

Dsc01799

 < 二王座 歴史の道 >

 龍原寺三重塔

16dsc01807

17dsc01809

 成道山見星禅寺

19dsc01815

 明石原人発見者 直良信夫博士生誕の地。

 「     直良信夫生家
 
 もともとは長屋だった建物の、最も切通し側の長屋が直良信夫博士の生家です。

 直良信夫は戦前・長らく独学で考古学・人類学の研究を行い、日本での旧石器時代研究のきっかけを作った「明石人骨」を発見し、松本清張の小説「石の骨」のモデルになりました。

      臼杵市  」 

 昭和6年(1931)、明石郡大久保村西八木海岸で更新世人類顴骨を発見。後に「明石原人」と命名される。

 昭和20年、空襲で「明石人骨」焼失。

 昭和25年(1950)、栃木県葛生町で「葛生原人」を発見。

20dsc01817

21dsc01822

23dsc01826

 < 臼杵城 >

24dsc01833


 吉丸一昌の像。

 早春賦(春は名のみの 風の寒さや 谷の鴬 詩は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声もたてず)の作詞者。

 東京音楽学校の教授だったが43歳で亡くなっています。

24dadsc01834_2

26dsc01836

27dsc01838

28dsc01839

 「臼杵城は弘治5年(1556)大友義鎮(おおともよししげ、宗麟)によって建てられた城です。

 臼杵城が築かれた丹生島は文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。

 守りの堅いその地の利生かして、この地を城郭にしたと考えられます。

 大友氏改易後は、福原直高、大田一吉と城主が替り、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余りの主として臼杵城に入ります。

 以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。

 その後明治新政府の廃城令により、卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきやぐら)、畳櫓(たたみやぐら)以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。

 現在は臼杵の歴史のシンボルとして皆さんに親しまれています。

         臼杵市教育委員会        」

29dsc01842

30dsc01858

 本丸跡に臼杵護国神社と稲葉神社があります。

31dsc01851

 「     佛狼機砲(ふらんきほう)(国崩・クニクズシ)

 天正4年(1576)ポルトガル副王より大友宗麟公に大砲が贈られました。

 これは日本人がはじめって手に入れた大砲といわれています。

 宗麟公はその大砲を「国崩」と名付けて、それをもとにした大砲を量産し、臼杵城に備え付けていました。

 この大砲は複製品であり、原型は16世紀に大友氏が所有した後、薩摩藩主島津氏の手にわたり、明治維新後に靖国神社に献納されたと伝えられています。

             大分県臼杵市      」 

 随分と前のことだが遠藤周作の「王の挽歌」を読んでから、臼杵城のことが気になっていたので、宿題を一つ片づけたような気持ち。

32dsc01845

 臼杵造船所

34dsc01853
 
 臼杵港。津久見島、沖無垢島、無垢島。

35dsc01862


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月15日 (火)

瑠璃光寺・サビエル記念聖堂

 < 瑠璃光寺 >

1dsc01470

2dsc01384

 抜群のプロポーション。美しいですね。

 瑠璃光寺五重塔は京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものと並んで、日本三名塔と呼ばれることがあります。

 「塔の高さは31.2メートルで総檜造りの和洋形式で、一部唐様の部分もある。

 特に初層の須弥壇が円形であるのは珍しい。

 又、二層には手摺りがある。」

 国宝です。

 「この五重塔は、大内氏二五代義弘が応永六年(1399)応永の乱で、泉州堺城にて戦死したので、弟の盛見がその菩提を弔うため、この地にあった香積寺の境内に建立したもの。

 その建立は応永十一年(1404)と伝えられていたが、大正四年、塔の解体修理を行ったとき、「嘉吉二年二月六日」云々と墨書のある巻斗(現物は資料館に展示してある)が発見されたので、竣工は嘉吉二年(1442)であるとされている。」

 「毛利氏が元和二年(1616)萩城構築に際して、ここにあった香積寺を用材に解体し、塔も解体されそうになったので、町民が、此の塔は大内義弘の菩提を弔うために建てられたお墓だから是非残してもらいたいと、時の町奉行に嘆願書をだした。

 町奉行はこれを了承して、塔は存置されることになった。

 この嘆願書の写しが寺に残っていて、現在資料館に展示されている。」 

 (「曹洞宗保寧山瑠璃光寺」(瑠璃光寺資料館 発行)から)

 瑠璃光寺資料館には日本にある主要な五重塔55基の100分の1模型が揃えてあって、五重塔の博物館といった趣があります。 

4dsc01391

5dsc01392

 「瑠璃光寺は曹洞宗で、永平寺と総持寺を両本山とし、山号は保寧山という。」

 「陶氏六代弘房が応仁の乱、京都の相国寺の合戦で応仁二年(1468)に戦死したので、夫人が夫の菩提寺として文明三年(1471)に周防国仁保村小高野に一寺を建立、寺号を安養寺と称した。」

 明応元年(1492)隣山に、さらに一寺を建立し寺号を瑠璃光寺と改めた。
 
 天正十四年(1586)、この寺が吉川元春の霊牌所とされた折には海翁寺と改められたこともあったが、名刹の由緒ある寺号が惜しまれて、元の瑠璃光寺に戻された。

 慶長九年(1604)毛利輝元が香積寺を萩へと移したため、その跡地に元禄三年(1690)仁保村小高野の瑠璃光寺が移転してきて、これが現在の瑠璃光寺になったのです。

 江戸時代には大伽藍があったらしいが、慶応四年の神仏分離令や廃仏毀釈等の影響により、伽藍縮小を余儀なくされたらしい。

6dsc01403_2

 大内弘世(1325~1380)公の像。

 大内氏は周防国国庁の最高役人として、周防権介(ごんのすけ)の地位にあり、吉敷郡大内村(山口駅から仁保駅あたりで、JR山口線の東側)に住んでいた。

 観応の擾乱(1349~1352)が起こると、大内氏は足利尊氏から、直義・直冬の勢力へと寝返ったりしたが、常に南朝の側に付いて戦いました。

 正平五年/観応元年(1350)、弘世は父の弘幸とともに、光良親王を奉じて周防の制圧に乗り出し、幕府方の周防守護代の鷲頭(すどう)氏と抗争。

 正平8年/文和二年(1353)、鷲頭氏が大内氏に降伏し、周防が平定され、弘世は南朝から周防守護職に任ぜられた。

 正平十年/文和四年(1355)、弘世は長門国守護・厚東(ことう)氏が幕府方と直冬方に分裂したのに乗じて、長門へ勢力を伸ばし、正平十三年/延文三年(1358)厚東義武を九州に追いやり、南朝方の周防・長門守護となり防長統一を成し遂げた。

 二代将軍・足利義詮は斯波高経の献策により、防長両国の守護職を認めることを条件に弘世に北朝への復帰を促し、正平十七年/貞治元年(1363)、弘世は直冬と南朝に見切りをつけ北朝に帰順した。

 正平二一年(1366)、足利直冬率いる南朝勢力を石見から駆逐した功績により、弘世は石見守護に任ぜられている。

 「弘世は大内村を本拠とする地理的条件よりも、軍事的に交通的に好条件である山口に館を移した。

 その年代については、山口古地図(山口県図書館蔵)に「延文五年(1360)範を京都にとって町割りをした」との意味が記入されているほか、何の文献も見あたらないので一応このころとしておく。」 

 「山口盆地は東西と北の二面が山に囲まれており、南に平野が開けていること、賀茂川ともいうべき一ノ坂川が盆地を貫流し、淀川ともいうべき椹野(ふしの)川に注いでいる地勢は小京都を思わしめる。

 また陰徳太平記という本では「車ぬかりて通り難しとて、山口五里四方深さ五尺許りに小石を埋められたり」とか「一町ごとに京童六人ずつを招き下して、田舎言葉を正そうとした」との伝説を載せている。

 なお弘世が京都の三条氏の娘を妻とし、祇園社や北野天神を勧請し、何大路、何小路の京都風の町名まで移したことは、弘世の京都文化へのあこがれが、山口の新都市計画に盛られたものであろうか。」

 「大内弘世は貞治二年(1368)に北朝方に転向し、翌年京都へ行って将軍足利義詮に会った。

 「太平記」という本では、弘世はこの時「在京のあいだ数万貫の銭貨、新渡の唐物(からもの)等」を派手に振る舞って京都での人気を得ているが、大内氏は海外貿易によって相当の財力を持っていたようであり、山口の町造りに大きな力となったであろう。」

 (「やまぐち郷土読本」(山口市教育委員会)」

7dsc01387_2

8dsc01468_3

 < 毛利家墓所 (香山墓所) >

9dsc01454

10dsc01463

 第十三代萩藩主毛利敬親と妙子夫人、第十四代(最後の藩主)毛利元徳と安子夫人、元徳の子・毛利元昭と
美佐子夫人の墓。

 毛利家墓所は萩の大照院・東光寺・天樹院にもあって「萩藩主毛利家墓所」として国史蹟に指定されています。。

 文久三年(1863)四月十六日、毛利敬親は藩庁を萩から山口へと移転させています。

 その理由について、敬親は幕府に提出した移城の申請書のなかで次のように言っています。

 「萩城は、阿武郡の片隅に位置し、土地も狭く人口も少ない。

 しかも北辺にあって交通が不便なので、もし外国の攻撃を受けたときは領内の連絡もむずかしいし、赤間石・三田尻・室積など瀬戸内の要港を危険にさらすことにもなりかねない。

 これでは、せっかく決められた攘夷実行の期待にそむく結果にもなりかねない。

 その点、山口はほぼ中央にあって、万一のとき、領内の指揮をとるにも都合が良い。

 この地には簡単な防塁を築くだけで、大規模な城を構えるつもりはなく、また家来も、手近に必要とする者だけを置く考えなので、山口への移転を認めてほしい。」

 「山口移鎮直後の5月10日、長州藩は、下関海峡を通過する外国艦船を砲撃し、このため各地の尊王攘夷派の意気は大いに上がって、尊皇攘夷運動は最高潮に達した。

 しかし、いわゆる文久3年8月18日の政変から、長州藩は一転して苦境に立たされることになった。」

 < サビエル記念聖堂 >

12dsc01479

13dsc01477

14dsc01481

 普通にはザビエルと呼ばれているが、サビエルと発音するのが正しいらしい。

 「      大内義長の裁許状

 大内義隆の庇護のもとに山口においてキリスト教の布教に当たっていたフランシスコ・サビエルは、1551年後事を弟子のトルレス等に託して九州に渡った。

 その後山口では陶晴賢の乱が起こり、義隆は討ち死にした。
 
 晴賢は大内氏の跡継ぎとして九州の大友義鎮(宗麟)の弟・義長を迎えて大内氏を継がせた。

 義長は九州でサビエルに会っていたので、1552年山口にくると早速トルレスに教会建立許可の裁許状を与えた。

 これにより山口に日本最初のキリスト教会が建立されたのであった。

 その裁許状の写しはヨーロッパに送られたが、それが1574年の「ケルン版ラテン語東洋イエズス会書簡集」に掲載されている。

 この碑はその本から複製したものである。」

15dsc01493

16dsc01482

 < 亀山公園 >

 亀山は山口市街地のほぼ真ん中に位置する小高い丘です。

 明治20年代に公園として整備され、忠正公(毛利敬親)御由緒会(山田顕義、井上馨、伊藤博文等が会員)によって建立された、毛利家と支藩の藩主6名の銅像がありました。

 しかし昭和19年、銅像群は金属供出で溶かされてしまった。

 現在の毛利敬親公像は、昭和55年(1980)、山口市制施行50周年を記念して新たに建てられたものです。
 
17dsc01483

18dsc01490

19dsc01491

 < JR新山口駅前の種田山頭火句碑 >

 「まったく雲がない 笠をぬぎ」

Dsc01496


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月 6日 (日)

姫路城と岡山城

1dscn0521_3

2dscn0607_2_2

3adscn0604_2_2

 黒田官兵衛が修理した石垣

3dscn0530

4dscn0533 6dscn0542

6edscn0578 7dscn0549

7edscn0557 8dscn0555

 大天守最上階(6階)の刑部(長壁と表記されることも)神社。

 御祭神の刑部(おさかべ)大神は姫山の地主神で、火災・災害等に霊験あらたか。

 刑部神社は、延喜式にも載っている由緒正しい神社で、築城後は城内に祀られていたが、明治12年に天守最上階の現在地に移築されたとのこと。

10dscn0564

12dscn0584

13dscn0588

 下の写真は2007年の姫路城。

14img_1019_2_2

15img_1032_2_2

17000056

18000059 19000063

20000064 21000066

22000072 23000075

24000079_2

25000088_2 25e000089_2

26000095

27000085

28img_1050_2

 後楽園

 私は、どうも池泉回遊式の大名庭園というのが好きではない。

 氏育ちのせいかも分らんが、庭園はコジンマリしている方が心地よい。

30img_1043_2

29img_1042_2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月18日 (火)

織姫神社・鑁阿寺・足利学校

 < 織姫神社 >

Dsc00933

Dsc00966 Dsc00960

Dsc00953_2 Dsc00949_2

 御祭神は天御鉾命と八千々姫命。

 宝永二年(1705)の創建。

 明治時代に通4丁目・八雲神社から織姫山に遷座。

 現在の社殿が完成したのは、昭和12年(1937)のことでした。

 30年ほど前に足利を訪ねたことがあった。

 当時は社殿も彩色されておらず地味な感じで、社叢の樹木も疎らだったように覚えている。

 Wikiniには「織姫神社は一時衰退したが、平成期になってから再興された」とあります。

 美しい神社になってよかった。

 織姫神社の後ろの山を、尾根づたいに1時間ほど(だったと思う)歩くと、足利神社というのがあった。

 室町幕府を建てた足利氏は源氏の頭領であったが、それ以前には藤原秀郷の子孫の足利氏が、この地を領しており、その城跡に建てられた神社です。

 境内にタブの巨木が繁っていて「タブの木の北限地」との標識があった。

 遊歩道が整備されたらしいから行ってみるかと一瞬その気になったが、炎天下に二三時間の強行軍は、ヤッパ無理だと考え直す。

 参道の階段をおりたところで、社殿の西側に石室が覗ける小さな古墳があったことを思い出した。

 迂闊であった。

Dsc00939

< 鑁阿寺 >

Dsc01028 Dsc01019

Dsc00982

 鑁阿(ばんな)寺の正式な寺号は、金剛山仁王院法華坊鑁阿寺です。

 御本尊は大日如来。

 新義真言宗であるが、昭和26年(1951)に真言宗豊山派から独立して大日派と称しています。

 鑁阿寺は、元は足利氏の居館であったので、四方に門を設け、周囲に土塁と堀が巡らされています。

 足利氏宅跡として国指定史跡になっています。

 建久七年(1196)足利義兼(戒名は鑁阿)が館に持仏堂を建立。

 文歴元年(1234)、足利義氏が伽藍を整備し、足利氏の氏寺になりました。

 正安元年(1299)建立の本堂は国宝。

 鐘楼、経堂や仏具文書類が重要文化財に指定されています。

Dsc00978 Dsc00989

Dsc00997 Dsc01008

 < 足利学校 >

Dsc01120 Dsc01041

Dsc01066 Dsc01069

 孔子像と小野篁(おののたかむら)像。

 足利学校の創立年代については諸説あって、その一つに平安時代に小野篁が建てたとする伝承があります。

 小野篁が孔子廟に祀られているのは、このためです。

Dsc01074

Dsc01080

Dsc01086 Dsc01090

Dsc01094 Dsc01100

Dsc01107 Dsc01035


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月18日 (日)

神宮寺と若狭彦・若狹姫神社

、 < 鵜之瀬と「お水送り」 >

1dsc01218_02

2dsc01220

 鵜之瀬。福井県小浜市下根来(しもねごり)。

 奈良東大寺修二会の「お水取り」に10日先だって、鵜之瀬では「お水送り」の神事が斎行されます。

 修二会とは、国家行事であった大祓(おおはらい)や祈年祭(としごいまつり)に対応する仏教行事で、官寺仏教・護国仏教化が進んだ700年前後に、各地の神宮寺や護国寺において行われるようになりました。

 東大寺の修二会では、二月堂の十一面観音に連行衆とよばれる精進潔斎した行者が、過去の罪障を懺悔しその功徳によって、仏法興隆・天下泰安・万民豊楽・五穀豊穣などを祈る法要行事がおこなわれるのです。

 東大寺修二会は、初代東大寺別当・良弁の弟子であった印度(と言われている)僧実忠が、東大寺入仏開眼法要のあった天平勝宝四年(752)年、二月堂(十一面観音悔過処=上院)を創建し、二月一日から、十一面観音悔過行法を行ったことに始まります。

 以下は神宮寺・寺誌」(「お水送り」と「お水取り」ー若狭神宮寺から奈良東大寺へ」(若狭神宮寺別当尊護記)から。

 「この修二会は二月一日から十四日までの二週間毎日六回の六時行法で修法されたが、その第一日に日本国中の神々の神名帳を読み上げ、神々に守護と福祐を請うわれたので、全国の神々は次々と影向(ようごう)されて守護と福祐を授けられたが、若狭の遠敷明神(彦姫神)は遅刻されてすぐには影向されず、ようやく行法も終りに近い十三日午前一時過(十二日夜半)に二月堂に影向されたのである。

 その修二会の有り難い行法に遅れたのは若狭の海で漁が忙しく、それに取り紛れて出発が延引したので誠に申し訳ない、そのお詫びのしるしに十一面観音にお供えする阿伽水を送ろうと約束されて神通力を発揮されて二月堂の下まで水を導き、大地を穿って白と黒の二羽の鵜を飛び出させたので、その二つの穴から泉が湧き出したのである。

 この泉が若狭井であり、その井戸から水を汲み上げる行事がお水取りであるが、これは修二会の中の一時間程の行法である。」

 「そのお水取りの若狭井の水源は若狭神宮寺の前に流れる遠敷(おにゅう)川の約1、.5キロ上流にある鵜之瀬である。」

 「その鵜之瀬において古来から神願寺が毎年旧暦二月二日に奈良東大寺の「お水取り」に呼応して修二会や大護摩の後お香水や松明を持って行き「お水送り」の神事を行ったのである。

 そのお水送りの神事の一部の山八神事は初めから鎌倉時代まで下根来白石神社の講坊(長床、ながとこ)で行っていたが、南北朝時代の、正平四年以後は東大寺鎮守の手向山八幡宮を下根来神ノ谷(こうのたに)に迎えたその講坊で行うことになったのである。

 この山八(やまはち)神事は明治維新の国家神道の方針であった神仏分離廃仏毀釈による弾圧のときもひそかに続けられ、今日まで継承されているが、若狭神宮寺や鵜之瀬で行う送水(そうずい)神事は国家神道の目がきびしく、幾度か中絶の止む無き状態にあったのを漸く昭和三十六年から全部の神事を復活することを得たのである。」

 「この修二会の行法は十一面観音信仰者の実忠和尚が印度から中国や韓国を経て伝えられた火と水の祭典で、その根本的な目的は農耕祈願に重点を置く天下泰平庶民安楽消災招福を祈願する行法で、毎年二月十七日から始まり・・・・・・・

 これは東大寺修二会が新暦三月一日に始まり、お水取りも三月十三日午前一時半過に行われるに伴い、若狭神宮寺の修二会も新暦に変更され従って山八神事やお水送り神事も友に新暦三月二日になったのである。」

 「第六の法螺の音を合図に水師は水司(みずかさ)や承任(じょうじ)を従え一部の行衆も随伴して、川に架かった橋を渡り対岸の鵜之瀬の深淵の近くに立ち、先ず送水文(そうずいもん)を水師が読み上げて淵に流し、九字の印を結んで法刀を抜いて水切りの神事を行ってから、香水筒の栓を抜いて御香水を淵へ注ぎ流すのである。

 この香水流しが終わると水師以下は元の護摩壇の位置に戻り、一同結願作法にうつって大護摩の火が衰える頃、第七の法螺の音を合図にお水送りの神事を修了するのである。」

4dsc01223 5dsc01225

 お水送り(神宮寺の絵葉書から)

4fdscn0349

 二月堂(十一面観音悔過所=上院)と若狭井(閼伽井)。

 井戸の脇の杉の木は「良弁杉」とよばれる。

 東大寺の初代別当である良弁の出自については、相模国で漆部(ぬりべ)氏とする説、近江国・志賀里で百済氏とする説、若狭国・小浜の秦氏とする説などがあります。

 当時の大和で第一の名僧といわれた義淵僧正に法相宗を学び、東大寺の前身である金鐘寺で華厳宗を講じ、752(天平勝宝4)年4月、東大寺の大仏開眼供養が行われると、初代東大寺別当に就任し、聖武太上天皇の看病禅師となって法力を傾けました。

 前半生については分っていないが「寺誌」では、根来の白石明神に任えていた秦(はた)の常満という長者の一子が神童であったので、神願寺(神宮寺)の開祖・和赤麿(わのあかまろ)が義淵に預けて弟子としたとあり、若狭と平城京の関係を強調する見方を獲っています。

4fimg_0019_2

< 神宮寺 >

6dsc01240

 霊王山神宮寺。福井県小浜市神宮寺。

 パンフレット「若狭神宮寺の略歴」から、いくつか興味深いトピックスを拾ってみると・・・・。

 和銅七(714)年、若狭彦神の直孫和朝臣赤麿公が金鈴を地主長尾明神と祀り鈴応山神願寺を創建する。

 霊亀元(715)、元正天皇の勅願寺となり、若狭彦姫神を根来白石より迎え神仏両道の寺とする。

 wikiによると泰澄の弟子の沙門滑元が創建したことになっているが、「寺誌」では和赤麿とされている。

 絵葉書には「御開祖は和朝臣赤麿『沙門滑元』と伝承されます」とあるから、同一人物なのでしょう。

 (「若狭歴史博物館 常設展示図録」によると「若狭神宮寺縁起」では滑元に、「類聚国史」では和赤麿になっているらしい。」

 大体において北陸地方の古刹は泰澄上人かその弟子が創ったことになっています。

 この赤麿という人は若狭の租遠敷明神若狭彦の直孫での祝部(はふりべ)で、現在の若狭神宮寺の背後の龍王(ながおう)の山を神山と崇拝する山岳修行者でした。

 「薬師如来と十一面j観音安置して仏堂に祭り、さらに根来から白石明神をお迎えして仏堂に横に社殿を建て、遠敷大明神と祀り、薬師如来の化身が遠敷大明神の若狭彦、十一面観音化身が若狭姫であるとの神仏合体の寺院建てて、鈴応山神願寺」となったとされている。

 宝治二(1248)年、若狭彦神社を造営し別当寺となり神宮寺と改称し、鎌倉幕府祈願寺社七大寺七大社の内に加えられる。

 天文二十二年朝倉義景の寄進を受け本堂再建。現存する本堂はこの時建てられたものです。

 天正元年(1572)、若狭守護職武田元明を山内桜本坊にかくまう。

 天正十年(1582)、武田元明明智光秀に同盟の罪、切腹させられる。 
 
 天正十六年(1588)、神宮寺と若狭彦神社の荘園を秀吉が全部奪う。

 明治4年(1871)、明治4年国家神道により若狭彦神社を国幣社とされ、神宮寺境内遠敷神社も神仏分離令により、社殿を毀し、神体を差出させられる。

 身代わりを出し神体(現存)は本堂に秘蔵する。

 神宮寺は終始一貫して神仏習合だったから、これはショックだったことでしょう。
 
 なお「お水送り」の神事が始まったのは、室町時代とする説もあるようです。。

6edsc01243 6tdsc01229

 スダジイの大木。推定樹齢500年

7dsc01232

 遠敷明神社

8dsc01237

9dsc01235

 神宮寺内陣は暗くてよく見えないので、絵葉書で。
 
 本尊は薬師如来、脇侍は日光菩薩・月光菩薩で藤原時代末期。

 十二神将、千手観音、不動明王などは平安末期から鎌倉初期の物らしい。

10dscn0350

< 若狭彦神社・若狹姫神社 >

 神宮寺蔵の若狭彦・若狭姫(遠敷明神)像。鎌倉時代。
 
20edscn0352 20fdscn0353

 若狭彦神社(上社)。小浜市竜前(りゅうぜん)。

 御祭神は彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)(=山幸彦)

 若狭姫神社(下社)。小浜市遠敷。

 御祭神は豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)

 上社と下社を合せて若狭彦神社、若狭一之宮遠敷上下社、遠敷明神などと称す。

 和銅七年(714)九月、下根来村の白石(鵜之瀬のやや上流)に若狭彦神が影向せられたので、鵜瀬川のほとりに仮殿を営んで奉斎し、翌霊亀元年(715)九月、竜前の現社地へと遷座した。

 養老五(721)年二月下社を創祀。  
 
12dsc01245_2 13dsc01247_2

14dsc01250

 若宮神社。御祭神は鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

15dsc01252

 若狭彦・若狭姫は、名前からして、若狭の国つ神に違いないと思っていたので、ヒコホホデやトヨタマヒメが祀られていたことに意外の感をもった。

 また神宮寺と遠敷明神社が同じ時期に、同じ人物「和赤麿」によって創祀されたことが実に興味深い。

 役行者についても言えることだが、山岳修験の行者はほとんど採鉱の民と重なっているのです。
 
 和赤麿は遠敷川の上流・根来(ねごり)を本拠地とする朱丹の長者で、白石に奉戴された遠敷明神は朱丹のカミで、ことによると丹生都比売と呼ばれていたのではなかろうか。

 遠敷神社と神願寺がほぼ同時に創られて、いきなり神願寺が元正女帝の勅願所になるなど、あり得ないことのようにように思われるかも知れないが、元正天皇の母親・元明天皇が平城京遷都や和同開珎の鋳造のために各地に資源探索の手を伸ばしていたことを顧慮すれば、赤麿と朝廷とは、それ以前から連絡があったとみるべきでしょう。
 
 「寺誌」に「和銅七年に奇瑞が起こったのである。その礼拝していた龍王山の空に紫雲が棚引きその中から鈴の音が響きわたったので、天の神に祈られること七日を経て空より金鈴が天降ったから、この金鈴を地主の神那伽(なが)王明神として龍王の山に祀られたのである。」とある。

 和赤麿は龍王(ながお)山に、おそらく金鈴=金鉱脈を探り当てた(と思った?)。

 鈴応山神願寺は、この金鉱脈=神那伽王明神を護るために建られた神護寺だったのでしょう。

 龍前(りゅうぜん)の地に遠敷大明神を奉斎したのは、採掘のための基地造りの意味合いがあったとおもわれます。

 福井県に金山があったという話は聞いたことがないので、黄鉄鉱か何かを錯覚したか、金であったとしても僅かな量でしかなかったので、期待外れに終わったのでしょう。

 聖武天皇も大仏建立で金の調達に苦労している。

 しかし金は駄目だったが、大仏の塗金に用いる水銀の供出で、遠敷明神の出番が再び巡ってくることになったのです。

 伝承に、修二会の神々の参集に遠敷明神が遅刻したというのは、そのことを言っているのです。

 朱丹に関ったと思われる「丹生神社」は各地に多いが、祭神は大概、ミズハノメやタカオカミに替えられている。
 
 遠敷明神の神格が分割されて、若狭彦=ヒコホホデミ、若狭姫=トヨタマヒメとなり天津神の系譜に連なったのは、養老五年(721)のことだと思います。 

16dsc01296 16dsc01291

17dsc01288

 市街地にあるので、若狭姫神社のほうが繁盛しているようです。

 若狭彦神社は遠敷明神という名前のせいで、畳やカーペット、フローリング業者の参詣が多い。

 若狭姫神社は安産・育児の霊験があらたかです。

 能舞台、「乳神さま(銀杏の木)」、子種石。

18dsc01279 19dsc01287

 弁財船・海幸丸の10分の1模型。

 弁財天を祀った船です。

 これはいわゆる千石船で、積載量は約150トン、全長30メートル。

 江戸時代後期に、上方で製作され、船で運ばれて来て、奉納された。

20dsc01たた4

< 遠敷川・根来・鯖街道 >
 
21dscn0339 22dscn0354

 「『遠敷』については、和銅五年(712)十月銘の平城京出土木簡に『小丹生郡』とみえる一方、翌年銘の平城京出土木簡には「遠敷郡」と記されています。

 この変化は『続日本紀』和銅六年五月甲子条の『機内七道諸国の郡郷名は好字を付けよ』という命令によるものと考えられます。

 『丹生』は、水銀朱(丹土・辰砂)を産出する地の意味、『小』はそれを称える意味があるとされ、遠敷がもともと『小丹生』としるされていたことはわかりますが、好字として『遠敷』の漢字が当てられた理由については不明です。」

 (「若狭歴史博物館常設展示図録」から)

 「根来」の地名も各地にあるが「丹(ニ)+凝(コ)り」から来たもので、丹土の集まるところからきたものです。

 赤麿の「赤」はもちろん「朱丹」、白石の「白」は「水銀」の意味です。

 さて

 天平十五年(743)十月十五日、聖武天皇、「盧遮那仏造営の詔」。

 ところがこの後、聖武天皇は恭仁京、紫香楽京、難波京と都を遷したので、工事が始まったのは平城京に戻った天平十七年以降のことです。

 天平勝宝四年(752)四月九日、東大寺盧舎那大仏開眼供養。

 「続日本紀」や「東大寺要録」では、既に大仏殿が完成しているように記されているらしいが、大仏殿が完成したのは孝謙天皇の天平宝字二年(758)です。

 また大仏の向背まで出来て、大仏が完成したのは光仁天皇の宝亀二年(771)のことでした。

 開眼供養のときも鍍金されていたのは仏像の一部だけでした。

 大仏建立には、銅ー499トン、金ー400キログラム、錫ー8,5トン、水銀ー2,5トンが使われた。

 錫については「続日本紀に」文武天皇の時に伊予国からシロナマリ(錫と鉛の合金)が献上されたとある。

 銅については和銅元年(708)、武蔵国の秩父郡から和銅(あるいは熟銅(にぎあかがね=精錬を要しない自然銅)が献じられ、元明天皇は喜んで、慶雲五年を改め和銅元年とせよとの詔を下しています。

 天平二十一年、陸奥国国守・百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)が、管内の小田郡で黄金を発見したと報告。

 聖武天皇は大感激して、盧舎那大仏に御礼を申し上げて、天平二十一年を天平感宝元年に改元する詔を下しました。

 (「アイヌ学入門」(瀬川拓郎/講談社現代新書)」で著者は、陸奥国の金は、アイヌとの交易で蝦夷地や千島からもたらされたのではないかと言っている。)

 水銀は金と混ぜて鍍金(金メッキ)に使用されました(水銀アマルガム法)。

 鋳造仏に金・水銀アマルガムを塗布してから、周囲で炭火、焚き火をして水銀を蒸発させるというやり方で、熱気の拡散を防ぐため、屋内作業で行われたので、大仏の顔面など一部だけに鍍金した状態で開眼法要が行われたのでないかといわれています。

 大仏が未完成であるにも関わらず、開眼法要が急がれたのは、聖武太上天皇が、健康不安を抱えていたからです。
 
 遠敷明神が遅刻したというのは、あるいは鍍金作業が開眼法要に間に合わなかったことを表わしているのかもしれない。
 
 大仏造営の水銀には、根来の水銀が使われたと見て間違いないと思います。

 朱丹は縄文時代から魔除けや祭祀儀礼に用いられた聖なる顔料であり、弥生時代には、大陸への重要な輸出品でもありました。

 丹土の主要な産地は中央構造線に沿った地帯にあった。

 四国で西国88ヵ所の寺々が丹土の生産地に分布していることは、よく知られています。

 近畿地方では吉野川、紀ノ川の流域がこれです。

 古墳に朱丹が用いられたのは古墳時代の前期までで、以後朱丹の使用が見られなくなったのは乱獲によって朱土の鉱脈が涸渇したためです。

 遠敷の朱丹が、奈良時代まで残っていたのは、中央構造線とは独立した産地であったことと、若狭に膳部(かしわで)氏が進出し朝廷との結びつきが強まったのが5世紀と比較的遅かったためでしょう。

 また、飛鳥時代から鉛丹(Pb3O4=四酸化鉛)が顔料として用いられるようになって、東大寺のころには朱丹(HgS)の需要は減少していたのです。

 ところで、若狭井から黒白二羽、が、跳びだしたという伝承だが、弘法大師にも似たような話があります。

 「  丹生明神と狩場(高野)明神の導き

 密教の根本道場の地を求めていた弘法大師は、山中で狩人に化身した狩場明神に出会います。

 弘法大師は狩人が従えていた黒と白の犬に導かれ、天野の社で、丹生明神に出会い、ご神領である「高野」を授かります。

 後に弘法大師は高野山の中心である壇上伽藍に御社を建て両神を鎮守の神として祀られました。」

 (和歌山県観光情報「高野とは」から)
 
 狩場明神(高野明神)は丹生明神(丹生都比売)の息子で赤い顔をした八尺を越える巨躯であったそうです。

 (もっとも今昔物語では「大小の黒犬」となっている)

 白犬と黒犬は何を表わしたものか。

 陰陽五行説では、「木火土金水」に対応するのは「青赤黄白黒」であるから、黒犬=水・白犬=金(属)と考えるのが正解だろうが、ここは一つ、ザッハリッヒに、黒犬=砂鉄・白犬=水銀で行ってみたい。

 赤麿の「赤」・狩場明神の「赤」は、もちろん朱丹の「赤」です。 

 弘仁元年(810)、弘法大師・空海は、高雄山寺(神護寺)に身を置いたままで、嵯峨天皇の勅により、東大寺別当に任ぜられた。

 弘仁七年(816)、空海は、修禅の道場として高野山を賜りたいと願い出て、高野山下賜の勅許を賜っている。

 翌八年、空海は弟子の泰範や実恵を派遣して、金剛峯寺の開創に着手。

 空海が別当になった当時、実忠和尚は80代で猶健在であったらしい。

 そこで、「遠敷明神と黒白二羽の鵜」の言い伝えが受け継がれて「狩場明神と黒白二匹の犬」の伝承が成立したのではあるまいか。

 さて「寺誌」では、大いに勉強させていただいた。

 然し、お世話になっておいて、このように言うのは洵に心苦しいけれども、「寺誌」には気になる部分が、無きにしも非ずなのです。

 「寺誌」が説くところでは

 「飛鳥朝の古代から若狭地方の遠敷(朝鮮語ウォンヌー=遠くへやるとか遠くへ来て敷く意味の語が訛って乎
你布(おにう)となった)の地は新羅氏(白石に訛っている)が根来(ネゴリ、朝鮮語ネコール=我々の故郷の意味で新羅系発音で紀州のの根来は高句麗系発音のネコール)に根拠地をかまえていた部落国家の勢力ともいうべく、現代一般が称している「海のあるナラ」であったのである。」

 として、また若狭の語源は朝鮮語ワカソ(ワッソ=来るとカツソ=行くとの合成語)であるとか、奈良は朝鮮語のナラ(ウリナラのナラです)に由来するとか、どうもオカシナことを言っている。

 で、冊子の後ろを見てみると昭和55年に書かれたことがわかった。

 1970・80年代に万葉集が朝鮮語で読めるとか、古い地名を朝鮮語で説くことができるという説が流行ったことがあったが、これは所謂トンデモ学説でー興味のある方はネットで検索ー今では真面目に取り上げる人はいないのです。

 大体コリアには古代の文献が残っていないので、「記紀」にある「百済紀」や「新羅紀」の断片から、幾つかの単語の発音を再生している程です。

 そこで、コリアンは「音韻変化の法則」なるものをでっち上げて、15、6世紀の発音から「音韻変化」を遡行することによって古代語を再現できると言い出したが、15,6世紀ともなると朝鮮語には漢語が7,80パーセント入り込んでいるわけで、実におかしな事になってしまうのです。

 歴史の空中楼閣を築き上げるのにモノマニアックな情熱を傾注する、マッあの民族特有の精神疾患の一種なのではなかろうか。

 地理的に見て、若狭と半島の交流が繁く行われたことを否定するものでは勿論ないが、新羅氏なる氏族がやって来て「我々の故郷」を築いたなどというのは、荒唐無稽というよりほかない。

 若狭の地名については、アイヌ語で「美しい水」の意味だと聞いたことがある。

 こっちの方が正解ではないか。

 さて「ワッソ」のことだが、11月4日の「第27回四天王寺ワッソ」に安倍総理大臣が祝辞を送らなかったとかで、韓国マスコミが騒いでいるらしい。

 「ワッソ」は在日系の大阪商銀が中心となって在日企業などから資金を集めて1990年から、四天王寺境内で開催されたが、その後大阪商銀が破綻、4年間中断した後、2004年から「NPO法人大阪ワッソ交流協会」に大阪市が資金援助して難波京公園で再開されたのです。

 NHKでは未だに「ワッショイ」の掛け声のもとになったのは朝鮮語の「ワッソ」ですと紹介しているらしい。

 また古来からの日韓交流を今に伝える伝統行事として教科書にも載っているらしいが、実情を反映したものではない。

 200~2010年頃の、第一次だか第二次だかの韓流ブームの頃、山陽道の幾つかの都市で朝鮮通信使に因んだ通信使パレードやアリラン祭りが催され、通信史の衣装と称する派手派手しい韓服や掛け軸を揃えて記念館を造ったお寺もあったように記憶している。

 ああゆうのは最近トント噂にも上らないが、どうなっているんでしょうかネー。
  
24dsc01276 23dsc01275

 若狭から,丹波山地や比良山地を越えて、京都まで魚介類を運ぶ道筋は古くからあって、「鯖街道」と呼ばれていた(もっとも「鯖街道」という呼称は昭和になってからのもの)。

 鯖街道は幾つもあるが、遠敷川に沿って、遠敷の里を通り、根来坂、針畑峠を超えて、針畑越から鞍馬街道、出町柳に至るルートが「京は遠ても十八里」で、最も近道だったそうです(今は県道35号線になっている)。

 獲ったばかりの鯖に塩を振って、丸一日がかりで京都に着く頃には、丁度良い塩加減になったらしい。

 下の案内札は「鯖街道博物館」のもの。

Dsc01345

 なお朱丹、辰砂、水銀、丹生川などについては

 2017年11月22日「一之宮貫前神社」、2013年5月7日「根来寺」、2012年7月17日「室生龍穴神社」、

 2012年1月13日「丹生都比売神社(1)」、2010年6月15日「宇陀水分神社・葛木水分神社」、

 2010年5月15日「吉野水分神社(Ⅳ)」、2010年1月1日「平城京太極殿」、

 2009年8歺3日「吉野水分神社(Ⅲ)」、2009年4月26日「吉野水分神社(Ⅱ)」、

 2009年4月22日「吉野水分神社(Ⅱ)」、2009年3月18日「室生寺の杉の木」  

 なお「邪馬台国は『朱の王国』だった」(蒲池明弘/文春新書)、

    「火山で読み解く古事記の謎」(蒲池明弘/文春新書)

 面白いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月 3日 (土)

国家挙げての被害者ビジネス

 ✩日韓基本関係条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)(1965/6/22)から

 第二条:千九百十年八月二十二年以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結された全ての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。

 第三条:大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(Ⅲ)に明らかにしめされているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。

 第四条(a):両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。 (b):両締約国は、その相互の福祉および共通の利益を増進するに当たって、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。

 ✩日韓請求権協定(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)から

 第二条1:両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。

 (サンフランシスコ講和条約第四条(a)は、日本国によって放棄された地域で、日本国及び国民と施政当局及び住民との間に生じた請求権の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とするという内容。)

 ✩徴用工訴訟の韓国最高裁判決要旨(2018/10/31読売新聞)から

 ●結論(多数意見)

 「原告が求めている慰謝料請求権は、請求権協定の適用対象に含まれないと見なすのが妥当である」

 「原告は、未払い賃金や補償金を求めているのではない。この訴訟で問題となる原告の損害賠償請求権は、朝鮮半島に対する日本政府の不法な植民地支配と侵略戦争の遂行に直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする慰謝料請求権、いわゆる強制動員の慰謝料請求権だ。

 このような強制動員の慰謝料請求権が、請求権協定の対象に含まれると見なすことはできない。

 その理由として、請求権協定は、日本の不法な植民地支配に対する賠償を請求するための交渉ではなく、基本的にサンフランシスコ講和条約を根拠に、韓日両国間の財政的、民事的な債権・債務関係を政治的合意によって解決するためのものだった。」

 請求権協定1条によって日本政府が韓国政府に支給した無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力資金と、2条の定める(日韓両国民の)権利に関する問題解決とが、法的な対価関係にあると見なすことができるかどうかも、はっきりしない。」

 「請求権協定の交渉過程で、日本政府は植民地支配の不法性を認めないまま、強制動員被害に対する法的な賠償を根本的に否定した。

 このため韓日両政府は、日帝(日本)が行った朝鮮半島支配の性格について合意に至らなかった。

 このような状況で、強制動員の慰謝料請求権が請求権協定の適用対象に含まれると見るのは難しい。」

 「差し戻し後の2審で被告は交渉過程に関する証拠を追加提出したが、それらの証拠によっても結論が変ると見なすことはできない。」

 ●別個の意見2(2人)

 「原告の個人請求権自体は、協定のみによって当然に消滅したと見なすことは出来ない。

 協定のみにより請求権に対する韓国の外交的保護権が放棄されたにすぎないのであって、原告は今も、被害を訴える権利を韓国において行使することができる。」

 ●反対意見(2人)

 「原告の損害賠償請求権が請求権協定の対象に含まれると見なさなければならないという点では別個の意見2と同じだが、別個の意見2のように外交的保護権に限って放棄されたものと見なすのは妥当ではない。

 請求権協定によって原告の権利行使は制限されると見なさなければならず、原告は被告を訴える権利を行使することはできない。

 韓国(政府)は今からでも、強制動員の被害者に対して正当な補償をしなければならない。」

 ✩従来の韓国政府の見解と、日本の今般判決にたいする反応。

 多数意見にある「交渉過程に関する証拠」というのは、日韓条約締結の際の外交交渉の議事録のことで、この中で慰安婦や徴用工に対する賠償金は、韓国政府が一括して受け取ることになっている。
  
 個々人の請求権を積み上げていくようなやり方では、途方もない労力と時間がかかるのだから、両国の交渉当事者が一括支払いで政治決着したことは当然のことなのです。 

 これによって盧武鉉大統領は、2005年「徴用工問題は日韓請求権協定に含まれ、韓国政府が賠償を含めた責任を持つべきだ」という政府見解をまとめ、韓国国民の税金で徴用被害者およそ7万人に6200億ウォンの慰労金を払っている。

 文在寅は盧武鉉政権の大統領室長だったから当然このことは知っているはずです。

 ところが韓国大法院は、交渉議事録の証拠価値を無視して、請求権協定が名目上は、財産請求権に限定されていたという理由をもって「不法な植民地支配と侵略戦争の遂行」から来る損害賠償請求権は消えていないと言い出したのです。

 大法院は、日韓条約の無効化を図る文在寅の意向を汲んで、新たな「歴史カード」を捏造したというよりほかない。

 10月31日外務省は「これからは徴用工という表現の代わりに『旧朝鮮半島出身労働者』という用語を使うべき」との指針をだしている。

 これについて、11月1日安倍首相は衆議院予算委員会において「これは当時の国家総動員令には『募集』と『官斡旋』と『徴用』があったが、今回の裁判の原告は『徴用』ではなく、全部『募集』に応じたものであるため、『朝鮮半島出身労働者問題』と言うのが妥当」と説明しています。

 今回の原告4人は、判決にもあるとおり、当時の日本製鉄の募集に応じた人たちで、強制的でも徴用でもないのだから「徴用工裁判」と呼ぶのは誤りです。

 日本政府が2016年に軍艦島関連でユネスコに提出した報告書にもこの「朝鮮半島出身労働者」という言葉が使われています。

 10月31日朝日新聞は「徴用工判決『中国からも強制連行、全国135の事業所で4万人』中国に波及の可能性も」と報じている。

 朝日新聞がまた火付けを企んでいるようだ。

 11月1日、共産党の志位委員長は記者会見で「日韓請求権協定によって両国での請求権の問題が解決されたとしても、被害にあった個人の請求権を消滅させることはないということは、日本政府が国会答弁などで公式に表明してきた」と指摘。

 そのうえで、志位氏は「日本政府と該当企業は、この立場に立って、被害者の名誉と尊厳を回復し、公正な解決を図るために努力を尽くすべきだ」と述べました。

 (2018/11/1NHKニュース)
 
 共産党の見解は「別個の意見」に類似しているように思える。

 日本政府としては「反対意見」の立場で、請求権は残っているが、韓国政府が払うべきというよりほかない。。

 共産党は来年の参議院選挙で、外国人地方参政権付与と徴用工への「謝罪と賠償」を公約に掲げ、朝鮮総連や韓民団に助けてもらえば良かろう。

 韓国の政府機関や支援する財団に元徴用工・元軍属や遺族から「訴訟を起こしたい」「いま訴訟を起こせば勝てるのか」という相談の電話が相次いでいるという。

 韓国の政府と企業が元徴用工や遺族を支援するため2014年に設立した「日帝強制動員被害者支援財団」も連日。業務開始の午前9時から電話が鳴りっぱなし、財団職員は、元徴用工の遺族が大半で多くが、植民地時代を経験した70代や80代と語った。

 やはり訴訟の手続きを訪ねる人が多いという。

 (2018/11/2朝日新聞デジタル)

 「反人道的不法行為」による個人請求権は消滅していないとする最高裁の判断は、強制動員はもちろん韓国人原爆被害者や日本軍慰安婦被害者など他の「人道に反する不法行為」にも適用され注目される。

 (ハンギョレ新聞)

 韓国人はどうやら、打ち出の小槌でも手にいれたつもりになっているらしい。

 韓国には「反日市民団体」が多い。

 「日帝強制連行韓国生存者協会」、「太平洋戦争犠牲者遺族会」、「太平洋戦争犠牲者遺族会」「対日抗争期被害犠牲者全国連合会」、「第2次大戦韓国人犠牲者権益問題研究所」「全国日帝被害者連合会」・・・・・・

 真面目な団体もあるのだが、いわゆる「被害者ビジネス」で、会員になれば韓国政府や日本政府から金がもらえる、申請手続きを代行してやるなどの名目で「日帝被害者」を集て会費をとりたてたり、ゴロツキまがいの手法で寄付を強要したり、主宰者が詐欺や恐喝で逮捕されたりする団体もあります。

 (日本統治期に徴用、徴兵された人たちに「慰労金」を支給する制度が、韓国にはある)

 「すべての市民団体が怪しいわけではない。

 しかし、韓国社会には反日市民団体に倫理、道徳条の問題が浮上したら、それは反日運動の「傷」と「恥」になり、日本から嘲笑されるに違いないという思い込みがある。

 それゆえに、韓国社会は反日市民団体に対する検証と批判には消極的なのである。

 その結果、反日を標榜する似非の「市民団体」が乱立する。

 しかし、お金を取られる被害者が続出している中、関連団体の取り締まりを厳しくしないことは被害者だけを量産する結果になるのではないだろうか。」

 (「韓国が『反日国家』である本当の理由」(チェ・ソギョン/彩図社)から)

 韓国が作った「強制動員調査委員会報告書」の中には、徴用工訴訟の対象となる「戦犯企業」が2000社ほどリストアップされている。

 現在は70社の日本企業に対し15件の「徴用工訴訟」が系属に懸っているらしいが、反日市民団体が一斉に提訴して、賠償金の支払いや資産の差し押さえを命ずる判決が続出し、収拾がつかなくなるのではないだろうか。

 「2015年5月の差し戻し判決の際には、韓国政府(李明博大統領時代)は判決後4時間半あまりで、「請求権協定で解決済み」として大法院の判決を否定したが、今回は3日経った11月2日現在もまだその立場を明らかにしていない。」

 2012年、当時民主党統合常任顧問であった文在寅は、「元徴用工の個人請求権が消滅したというのはあってはならない」と話し、大統領になってから昨年8月15日の演説でも「被害者の名誉回復と補償、真実の究明と再発防止の約束という国際社会の原則がある」と言っています。

 そして文在寅は、昨年9月、春川裁判所長であった金命沫を大法院長官に任命している。

 大法院判事を経験したこともない者がいきなり長官に抜擢したこと、また金氏が、反日反米の裁判官の集団である「ウリ法」研究会の会長を務めていたこともあって、「司法の中立性」に対する不当介入が取り沙汰されました。

 そして判決前の27日には、韓国検察が、朴槿恵前大統領の意向を汲んで徴用工訴訟の進行を遅らせたとの容疑で林錘憲・前大法院行政処次長を逮捕している。  

 勝訴判決が文在寅によって用意周到に準備されたものであることは明らかです。

 「文在寅政権は革命政権なのです。

 国内外を問わず、気にくわないものは全て破壊する。

 この政権を産んだ2016~2017年にかけての朴槿恵打倒を大統領自身がフランス革命に喩えています。

 10月30日の韓国の大法院の「徴用工判決」は「日本の上に君臨する」ことを宣言する革命的なものでした。

 政権に近いハンギョレ新聞の社説「『裁判取引』で遅らされた正義ー徴用被害者もあの世で笑うだろうか。」は法的にも日本を下に置いたと勝利をうたい上げました。

 この判決さえあれば、慰安婦合意で失いかけた「歴史カード」を取り戻し、これまで以上に日本を思う存分にたたけるとの喜びがヒシヒシと伝わってきます。」

 (鈴置高史/日経オンライン)

 日韓基本条約を無効化して、北朝鮮と一緒になってー赤化韓国か高麗連邦かは知らないがー軍事的な威嚇で、日本から金を脅し取るという大戦略あるいは誇大妄想に捕らわれているようにしか見えないのです。

 (法文解釈の細かいことは分らんが、日韓条約第三条が統一への障害になるとムンが考えている可能性は無きにしも非ず)

 メディア報道は、反日ポピュリズムと日本政府の反発の板挟みで、韓国政府が苦慮していると伝えている。

 韓国の首相や外相が苦労しているということはまあ事実でしょう。

 「韓国外務省のノ・ギョクト報道官は、定例の記者会見で、『韓国政府としては、さまざまな可能性について検討している』と述べました。

 そのうえで、ノ報道官は『今回の判決が日韓関係に否定的な影響を及ぼさないよう、日韓両国が智恵を出し合う必要性を日本側に伝えてきている』と強調しました。」(1月30日NHKニュース)

 慰安婦合意についてカンギョンファは河野外相に「両国で智恵を出しあおう」と言っていたが、「慰安婦合意は破棄しない」といいながら、慰安婦像は撤去しないし、「和解・癒やし財団」は解散に追い込むしで、要するにこれは韓国お得意のダブル・スタンダードでしかないのです。

 徴用工判決でも同様で、「日韓関係に悪影響を及ぼしてはならない」と言いながらも、「大法院判決には従わなければならない」「民事訴訟に政府が関わることはない」などといって、事実上は乱訴を黙認する、というよりは裏で徴用工訴訟を煽って勝訴判決を累積し、日韓条約の無能化を謀る戦術にでる可能性が高いと思います。

 ともかく引き延ばし戦術というのか、判決の効果を既成事実化させては絶対だめです。

 「お互いに智恵」発言にたいして河野太郎外相は「100パーセント、韓国側の責任において考えることだ。そのつもりで交渉にあたる」としています。

 安倍晋三首相は、衆院予算委で「国際法に照らせばあり得ない判断。国際裁判も含めて、あらゆる選択肢を視野に入れる」と述べています。

 「韓国政府関係者によると、韓国は過去に、韓国企業、日本政府、被告の日本企業とともに4者が出資する財団を設立し、賠償金を肩代わりする案を水面下で日本に打診し、拒否された経緯があった。

 日本側に譲歩の余地は無く、文政権にも新たな妙案はないと思われる」(読売新聞)
 
 文在寅は、北朝鮮のことで頭が満杯だから、経済のことはどうでもいいのでしょう。

 文在寅は革命家の中でも「革命的祖国敗北主義」だとか「敗戦革命論」とか呼ばれる類に属しているようです。
 

 

 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月10日 (水)

御塩殿神社・伊雑宮と「太一」

 < 御塩殿(みしおどの)神社 >

1dscn1165

2dscn1172

 三重県伊勢市二見町荘

 神宮では「みしおどの」であるが二見町では「みしおでん」と呼んでいます。

 「     御塩殿神社

 塩筒翁(しおつちのおじ)の神がまつってあります。

 域内は皇大神宮の御料の御塩を調製する御塩殿、御塩焼所、御塩汲み入れ所があります。

 御料の御塩は夏の土用に町内の西地内にある御塩浜から運ばれた塩分の濃い海水を御塩汲み入れ所におさめ、これを御塩焼所で荒塩に焼きます。

 さらにこの荒塩を、毎年三、四回御塩殿において三角形の土鍋をもって堅塩(かたしお)に焼き固めて、これを御料に供えています。

 なお御塩の調進は昔から神領の二見郷の住民が奉仕しております。

             二見町教育委員会        」

3dscn1170

 < 伊雑宮(いぞうのみや) >
 
Dscn1088_2

 (↑神社前広場と神田)

 志摩市磯部町上之郷

 十社ある内宮・別宮の一つ。

 「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれることもあります。

 御祭神は天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめのおおみかみのみたま)

 鎌倉時代に書かれた「倭姫世紀」には、倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)を探して志摩国を訪れた際、伊佐波登美命が出迎えたので、この地が御贄地に選ばれ伊雑宮が創られたとされています。

5adscn1091

Dscn1095

 「  磯辺の御神田(おみた)ー御田植祭り

 重要無形民俗文化財指定

 毎年六月二十四日、志摩の夏を賑やかに彩る伊雑宮の御田植祭は、下総(千葉県)の香取神宮、摂津(おおさか)の住吉大社とともに日本三大御田植祭のひとつに数えられています。

 起源は、その踊込唄に「昔、真名鶴(まなづる)磯辺(いそべ)の千田(ちだ)に、稲穂落としたそのまつり」とあるように、磯辺に伝承される「鶴の穂落とし」の故事によるものと考えられ、古く平安期から鎌倉初期に行われ、現在の形になったのは室町時代と伝えられています。

 まつりは磯辺九郷と呼ばれた九地区の人々による輪番で行われています。
 
 神事は勇壮な竹取りの後、一転のどかな田楽に合わせた御田植となり、伊雑宮の一の鳥居に向けての踊り込み、そして境内での千秋楽の舞で幕を閉じます。

 この祭りは竹取り、刺鳥差(さいとりさし)の舞があるなど独特な形の御田植神事として貴重であり、国の重要無形民俗文化財として平成2年3月29日に指定を受けています。

      志摩市教育委員会     」

1000

20150505034234

 竹取神事とは、神田の中央に設置された「太一」と書かれた団扇(ゴンバウチワ)のついた忌竹(梵天ということもある)を、男達が泥だらけになって奪い合うもので、この竹の一片を船に祀れば豊漁になるといわれている。

 「太一(たいいつ、たいつ)」とは古代中国における宇宙の根源を表わす哲学的概念で、「大一」「泰一」「太乙」と書かれることもあります。

 神宮の式年遷宮の際の、御神木の奉曳のときにも「太一」の立て札が掲げられています。

 (下の写真は内宮参集殿の展示パネル)

7img_1952

 以下は「古代中国の文明観ー儒家・墨家・道家の論争」(浅野裕一/岩波新書)から。 

 「1993年に湖北省荊門(けいもん)市郭店の一号礎墓から戦国中期の竹簡(郭店礎簡)が出土した。

 その中には三種類の『老子』抄本や『太一生水』と命名された未知の道家の文献が含まれていた。

 「太一生水」には、宇宙の根源である太一から水が生じ、太一と水から天が生じ、太一と天から地が生じ、天と地から神と明が生じ、神と明から陰と陽が生じ、陰と陽から四季が生じ、四季から寒と暑が生じ、寒と暑から湿と燥が生じ、湿と燥により1年が完成するとのプロセスが示される。

 このプロセスは宇宙の発生から完成まで、どのように世界が分節化されていったのか、その段階を追うもので、「老子」とは異なる独自の宇宙生成論となっている。

 そして太一は宇宙が完成した後も水に潜んで世界中を周行し「周くして成すこと成(あ)り。

 生ずるを以て万物の母と為(な)る。

 一(ある)ときは欠き一ときは盈(み)たし,紀(す)ぶるを以て万物の経と為る」と。

 これは「物有り混成す。天地に先立ちて生ず。寂たり寥(びょう)たり。独立して改まらず。周行して殆(あやう)からず。以て天地の母と為すべし」とか

 「道は沖(むな)しくして之を用いるも或(つね)に盈(み)たず。

 淵乎(えんこ)として万物の宗に似たり」と、

 『老子』の道が万物発生後の世界をも背後で制御し続ける、宇宙の主宰者とされているのと同じ構造である。

 また『太一生水』には、

 「天道は弱気を尊ぶ。成るを省(はぶ)く者は生を益す者なり」とあり、強気を誇らんとする人間社会の在り方を批判する論点も含まれる。

 これに似た思考は「天の道は其れ猶お弓を張るが如し。

 高き者は之を抑え、下(ひく)き者は之を挙ぐ。

 余り有る者は之を損(へ)らし、足らざる者は之を補う」とか

 「堅強なる者は死の徒なり、柔弱なる者は生の徒なり」

 「果にして矜(ほこ)る勿れ、果にして伐つ勿れ、果にして驕(おご)る勿れ、などと『老子』にも見える。」

 「『太一生水』の発見は『老子』と異なる未知の道家思想が存在していたことを示すものとして、学会に大きな衝撃を与えた。」

 水に潜んで周行しもって天地の母とも見做すべき「太一」が農耕儀礼で鑽仰されるのはピッタリだと思うが、それだけではなく、「太一生水」にみられる水のシンボリズムは,大祓詞(おおはらえのことば=中臣祓詞)における水、太母(great mother)としてのアマテラスのイメージと響き合うようにも思えます。

 日本神話や祭祀儀礼に、道教の影響が強いことは、博く認められているといってよいであろうが、その道教がどのような形で伝わり受け入れられたか、詳しいことは分かっていない。

 空想に過ぎないかも知れないのだが、紀元前500年頃に呉越の戦乱を遁れて渡海した「原弥生人(鳥越憲三郎氏の説)」が、水稲耕作の技術とともにプリミティブな道教の民俗をも伝え来たったのではないだろうか。

 なお,私は日本神話は縄文と弥生の二層構造に成っていると考えているが、これを火(火山)と水のシンボリズムの重なったものとして理解することもできよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月30日 (日)

碧血(へきけつ)碑・土方歳三最期の地

/ < 碧血碑 >

Adsc_3981

Adsc_3974

 函館市谷地頭町

 「箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府軍脱走軍戦死者の霊を弔っているのがこの碧血碑である。

 碑石は7回忌にあたる明治8年(1875)、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。

 碑の台座裏に碑の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。

 なお碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という中国の故事によるものである。

     函館市  」
 
 荘氏・外物篇「萇弘は蜀に死す。其の血を蔵すること三年にして化して碧と為る」
 
 碧とは碧玉のことらしい。

 台座裏面「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表わす」」

Adsc_3977_2 Adsc_3972

 「柳川熊吉は安政3(1856)年に、江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造の祭には労働者の供給に貢献した。

 明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。

 新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集めると同時に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで熊吉は断罪を免れた。

 明治4年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。

 大正8(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。

         函館市 」

 新政府軍は、清水港でも会津でも、賊軍死者の埋葬を禁ずる布告を出している。

 見せしめのためということらしいが、むしろ新政府軍に対する嫌悪の情をかき立てる以上の効果があったとは思えない。
 
 明治元年8月19日榎本艦隊・開陽丸以下8隻の軍艦が品川を出航するも、房総沖で暴風雨に襲われ、艦隊は離散。

 咸臨丸は船体を破損して清水港に漂着。

 船体を修理中の9月18日、官軍の富士山、武蔵、飛龍の三艦に攻撃され、乗組員の遺体は港湾内に打ち捨てられたのです。

 それを知った清水次郎長(山本長治郎)遺体を収容し、向島の松の根元に埋葬。

 新政府軍により遺体収容を咎めるられた次郎長は、これを死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねたのです。

 榎本武揚は後に次郎長に、深い感謝の言葉を贈っています。

 榎本釜次郎(武揚)は、柳川熊吉の親分筋にあたる新門辰五郎とも親しく、辰五郎が死んだ後も、遺族の面倒を見て遣っています。

 侠客と親しくできたのは、釜次郎が下級武士の次男で、下谷御徒町(通称三味線堀)の生まれであったからかもしれない。

Adsc_3985

< 称名寺 >

 函館市舟見町(実行寺、高龍寺も舟見町)

 称名寺は政保元年(1644)円龍上人が亀田村(亀田八幡宮の辺り)に阿弥陀庵を建てたのが始まりで、宝永5年(1708)に富岡町(現弥生町)に移転。

 箱館開港当初はイギリスとフランスの領事館として利用されました。

 箱館戦争の時は、新撰組の宿舎として使われています。

 明治12年(1879)の大火で、本堂を焼失、現在の舟見町へ移転してきたのです。

 「高田屋嘉兵衛一族の墓」「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」があります。

Bdsc_0153

Bdsc_0156

Bdsc_0161 Bdsc_0160

 < 実行(じつぎょう)寺 >

Bedsc_0163

 実行寺も元は富岡町にあって、明治12年大火の後に現在地に引っ越しました。

 ペリー来航(1854)の時に写真スタジオが設けられ、箱館住民の評判になりました。

 フランス軍艦シビル号が入港したときには疾病水兵の療養所とされ、ロシア領事着任の当初はロシア領事館として使用されました。

 柳川熊吉は日蓮宗一乗山実行寺住職日隆上人と相談して放置遺体の収容にあたっています。

 熊吉の子分約600人が戸板を持って、街中から放置遺体を集め、実行寺、称名寺、浄玄寺の墓地に運んで仮埋葬しました。

 実行寺には796体が運ばれました。

 政府軍屯所に引っ張られた熊吉に死罪が申し渡されたが、軍監田島圭蔵が助命に働き、熊吉は難を逃れたのです。

 < 高龍寺 >

Cdsc_2895

Cdsc_2898

 髙龍寺は寛永10年(1633)、松前の曹洞宗報源氏の末寺として亀田村(現万代町辺り)に建てられた、函館市内で最も古い寺です。

 洪水の被害で亀田が衰退したため宝永3年(1706)弁天町(現在の入舟町)に移転。

 函館開港の折には、ロシア領事館一行の宿舎として使用されました。

 壮麗な山門は、明治44年(1911)に建てられたもので、彫刻が素晴らしいです。

 越後・柏崎で製作され、帆船で運ばれてきたのだとういう。 

Syousinn_2

 傷心惨目の碑

 箱館戦争最大の激戦があった明治2年5月11日、髙龍寺(当時は大黒町)に置かれていた箱館病院分院に、新政府軍の先鋒部隊(松前・津軽兵)が乱入し、医師・赤城信一と傷病兵を斬殺して寺に放火。

 この折り、会津遊撃隊の者が多数犠牲になった。

 明治12年髙龍寺が現在地・舟見町に移転した翌年、旧会津藩有志が、犠牲者を供養するためこの碑が建てられたとのこと。

 碑面「傷心惨目」は、唐の文人・李華「古戦場を弔う文」から採られたもので、南宋の忠臣・岳飛の真跡を写したものらしい。

  旧幕府脱走軍は、傷病兵を治療するため、高松凌雲を頭取とする「箱館病院」(舟見町)を開いていました。

 箱館総攻撃の5月11日、この病院にも久留米・薩摩藩兵からなる官軍が突入。

 凌雲は、抜刀してなだれ込む兵等の前に立ちはだかり、

 「ここにいるのは傷病兵ばかりだ。

 回復したらどんな処罰も受け申す。

 それまで待っていただきたい。

 われわれ医師はどのような処分も甘んじてお受けする。」と訴えた。

 隊長の薩摩藩士・山下嘉次郎は、殺気立つ兵士を押しとどめ、玄関に「薩州隊改め」と大書した紙を貼って、兵を引き揚げさせたのです。

 私が碧血碑のことを知ったのは「夜明けの雷鳴ー医師高松凌雲」(吉村昭/文春文庫)を読んだからです。

 < 土方歳三最期の地 >

 函館市若松町函館市総合福祉センター前緑地

 「新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は、鳥羽伏見の戦いの後、新撰組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。

 明治元(1868)年十月、蝦夷地に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並みの要職についた。

 翌二年四月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現北斗市)だけは最後まで落ちなかった。

 しかし同年5月11日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。

 土方は箱館山奪回を目指し、五十名の兵を率いて一本木(現若松町)の関門を出て箱館の市中に向かい、敢然と切り込んでいったが、銃弾に当たって倒れ、波乱に満ちた生涯を閉じた。

 時に三十五歳であった。

            函館市 」

 土方が戦死した場所については、異国橋の辺り(現在の十字街通り)とする説もあります。

Ddsc_3964

Ddsc_3963

 < 弁天岬台場跡 >

 「新撰組最期の地」とあります。

Img_0407

 < 五稜郭 >

Cdsc_3947

Cdsc_3948

 五稜郭の設計者・武田斐(あや)三郎の肖像。

 武田斐三郎は、伊予大洲藩士で、緒方洪庵や佐久間象山から洋学を学び、弁天台場、五稜郭などの設計・施工にかかわり、箱館奉行所に開設された「諸術調所」の教授でした。

 維新の後は、陸軍に入り陸軍大学教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校校長などを務めています。

 司馬遼太郎は、五稜郭は武田斐三郎がオランダの兵書を参考にして作っただけのもので、五角形の防塁も新政府軍のアームストロング砲の前には、全然役立たずだったといっています。

 巷説によると、この肖像の額に掌を当て、それを自分の額に当てると頭が良くなるらしい。

 受験生などには人気のスポットで、斐三郎の顔はピカピカになっています。

 私も、手遅れだとは思ったが、一応御挨拶ということでタッチさせていただいた。

 惚け防止の一助になればとのささやかな願いが無かったと申せば、嘘になるやも知れませぬ。

 (なお→2016年10月25日「五稜郭」) 

Cdsc_3952 Cdsc_3953

Cdsc_3939 Cdsc_3941

 < 亀田八幡宮、神輿殿 >

Edsc_3959

Edsc_3958

 亀田八幡宮は室町時代に、越前国敦賀郡気比神社より、八幡大神の御分霊を奉遷したのが起源とされている。

Edsc_3956

 5月12日、政府軍総参謀・黒田清隆から榎本に宛てた「降伏勧告書」が箱館病院に届けられ、凌雲と病院掛の小野権之丞がそれを五稜郭に届けた。

 5月17日朝、榎本は五稜郭に前将兵1000人を集め

 「皆に代って政府軍陣営に赴き、皇裁を仰ぐ。

 慚愧の念はあるが、私の意思を了解してほしい。」と演説。

 「衆涕泣議論数刻遂に之に従ふ」

 午前9時頃、新政府軍応接所に指定された亀田村三軒家の農家中村家に、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎。陸軍奉行大鳥圭介、海軍奉行荒井郁之助が出頭。

 政府軍側代表は、総参謀黒田良介、参謀増田寅之助。

 榎本は五稜郭明け渡し、武器の引き渡しなどの条件を受け入れ降伏。

 近くの亀田八幡宮に降伏の合意の誓書が奉納されました。

 現在は神輿殿になっている、旧社殿の壁板には、戦争時の弾痕が今も残っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月20日 (木)

徒然なる怒り(2)

 < 福田康夫 >

 福田康夫元首相は6月南京大虐殺記念館を訪問し、「過去の事実を正確に理解しなければならない。もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と語った。

 中国メディアは、これを「歴史を直視し平和を呼びかける行為」として称賛している。

 福田はまた彼方此方で「北朝鮮にいる拉致問題解決よりも、日朝国交正常化を優先すべきだ」と言っている。

 まあ、福田の中国旅行は中国と朝日新聞が合作してセッティングしたものでしょう。

 安倍首相は「日朝平壌宣言に基づき、拉致や核・ミサイルの問題を解決した上で国交正常化を目指す日本の方針は一貫している」と繰り返し語っておられるが、福田を始めとする日朝国交正常化優先論者に対して、

 「政府が日朝首脳会談の実現を模索していくなか、国民の結束を乱しかねない発言だ」として牽制しています。

 正常化優先論者は、北朝鮮に金を恵んでやりたくてウズウズしているようだ。

 昨年12月に、北朝鮮の核開発・弾道ミサイル発射に対して、石油の供給、外貨獲得、海上輸送を一層規制強化する内容の、安保理決議が、全会一致で採択されている。

 北朝鮮に対する制裁を訴え続けてきた安倍さんが、制裁決議に違背するような決断をするわけがない。

 福田等正常化優先論者の意図が那辺に有るか、推して知るべしでしょう。

 < 五月蝿(さばえ)なす「老害」の彼奴輩 (キャツバラ) >

 村山富市、河野洋平、鳩山由紀夫、小泉純一郎、細川護煕(もう出てくることはないとは思うが)、小沢一郎、菅直人、山崎拓、古賀誠・・・・・・

 みっともない!老醜を晒すな!

 公序良俗(公共の福祉善良の風俗)をみだすな!

 かっての「参院のドン」青木幹雄の鶴の一声で、竹下派参院議員21名が石破支持に回った。

 青木は以前は石破と疎遠だったが、息子・一彦の島根選挙区と石破の鳥取選挙区が合区されたので、石破の後ろにくっついた方が何かと便利だと考えたらしいのです。

 然しマア21人の議員さん達、恥ずかしくないんだろうか。

 情けないやつらだ。
 
 < MICE 論 >

 「人はなぜ敵方のスパイとなるのか」つまり「自分の利益にならないどころか不利益になってしまうような情報を他人に与えてしまうのか」あるいは「人は何故裏切るのか」

 インテリジェンス(諜報)の世界にMICE理論(「Voice」の6月号かなにかに載っていた)というのがあって、その理由を説明しています。

 ①カネ(Money) ②思想・信条(Ideology) ③すりあわせ(Compromise) ④利己心(Ego)

 ①は経済的利益を得る見返りに所属組織を裏切って敵に情報を流すことです。

 ②は政治的な思惑や信仰の一致から共鳴して仲間の不利益になることを厭わなくなることです。

 ③は自分のミスを隠蔽したり、一度いって引っこみが付かなくなった状況を逃れるため、

 ④は目立ちたい、称賛されたい、承認欲求を満たしたいとか、嫉妬心から自分より優位にある人物を排除したりすることです。

 性欲と物欲(あれが欲しい、此が欲しい)の項目がないので、人間一般に当てはめるのは無理があるが、政治的人間の行動を判断するには示唆するところが大きい。

 < 安倍晋三ー危機のリーダーシップ >

 安倍さんの素晴らしいところは「日本の課題」から逃げないことです。

 「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」で一貫していてブレルことがない。

 ノブリス・オブリージュを感じさせる政治家は、今の日本では安倍さんしかいない。

 親分肌や包容力、そこに居るだけで相手を承服させる存在感、根回し、これをひっくるめて「伝統型リーダーシップ」あるいは「日本型リーダーシップ」と呼ぶとして、それに対置するのは「危機のリーダーシップ」です。

 マスコミの支持率調査で、安倍内閣の、というか、どの内閣でも同じ傾向にあるのだが、不支持の理由の第一が「人柄が信用できない」第二が「政策に賛成できない」というもので、民主党政権時代もこんなもんだったような気がしている。

 「人柄」がどうだこうだと文句を言うのは、日本型リーダーシップへのノスタルジーが今なお強いからでしょう 
 
 民主党政権が崩壊したのは、日本の「危うさに」日本人が気づいたからだが、「喉元過ぎれば熱さを忘れるで」危機感が薄れてきているようだ。

 石破茂はどうやら、田中角栄型の政治を狙っているらしいが、何をやりたいのかハッキリしない。

 過去の発言からすると、支那や朝鮮の関係で、おかしな事をやらかすような気する。

 9条2項の廃止へむけて国民的議論を盛り上げるとか、国民投票では70%以上の賛成を得るように為なければならないとか言っているが、この人は憲法改正論議はやらないでしょう。

 一番嫌なのは、あのネチネチした喋り方だね。

 「安倍叩きは朝日の社是です。安倍の葬式はうちで出す」(若宮啓文)

 モリカケ騒動も朝日新聞が仕掛けたものでしょう。

 朝日新聞とそれに続くマスコミの狙いは、短命政権で日本政治を不安定化させ、国威・国力を低下させることにあります。

 < 小泉進次郎 >

 進次郎は記者会見で「全ての権力は腐敗する」などと偉そうにほざいていた。

 マスコミ受けを狙った発言だろうが、政治家が軽々しくこんな台詞を吐いてはいけない。

 総裁選の直前まで誰にいれるか明かさない、いったい何を勿体ぶっているのか知らんが勘違いが甚だしい。

 この男は自分を高く売りつけようとキョロキョロしている内に政治家としての技量を磨く機会を失い、結局人寄せパンダで終わってしまうのではないだろうか。

 政治家はハムレットであるよりはドン・キホーテであった方が良い。

 < 野田聖子 >

 聖子は週刊文春7/26の「野田聖子を操る元暴力団員の夫」で、もうアカンでしょ。

 それはそれで良いが、第5世代(5G)移動通信方式で中国と協力すると言っているのは危ないです。 

 (5/27)「日中韓3カ国の情報通信相会合で、中国の苗工業情報相が5G移動通信方式について、一部を共有できる周波数帯を採用するよう提案」

 これに対して、野田聖子「情報通信技術で政策課題を乗り越えていきたい。

 中国にとっても御役に立てる先進的な取り組みになる」などとして「技術協力する」と語っているのです。

 (8/31)野田聖子総務相は9月21日までに5G移動通信方式で利用するための周波数を割り当てるための技術調査を実施すると発表。

 米・オーストラリアが安全保障上の観点から中国通信機器大手2社の華為技術(ファーウェイ)と中興通訊(ZTE)に対して5Gの参入を禁止したことについては「諸外国の動向を注視する」と述べるにとどめた。

 「通信デバイスを開発する国内大手企業のエンジニアは「日本と中国で周波数帯を共有すると、日本製のデバイスが中国側からハッキングされるリスクが高まる」という懸念を示している。

 ファーウェイの創業者は解放軍出身であり、解放軍の暗黒部隊はバックドアと呼ばれる「暗号の裏口」を利用すれば簡単に解読できる研究をしているので通信の秘密が担保されるとは言えない状態だ。

 野田総務大臣の思惑通り、日中で5G周波数帯を共有することになれば、米政府だけでなく親米国家の政府用のデバイスに日本製品が採用されなくなる可能性がでてくる。

 今は中国製監視カメラを通じての情報漏洩の問題で日本製監視カメラが再度注目を浴びているときなのだ。

 米最大のセキュリティ展で各国政府関係者が「中国企業の息がかかっていない日本製監視カメラが欲しい」と日本企業のブースを訪問するほどである。

 ところが、野田総務大臣の発言は、そのビジネスチャンスを潰しかねないだけでなく、トランプ政権に不信感を与えかねない。

 日本は通信基地局にファーウェイ製品を多用している問題をトランプ政権から指摘された際に、通信インフラ再構築などの準備はできるのか、甚だ疑問だ。」

 (「中国とIT提携 野田聖子総務大臣の亡国構想」(深田萌絵/WiLL10月号)から引用)

 民主党政権が誕生したとき、総務大臣の原口一博が「韓国・サムスンの技術を導入して「電子政府」を構築するんだ」と大ハシャギしていたが、あの時の嫌な感じがよみがえって参りました。

 < DARPA・CFIUS >

 DARPA=米国防高等研究計画局

 CFIUS=対米外国投資委員会

 「シャープが台湾企業・鴻海精密工業に売却された時も、技術分野でエセ専門家が事実と異なる主張を行ったが、反論できる専門機関が日本に存在していないのだ。

 これが産業育成の足枷にもなっている。」

 「国際市場では、自由競争など幻想であり、各国が自国企業を保護する政策を打ち出しているのに、日本は完全に逆の手を打って企業を苦しめている。

 中国は半導体製造業に1500億ドル規模の投資を用意し、DARPAは設計技術に15億ドル規模のファンドで対抗しようとしている、

 仮に日本にDARPAやCFIUSのような機関があれば、技術伝承が途切れないよう国民経済の発展を図るという総合的な観点で、シャープや東芝メモリへの支援が検討できたはずだ。

 技術企業を外資に渡すことで国の防衛技術を失っただけでなく、多くの雇用と関連する下請け企業の仕事を喪失させてしまった。

 技術大手企業売却による潜在的な経済損失は莫大なものになろう。」

 「数年ごとに部署を異動する官僚が知識を深めることは難しい。

 長期的な産業育成や経済政策には、最先端技術への深い理解と幅広い知識を持つ専門チームが必要だということに、我が国の政治家は一刻も早く気づかなければならない。」

< 枝野幸男 >

 立憲民主党の枝野幸男が訪米した。

 「日米同盟を重視していることを、政権を獲ってから伝えるのではなく、あらかじめ知ってもらったほうが、政権交代時の関係がスムースに行く」ということらしい。

 「さすが枝野さん」と言いたい処だが、党内に向けてのパフォーマンスでしかない。

 見透かされてるね。

 立憲民主党も含めて、野党はこの一年半「モリカケ」に明け暮れしていたが、もっと他にやるべきことが有ったはずだ。

 この間の政策論議の空白は、これからジワッと効いてくることになるでしょう。

 立憲民主は、共産党との選挙協力をめぐって、左派と中道志向とに内部分裂していくと思う。

 参院選挙で敗北の責任を取らされ枝野は辞任、辻本が代表になって益々嫌われるようになるというのが私の予想。

 民主→民進→立民・国民の毎回みられるパターン展開です。 

 国民民主もいつまでたってもフラフラして、どうしようもない連中です。

 野党はくっついたり、離れたりを繰り返す内に消耗して、次第に萎んでいくのではなかろうか。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月14日 (金)

弥彦神社

< 燕三条駅 >

1dsc_4446

2dsc_4335 3dsc_4346_2

4dsc_4428 5dsc_4429

6dsc_4435 6dsc_4436

< 弥彦駅 >

8dsc_4448

9dsc_4353

10sc_4354

< 弥彦(いやひこ)神社 >

11dsc_4358 12dsc_4355

 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦

 御祭神は伊夜日子大神(いやひこのおおかみ)

 御名:天香山命(あめのかごやまのみこと、あめのかやまのみこと)とされている。

 アメノカゴヤマは、神武天皇が「熊野の荒坂津」で毒気(あしきいき)にあてられ卒倒したとき、アマテラスやタケミカヅチから授けられた霊剣フツノミタマを神武に進(たてまつ)って救い出したタカクラジ(高倉下)の別名であるとされています。
 
 「神武天皇即位4年(西暦紀元前657年)、天香山命は越の国平定の勅を奉じて日本海を渡り、米水浦(よねみずがうらー弥彦産の背後、長岡市野積)に御上陸されました。

 当地では住民に漁業・製塩・酒造などの技術を授けられ、後には弥彦の地に宮居を遷され、国内の悪神凶賊を教え諭し、万民を撫育して稲作・畑作を始め諸産業の基を築かれました。」

 「天香山命は、第六代孝安天皇元年(西暦紀元前319年)2月2日に、越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して、神剱峰(やひこさん)に葬られ、御子である天五田根命が廟社を築き奉祀した」ことが弥彦神社の始まりとされている。

 天香山命は尾張連、伊福部宿禰、同連、次田連、丹比連の祖神です。

 アメノカグノカミ(天迦久神)、アメノカゴヤマノミコト(天香山命)、ホノカグズチノカミ(火之迦具土神)、アメノカグヤマ(天香久山)等の「カグ」とは、「カガヨフ(炫)、カギロヒ(陽炎)、カゲ(影)、カグヤヒメ、カガリ(篝)などと語源kag-を共有する語であろう。」

 「カグ」の付くカミは光り輝くもの=剣や鉄・銅・水銀に関わりが深いのです。

 天香山命はとは、崇神紀の四道将軍の一人として北陸道に派遣された大彦命(=古四王、古志王)のことではないだろうか。

14dsc_4359

15dsc_4363 15adsc_4415

16dsc_4365

16dsc_4398

Dsc_4406

17dsc_4409

18dsc_4404

19dsc_4405

20dsc_4392

 宝物殿には重文「志田大太刀」が有ります。

 越後国古志郡夏戸(長岡市)の城主・志田三郎定重が応永22年(1415)に、備前長船の刀工家盛に鍛えさせ奉納したものです。

 約2,2メートル。

 越後高田の刀工・三家正吉が天保14年(1843)に奉納した大太刀も有ります。

 山頂行きのケーブルカーがあったが、雨が降ってきたので止めてしまった。

 後で分かったことだが、山頂には奥宮(天香山命の御神廟)がある。

 小雨を我慢して登れば良かった。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月13日 (木)

ステーツマンシップの最高の離れ業

 以下は「君主論」(マキャヴェッリ/黒田政利訳/岩波文庫)から

 「君主が真の味方となるかそれとも真の敵となるかというとき、すなわちある者の敵に味方するとき、結果を顧慮しないでそのことを公言するときは、またまた尊敬を受けるものである。

 こうしたはっきりした態度を取ることは、中立を守るよりは、つねに有利である。

 何となれば、もし付近の二大勢力が争うようになった時は、その一方が勝としたら、君主は彼を恐れなくてはならぬか、それとも恐れるにおよばぬかである。

 そのいずれの場合にあっても、去就を明らかにしてみずから最後まで一緒に戦う方が有利である。

 というのは、第一の場合で自分の態度を明らかにして置かないと、つねに勝利者の犠牲となり、同時に敗北者側には嘲笑され、いい気味だと思われる。

 そして自分のための弁護を頼み、自分の庇護を求める理由も人をも失うことになる。

 何となれば勝利者は、いざ事あるときその助けとならぬような信用の置けない者を、自分の友とすることは好まない。

 また敗北者の方からいうと、みずから進んで剣を手にして自分と運命をともにしなかったような者に、保護を与えることはできない。」

 「ローマ人を追い払うためアイトリア人に招致されてギリシャに入ったアンティオコスは、かねてからローマ人と親しいアカイア人のもとに使いを遣って、中立を守るようにとさとした。

 ところがローマ人のほうでも彼らに武器をとって味方するよう申入れた。

 そこでアカイア人は会議を招集してこのことを討議したが、アンティオコスの使者は中立を勧め、これに対してローマ軍の使者はこたえていった。

 『この戦に、中立を守ることが貴国のために有利であるというのはもっての外の誤りである、何となれば、中立によって貴国は何ら感謝されることもなく、面目を施すこともなく、ただ勝利者の好餌となるのみ』と。」

 「つまり自分の味方でない者は中立を要求し、自分の味方となる者は剣をとって助けるよう公言することを要求する。

 決断のない君主は、目前の危難をまぬがれるために概して中立の道を選ぶが、多くの場合破滅に終わる。

 しかしもし決然として一方に味方することを明らかにするとき、自分が味方した者が勝利を得たとしたら、彼がたとえ優勢で自分はその下風につくとしても、彼は義理をわきまえ、相互に親愛の情が沸いてくる。

 由来人間は、そうした人の恩義を忘れて圧迫を加えるほど、それほど非道なものではない。

 また万一自分が味方した方が負けたとしても、彼は厚く遇するであろうし、彼の力が及ぶときは助けてもくれようし、そして運を挽回したときはその幸福をともにするであろう。

 第二の場合について、光線当事者のいずれが勝利者となってもそれが自分の恐れとならぬ性質であれば、荷担するにあたってそれだけ慎重に考慮を要する。

 これ自分の援助によって(もし賢明な者であったらきっと援助するだろう)、その者がかったとしても援助なしには出来なかったのであるから、いぜん尊敬を払うことを忘れない。」

 「しかし個々で注意しなければならぬことは、君主がある国を攻撃するとき、上に言ったようにやむを得ない場合のほかは、自分より優勢な者と同盟することは避けなくてはならぬ。

 何となれば、たとえ勝利を得たとしても、自分は彼の虜になる

 君主は他人の意のままになることをできる限り避けねばならぬ。」

 「ヴェネチア人はフランスと同盟してミラノ公に当たった。

 しかしこの同盟は、避け得れぬものではなかったが、彼らの破滅の原因となった。

 ただし、法王とイスパニアがロンバルディア攻撃のための軍隊を送ったと際、フィレンツェ人の立場に見るように、どうしても避けることが出来ないときには、上の理由によって君主はいずれかその一方に組しなくてはならぬ。」

 「しかし、どんな政府でもまったく安全な道があると思ってはならぬ。

 それは一難を避け得てもただちに他の難が待っているのがこの世の定めであるから、万事不安なものであると常に覚悟すべきである。

 それにしてもいろいろな危難の性質をよく理解して、害の少ない方を選ぶのが賢明な道である。」

以下は「国際政治ー権力と平和 (下)」(モーゲンソー/原彬久/岩波文庫)から

 「政府は世論の指導者であってその奴隷ではない。」

 「われわれは、最初から世論ーその価値選考は合理的であるよりもむしろ情動的であるーの支持を当てにすることはできない。

 このことは、対外政策についてとくにあてはまる。

 というのは対外政策は、妥協することを目標としており、したがって相手側の目的の一部を容認し自己の目的の一部を放棄しなければならないからである。

 対外政策が民主的な制御の条件の下で処理されたり政治宗教の十字軍的熱情に鼓舞されている場合にはとりわけ、政治家は大衆の称賛を得るためによい対外政策の要件をいつも犠牲にしたくなるものである。

 他方、大衆の熱情によるどんな小さな汚染からもこれら対外政策の要件をまもろうとする政治家は、政治指導者としての彼自身の運命を閉ざしてしまうことになろうし、それとともに彼の対外政策の命運をもみずから断ち切ってしまうだろう。

 なぜなら彼は、自分を権力の地位につかせたりとどめたりする、あの大衆の支持をうしなうからである。」

 「したがって政治家は、大衆の熱情に屈服することもそれを無視することも許されない。

 彼は、自分を大衆の熱情に適応させることと、自己の政策への支持に大衆の熱情を結集することとを慎重に均衡させなければならないのである。

 一言でいえば、彼はステーツマンシップの最高の離れ業を演じなければならない。

 つまり彼は、国家の進路がどんなに回り道でジグザグしていても、この国家という船を、よい対外政策という湊に運ぶためには、みずから大衆の熱情を活用する一方で、その大衆の熱情という風に向かって自分の帆を整えて進まなければならないのである。」


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月10日 (月)

大甕(おおみか)神社

1dsc01166

 大甕神社、正式名称は大甕倭文(おおみかしず)神宮。

 茨城県日立市大みか町。

 創祀は社伝によれば紀元元年(BC660)。

 詳しいことは分からんが、ともかく茨城県では最古の神社と言われている。

 御祭神は二柱。

 主神:健葉槌命(たけはつちのみこと)

 地主神:甕星香々背男(みかほしかかせお)

 日本書紀・神代下第九段本文によれば、フツヌシ(経津主神)とタケミカズチ(武甕槌神)が出雲の「五十田狭(いたさ)の小汀(をはま)」でオオクニヌシ=オオアナムチ(大己貴神)に国譲りを迫り、オオクニヌシが「百足らず
八十隈(くまで)に隠居(かくれ)」た後

 「是に、二の神、諸々の、順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)等を誅(つみな)ひて、一(ある)に云はく、二(ふたはしら)の神遂に邪神(あしきかみ)及び草木石の類を誅ひて、皆已に平(む)けぬ。

 其の不服(うへな)はぬ者は、唯星(ただほし)の神香香背男(かかせを)のみ。

 故(かれ)加(また)倭文神(しとりがみ)健葉槌命(たけはつちのみこと)を遣わせば服(うべな)ひぬ。

 枯、二(ふたはしら)の神天(あめ)に登るといふ。

 倭文神、此をば斯図梨未(しとりがみ)と云ふ。

 果(つひ)に復命(かへりことまう)す。」

 一書(あるふみ)(第二)では、二柱の神がイカガセコオを誅戮してから出雲平定にむかったことになっている。

 「時に二の神曰(まう)さく、「天に悪しき神有り。

 名を天津甕星(あまつみかほし)と曰ふ。亦の名は天香香背男。

 請ふ、先ず此の神を誅ひて、然して後に下りて葦原中国(あしはらのなかつくに)を撥(はら)はむ」とまうす。

 この時に、斎主(いわひ)の神を斎(いわひ)の大人(うし)と号(まう)す。

 此の神、今東国(あずま)の楫取(かとり)の地(くに)に在(ま)す。」

 本文で、カセセオは葦原の中つ国に棲む「悪しき神」の最後の一つとなっているのに対し、一書では高天原に棲む「悪しき神」とされ天津甕星などという立派な名前をもらっているところが大いに気になるところです。

 香香はカカで輝くの意、室町時代まではカカヤクと清音で発音、セヲは兄弟の意であろう。

 シトリはシツオリの約、シツは日本古来の紋様、オリは織り、ハは羽の意、すべて動物の身を覆うものをハという、つまり着物の意、よってハツチは着物の神、シトリは古来の文様であるからシトリ神のタケハツチとなる。

 イカガセコヲを退治したタケハツチノミコトは、何と織物、着物の神様であったらしいのです。

 ミカはミイカの約、ミは紙の意、イカは厳、ミカホシは神威の大きな星の意。

 (以上は「日本古典文学大系・日本書紀上(岩波書店)」の注釈から)

2dscn0048 4dscn0049

5dsc01170

 甕星香々背男神社

 後ろの岩山を宿魂岩といい、ミカホシカカセオが変じて固まったものといわれているから御神体と言っても良いでしょう。

 神紋は五芒星。

 安倍晴明を祀る晴明神社の神紋がこれで、「晴明桔梗」と呼ばれ、陰陽五行説の「木火土金水」に対応するものとされている。

 しかし、この神社の五芒星が陰陽道に基づくものかどうかは分からない。

 五芒星は大昔(BC3000年頃)から世界各地で「魔除けのシンボル」として用いられてきたデザインです。

 正五角形は不思議な性質を持っている。

 正五角に対角線を引くと五芒星ができあがり、真ん中に新たな正五角形が誕生する。

 (正五角形の対角線は、お互いに交差する対角線を黄金比(1:1,618・・・・・)において分割する)

 その五角形に対角線を引くとまたもや・・・・・・・・・。 

 昔の人はきっと、五芒星の中に、魔力を無限小の世界に封じ込めるブラックホールが存在すると考えたんでしょうな。

6dscn0047 7dsc01167

 「御祭神武葉槌命 地主神甕星香香背男の霊力を封じ 国土開発と邦家静謐に 御稜威灼然なり」

 「時移りて 江戸期藩命を蒙り 甕星香香背男の磐座上に 社殿を造営遷座せり 維時元禄八年旧暦四月九日なり

 幾多の星霜を経たるも 御神徳著し赫々たり」

8dsc01172

9dsc01173 9dsc01176

10dsc01177

17dsc01179

18dscn0052

19dscn0069

 常陸国風土記にある話だが、那珂郡の茨城の里に怒賀毗古(ぬかびこ)、怒賀毗売(ぬかびめ)という兄妹が住んでいて、妹が神と交わり、蛇の姿をした子を産んで、その子を盛った盎(ひらか)と甕(みか)が残っていて、子孫が社を立てて祀りを絶やさないでいるというのです。

 また最近読んだ本「月と蛇と縄文人ーシンボリズムとレトリックで読み解く神話的世界観」(大島直行/寿老社)は、縄文土器はー端折った言い方になるがー子宮をシンボライズしたもので、縄文は蛇の再生力を表わしたものだといっている。

 磐座崇拝と蛇もシンボリズムの連関が強い。

 大甕神社との関係は証すべくもないが、ミカホシカカセオのミカはやはり縄文的シンボリズムの聖なる意味合いをもった「甕」のことではないだろうか。

 またミカボシについては金星のことだとする説があるが、上総では「メラボシ」「ニュウジョウボシ」、常陸で「カズサノオショウボシ」と呼ばれている(「星の民俗学」(野尻抱影/講談社学術文庫))「カノープス(りゅうこつ座α)のことであると考えた方がよいのではないだろうか。

 まあ、これも山勘です。

 鹿島にも香取にも、大神が鹿島灘から上陸したという伝承があることから、海人の部族だったのでしょう。

 カトリに「楫取(かじとり)」の語が充てられているのもそのためでしょう。

 初期本文に「故、二の神天に登ると」あるのは、辺りの弱小部族を制圧して、タケミカヅチ、フツヌシの神名があたえられ天津神とされたという意味かもしれない。

 常陸国風土記・信太(しだ)郡に次の記事がある。

 「古老のいへらく、天地(あめつち)の始め、草木言語(こととど)ひし時、天より降り来し神、み名は普都大神(ふつおおかみ)と称(まお)す。

 芦原の中津の国に巡り行でまして、山川の荒ぶる神の類(たぐひ)を和平(やは)したまいき。

 大神、化道(ことむけ)已に畢(お)へて、み心に天に帰らんと存(おも)ほしき、

 即時(そのとき)、み身に随(そ)へましし器杖(いつ)の甲・戈・楯・剣、及(また)執らせる玉珪(たま)を悉皆(ことごと)に脱履(ぬ)ぎて、此の地(くに)に留め置き、即ち白雲に乗りて蒼天(あめ)に還り昇りましき。」

 この伝承が生まれたのは神郡制度が整備された7世紀後半の頃ではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 7日 (金)

完全かつ検証可能な非核化

 日本の一部のマスコミは、おそらく意図的だろうが、米朝首脳会談でトランプが金正恩に「体制の保証」を与えたと伝えています。

 しかしトランプは「「完全かつ検証可能な非核化」の進展にむけて金正恩が努力する間は「安全(security)を保証する、つまりサージカル・アタック(先制攻撃)を行わないと言っているのであって、金正恩が要求する「体制の安全の保証」の言質を与えたわけではない。

 金王朝の独裁体制の存続を保証すると言っているわけではない。

 金正恩がピョンチャン・オリンピックを利用して文在寅に接近したのは、安保理の経済制裁決議で石油や外貨が不足して経済が苦境に陥った、つまり「効いてる、効いてる」状態にあるからに他ならない。

 米朝合意で、金正恩が外交手腕を発揮して、アメリカの譲歩を勝ち取ったかのごとくに伝えるメディアがあるが、全く出鱈目です。

 金正恩はなにひとつ、実利の一欠片(かけら)をも手にしていない。

 トランプは米朝会談の後の記者会見で、「非核化は早く行われると信じている、検証も行われる」さらに「在韓米軍の撤退もありうる」述べている。

 在韓米軍の削減や撤退の可能性については、トランプが大統領選挙の時から言い続けていいるし、5月の安倍総理との会談で述べていることで、別段目新しいものではないが、米朝会談後というタイミングについては考えてみるべきでしょう。

 1993年に北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)を脱退し、核実験を行い、ノドン・ロケットを発射し、南北特使浩瀚実務者会議で北側が「戦争になればソウルが火の海になる」と南を恫喝したことがあった。

 この時クリントン大統領は、核施設に対する精密爆撃を計画していたが、キム・ヨンサンが長距離砲でソウルが攻撃されることを懼れ「それだけはやめてくれ」と言ったので、クリントンもあきらめたのです。

 (当時は、毎晩、米軍のステルス戦闘機が轟音を響かせ低空飛行で平壌を威嚇していたらしい。

 このことを知ったのは「週刊ポスト」の記事からだったが、新聞・テレビが米軍のデモンストレーション飛行を伝えることはなかった。

 「報道しない自由」とやらを行使したのかも知れんが、ともかく中国・朝鮮の関係で新聞・テレビは、あまり当てにならない)
 
 キム・ヨンサンは後に、このときに適切な判断を下していれば、北がこれほどまでに増長することはなかったと大いに悔やんだということです。

 アメリカ同時多発テロ事件の翌2002年、ジョージ・W・ブッシュ大統領が、北朝鮮・イラン・イラクはテロ支援国家であり、「悪の枢軸(axis evil)と呼んで非難し、北朝鮮が「先軍政治」を唱え、いわゆる瀬戸際外交を展開していた時にも対北朝鮮先制攻撃が企てられたが、アフガン戦争、イラク戦争のほうが優先されて、沙汰止みになったことがあった。

 米軍が軍事攻撃を仕掛ける場合には、自国民の被害を最小限に抑えるため、非戦闘員すなわち民間人をあらかじめ避難させる。

 民間人に犠牲者が出た場合には、米軍最高司令官である大統領が厳しい批判に晒されることになるからです、

 クリントン政権が1994年6月に、北朝鮮核施設への先制攻撃を決定した際にも、駐韓大使が米国人の国外避難を指示しています。

 昨年秋に、在韓米軍の家族に対し大規模な非戦闘員後送作戦(Non-Conbatannto Evacuation Operation=NEOが実施され、12月には共和党のリンゼイ・グラハム上院議員が在韓米軍の家族を韓国外へ待避させるときが来たと発言し、北朝鮮はこれに対し「挑発的な妄言」であると激しく反発しました。

 今年の4月16日から20日にかけては、米軍家族を実際に米国本土まで送り届けるNEOが実施されています。

 NHKニュースで、中継地として利用された横田基地の様子を映していた。

 在韓米軍の撤退は、アメリカの戦略的自由度を高めることになる。

 金正恩にしても、このことが分からないほど馬鹿ではないでしょう。
  
 また「完全かつ検証可能な非核化」にかかる時間が問題です。

 「ベッカーズ教授(スタンフォード大学教授/核問題)は米朝首脳会談の直前である5月28日に「北朝鮮の非核化ロードマップ」という報告書を公表し「北朝鮮の非核化作業が終わるまでは十年以上かかる」とし、ボルトン補佐官やポンペオ国務長官らが主張する数年以内での「完全な非核化」は不可能であり、北朝鮮の主張する「段階的な非核化こそが解決策だ」と主張した。

 田中均元外務相審議官など日本の親朝派が「米専門家によれば非核化には十年以上かかるとしてこのベッカー説を広めている。」

 しかし同じ米国の各専門家でもワシントンのシンクタンク、科学国際安全保障研究所(ISIS)のデヴィッド・オルブライト所長は、「核兵器と核物質、製造工場の主要部品を国外に持ち出せば短期間の非核化は可能」としています。

 また、米朝首脳会談から約1ヶ月経った7月13日、米国の外交・安全専門オンライン誌「ディプロマット」が降仙(カンソン)濃縮ウラン工場の正確な位置と衛星写真画像を公開した。」

 それによれば、平壌から一キロほどしか離れていない平安道千里馬郡にある「降仙製鋼所(日本統治時代の三菱製鋼)」の工場建物群の一画の倉庫で濃縮ウラン工場が稼働していたらしい。

 北朝鮮は今まで「ウラン濃縮工場は寧辺(ヨンビョン)にしかないと言い続けてきたが、それ以外の工場についても既にアメリカは場所を特定しているらしいのです。

 (「米国の北朝鮮監視力」(西岡力/月刊ウィル10月号)」

 意図的にリークされたと覚しきこの情報は金正恩をして愕然とせしめたことでしょう。
  
 9月に平壌で第3回目の南北首脳会談が行われることになっている(18日から三日間)。

 金大中や盧武鉉は金正日に朝貢するために数千億ウォン(数百億円)費ったらしいが、文在寅もかなりの金を使っていることでしょう。

 平壌会談の目的は、板門店宣言(4月27日)の合意を具体化することにあります。

 (板門店宣言の合意内容を要約すれば、朝鮮半島の完全な非核化に向けて両国が努力すること、2018年中に朝鮮戦争の終結宣言を発すること、南北共同連絡事務所を開城(ケソン)に設置し、南北交流、往来の活性化、鉄道・道路の南北連結事業の推進など。)

 これに対してアメリカは、「南北関係の改善は必ず非核化の進展と正確に歩調を合わせて行わなければならない}と警告を発し、「南北共同連絡事務所への石油や電気の供給が国連の安保理の対北朝鮮制裁決議に違反するかどうかを調査する」とし、瀬取り(Ship-to-sipp cargo transfer)による、石炭の輸出や石油製品の輸入に韓国企業が荷担していることに懸念を表明しています。

 トランプは金正恩だけではなく文在寅のことも信用していないでしょう。

 アメリカが警戒し、金・文が妄想しているのは、韓朝が勝手に朝鮮戦争終結宣言を発して、南が北を経済支援することにより、経済制裁が済し崩しにされ、非核化プロセスが進展しないままにトランプ大統領の任期が終了し、北が核を保有したまま南北融和の高麗連邦が成立してしまうというシナリオです。

 アメリカが、核を保有したままの南北統一を容認するーまさに日本にとっての悪夢ーのではないかという人もいる。

 その可能性は薄いだろうが、日本人は警戒を怠ってはいけないと思います。

 「インド、イスラエル、パキスタンの三カ国が核兵器を保有しているのは事実だが、今のところ破滅的結果を招いていない。

 三カ国は北朝鮮にないやり方で、自国の信頼性を証明してきた。

 北朝鮮のように、大使館でヘロインや覚醒剤などのいわゆる「ハードドラッグ」を売ったり、偽造紙幣で取引に手を染めたりしない。

 三カ国とも深刻な危機に見舞われ、戦争すら経験したが、核兵器に言及すらしなかった。

 ましてや金正恩のように、核攻撃をちらつかせて敵を脅すなどあり得ない。

 北朝鮮は異常だ。

 手遅れになる前に、アメリカの外交政策は、その現実を自覚すべきだ。」(エドワード・ルトワック}

 アメリカが最も警戒しているのは、北朝鮮の核兵器やICBMの技術がイランに流出することらしい。

 アメリカは本気でしょう。

 板門店会談の後、80%程にも上昇した、文大統領の支持率も、最低賃金引き上げによる中小企業の倒産、失業率の悪化、対中国貿易の不振、キャピタル・フライトなどによって、8月には50数%にまで下落している。

 文在寅としては、平壌会談で是非ともポイントを稼ぎたいところだろうが、無残な結果に終わることは目に見えている。

 カン・ギョンファは、外交官試験に受からないで外交部長官になった初めての人といわれているくらいだから、まあ単なる人権屋で無能です。

 トランプは11月に中間選挙を控えているので、「完全かつ検証可能な非核化」にむけて強烈な一手を放ってくる可能性があります。

 金正恩は、文在寅を舐めきっていますね。

 トランプも習近平もプーチンも文在寅を軽蔑している。

 安倍さんは、真面目で心優しいジェントルマンだから、思惑はどうあれ、馬鹿にした態度をみせることはない。

 流石です。

 
 今気付いたが9月6日に次のような記事があった。

 金正恩は「体制の安全の保証」の一環として終戦宣言の早期実現を求めているが、韓国内には在韓米軍の撤収を要求する根拠として北朝鮮が利用しかねないとの懸念が韓国内にはある、

 韓国の鄭義溶(チョン・ウィヨン)国家安保室長は、18日開幕の国連総会において、トランプ・文在寅・金正恩の三者会談において朝鮮戦争の「終結宣言」の実現を模索していたが、金正恩氏の訪米と総会出席が困難となり、
三者会談を断念した、

 韓国政府は今年中の終戦宣言の実現を目指し、引き続き三者会談の開催を働きかけていく方針だ、と述べています。

 文氏はどうやら平壌で観光旅行を楽しむらしい。

 正恩氏と手をつないで金日成の銅像に詣でるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年8月25日 (土)

白川郷

1dscf4952

 白川郷展望台。

 南西方向に白山連峰を観望する。

 白山主峰の御前峰、剣ケ峰がみえるはずだったのだが雲があって駄目。

 (白山の主峰は御前峰(2702m)、剣ケ峰(2677m)、大汝峰(2684m)です。

 立山にも雄山の隣に大汝山(おおなんじやま)がある。

 大汝はオオナムチ(大己貴神)が変化したものでしょう。

 富士山の神も元はオオナムチだったという説があります。

 オオナムチとは「大穴持ち」で、かって火山のカミは遍べて「オオナムチ」と呼ばれていたのではなかろうか。)

1edscf4954__01

2dsc_6836

3dscf4919 3rdscf4962

7dscf4944 8dscf4945

4dscf4908 5dscf4936

6dscf4920_01 6dscf4928

8edscf4959

8fdscf4960__01

8fdscf4961

 < 和田家住宅 >
 
9dscf4899 10dscf4903

 和田家は天正年間から続く家柄で、火薬の原料である煙硝(焔硝)の取引で財を成し、江戸時代には名字帯刀を許されて白川郷の庄屋を勤めていました。

 和田家住宅は江戸時代中期に建てられたもので、往時は20人以上の人が住んでいたといいます。

 山がちで田畑が狭隘なこの地では、次男三男が分家することもままならず、結果長男を当主とする大家族が一緒に住むことになったのです。

 広間に白川小学校の生徒らによる課題研究が展示してあった。

 合掌造り、養蚕、煙硝作りなどについて、村の大人から聞いた話をレポートにまとめたもので、実によく出来ている。

 最近の小学生は凄いねェ。

 蚕の糞、人糞、尿などを混ぜたものと筵(むしろ)を交互に何層にも積み重ねて、4年ほど寝かせておくと、バクテリアの作用で硝酸カリウムすなわち煙硝が出来るらしい。

 大変な仕事です。

11dscf4905

11dscf4906 12dscf4910

13dscf4912 14dscf4913

 < 明善寺 >

15dscf4943  

 明善寺は寛延元年(1748)に創建された真宗大谷派の寺院です。

 鐘楼門の完成は享和二年(1802)。

 庫裏は文化十四年(1817)。

 本堂の完成は文政十年(1827)のことで、いずれも高山の大工が棟梁を務めました。

 庫裏は明善寺庫裏(くり)郷土館として公開されています。

16dscf4922_01 17dscf4924

18dscf4925 Dscf4930_01

19dscf4929 21dscf4932

22dscf4934 23dscf4940

Dscf4941_01


| | コメント (0) | トラックバック (0)

«二風谷(にぶたに)