観音寺の仏像は戻ってくるのか

長崎県対馬市の仏像盗難事件をめぐる経緯(読売オンラインを参考にした)

2012年10月

 対馬市の海神神社から国指定重要文化財「銅造如来立像」、観音寺から県指定有形文化財「観世音菩薩坐像」などが盗まれる。

13年1月

 韓国警察が窃盗団逮捕と仏像2体確保を発表、仏像は大田(テジョン)市の国立文化財研究所に保管された

13年2月

 韓国・曹溪宗・浮石寺が観世音菩薩像(以下仏像とする)の所有権を主張し、仏像の移転禁止の仮処分を申請、大田地裁が仮処分を決定

15年7月

 銅像如来立像が海神神社に返却される

16年4月

 浮石寺が仏像の引き渡しを認めて韓国政府を提訴

17年1月

 大田地裁が浮石寺の所有権を認める判決、韓国政府が控訴

22年6月

 観音寺住職が渡韓し政府側の補助参加人として出廷、仏像の返還を求めた

23年2月1日

 大田高裁が一審判決取り消し、原告の請求棄却。観音寺の所有権が認められた。原告は上告

 ユネスコ条約

 「文化財の不法な輸出、輸入及び所有権譲渡の禁止及び防止に関する条約」(1970年、第16回ユネスコ総会採択、いわゆるユネスコ条約)は次のように定めている。

 「締約国がこの条約に基づいてとる措置に反して行われた文化財の輸入、輸出又は所有権譲渡は、不法とする。」(第3条)

 「(締約国は、次のことを約束する)文化財の価値並びに盗難、盗掘及び不法輸出が文化的遺産にもたらす脅威につき教育の手段を通じて国民の自覚を促すための努力をすること。」(第10条(b))

 「締約国は、自国の法律に従うことを条件として、次のことを約束する。

 (a) 文化財の不法な輸入又は輸出を誘発するおそれのある所有権譲渡をすべての適当な手段によって防止すること。

 (b)不法に輸出された文化財がその正当な所有者にすみやかに返還されるよう自国の権限のある機関が協力することを確保すること。

 (C) 亡失し又は盗取された文化財の正当な所有者又はその代理人が提起する当該文化財の回復の訴えを受理すること。

 (d)ある種の文化財に関し譲渡が禁止され、その結果輸出も禁止される物件として分類し及び宣言することは各締約国の権利でありかつ時効がてきようされることのない権利であるとみとめるものとし、当該文化財が輸出されたばあいには、当該締約国がそれを回復することについて便宜を図ること。」(第13条)

 「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない。この規則は、第46条の規定の適用を妨げるものではない。」(条約法に関するウィーン条約・第27条)

 仏像は返ってくるのか

 1959年、仏像の内部から「天歴3年(1330年)高麗端州・浮石寺」と記された結縁文が発見されたことから、浮石寺のものだったことに間違いないでしょう。

 観音寺の伝承では、朝鮮を旅した観音寺の住職がこの仏像を持ち帰ったものとされ、観音寺財産目録には1562年に観音寺本尊として奉安されたものと記録されている。

 1988年(昭和63年)頃、浮石寺(忠清南道・端山市)の関係者が観音寺を訪れ、観世音菩薩像の所有権を主張し返還を要求したが断られている。

 窃盗団は50代から70代の男性4人で全員前科10犯以上、リーダーの男は前科18犯で、民家や商店への空き巣を常習的に繰り返しており、その弟は文化財・古美術品などの窃盗を繰り返していた。

 主犯格の男は公判廷で「日本が奪ったものを探し出したのに何が間違っているのか」「自分は愛国者だ」と嘯いたらしい。

 なお対馬では観音寺盗難事件の後にも、同種の事件がおこっています。

 2014年11月24日、梅林寺の文化財保管庫から誕生仏(対馬市指定有形文化財)と大般若経360巻を盗み韓国に持ち出そうとした韓国人の男5人が対馬南警察署に逮捕された。

 主犯の自称僧侶の金相鎬は公判廷で「僧侶として仏像が粗末に扱われていることが許せず、保護するために梱包した」といっている。

 「この報道に、韓国のネットユーザーからは『日本が盗んだ物を取り返しただけ』『韓国の遺物を盗んだ日本人の方が泥棒だ』など、仏像は韓国から日本に奪われたものだと主張するコメントが寄せられたが、『愛国のためには泥棒になってもいいのか』と批判するコメントも見られた。」(RecordChina2015/2/20)

 2019年10月17日、円通寺から銅造薬師如来像(県指定有形文化財)を盗んだ疑いで、神戸市長田区の飲食店従業員3人が逮捕されている。

 韓国では日本にある韓国産の文物は全て略奪されたものであると見做す傾向があり、窃盗犯の「盗人猛々しい」主張に共感する「国民情緒」も一定程度あることからみると、韓国人による日本の文化財窃盗は。これからも続くのではないだろうか。

 さて、2013年2月大田地裁は浮石寺の「有体動産占有移転の禁止仮処分申請」を認め、「観音寺側が仏像を正当に取得したということを訴訟で確認するまで、日本に仏像を返還してはならない」として事実上の返還拒否を決定した。

 大田地裁のジャン・ドンヒョク判事は「仏像が日本に返還されれば、浮石寺の所有だと最終判断がなされたときにすでに仏像はなくなっていて、浮石寺の所有権を行使できない恐れがある」と語った。

 韓国政府はユネスコ条約によって速やかに仏像を日本に返還すべきなのであるから、「占有移転の仮処分申請」は当然棄却されるべきであった。

 おそらくは担当判事のポピュリズムな動機によって、約700年前に仏像が略奪されたか正当な取引かという証明不能の不毛な論争にプロセスが迷い込んでしまったとしか言いようがない。

   2013年9月13日、日中韓文化大臣会合のために訪韓した下村博文文部科学相に対し、劉震竜文化体育観光相が、対馬仏像問題について、「当然返還すべきものである」「韓国政府としては返還に向けた対応についてきちっとしていきたい」と述べた。

 このことが報じられると、韓国内では与野党の議員から「世界には15万点、日本には6万点以上の我が国の文化財があるのに、その返還は遅々として進んでいない。劉文化相は発言を慎まなければならない」とか「国会や国政監査で問題にすべきだ」と非難され、ネット上でも「辞表を出せ」「仏像は正当に取り戻したものだ」「お前は日本の大臣か」などと袋叩きにされ、外相は「我が政府は国際法の原則に従い理性的に行動する」とトーン・ダウンを余儀なくされた。

 2017年1月26日、一審大田地裁は「仏像は贈与や売買など正常な方法ではなく、盗難や略奪で運ばれた見るのが妥当」「高麗史にも仏像が制作された1330年以降に倭寇が端山地域に侵入した記録があり、略奪の根拠とみることができる」とし「仏像は浮石寺の所有と十分に推定できる」「(政府は)仏像を浮石寺に引き渡す義務がある」と判示した。

 韓国検察は即日控訴し、併せて「金銅観世音菩薩像仮執行引き渡し強制執行停止申請」を提出した。検察は浮石寺に返還すると棄損が進む可能性があり(浮石寺は仏像を金ピカにする『改金仏事』なる計画をたてていた)、また、高裁や最高裁で判決が覆った場合仏像の回収が困難になると考えた。

 観音寺の田中節孝前住職は「仏像は李氏朝鮮時代の仏教弾圧から守るために対馬に持ち込まれ、大切に守ってきたもので、韓国人から感謝されることはあっても、『略奪』呼ばわりするとは開いた口がふさがらない」「品性を疑う判決『これが韓国という国なのか、やはり理解できない国だ』と改めて感じた」「理屈が通らない国だというのは分かっていたので、予想通りの結果ではある。慰安婦問題にしてもそうだが、すぐに過去を蒸し返す気質なのだろうか。韓国とは分かり合えないでしょうね。永遠に」と語った。

 対馬市では、市の人口の約半数16803人の仏像の早期返還を働きかけるよう求める署名が集まり、観音寺は韓国政府に早期返還を働きかける要望書を外務省や県に送付した。

 例によってというか、朝日新聞は仏像を日韓の共有財産とすることで解決すべきであると論説した(2017/2/1)。朝日新聞は竹島や尖閣でも、過去に同じことを言っています。天下の朝日新聞には日本人が余程の愚か者に見えているらしい。

 二審・大田高裁判決「1330年に浮石寺が仏像を制作したという事実関係は認めることができ、倭寇が略奪し違法に持ち出したと見做せる証拠もある。」「14世紀当時に所有権を保有していたことが文献で確認された浮石寺と、現在の浮石寺が同一だとする証明が不十分であるから、所有権の継承は認められない」「正規の手続きで譲り受けたという観音寺の主張も確認は難しいが。観音寺が法人化した1953年から2012まで60年間占有しており20年の取得時効が成立する」「原告(浮石寺)が仏像の所有権を取得したと見なすことはできない。」

 「韓国仏教界は、浮石寺への引き渡しを求めるが、朝鮮日報は日本に返すべきだと主張する。同紙は社説で、浮石寺が略奪されてと主張するなら国際法が定める略奪文化財の手続きを行うべきだと論じている。正論といえるだろう。韓国文化財庁も略奪された文化財は戻すのが原則だが、もし倭寇が略奪したことが確認されたとしても、日本に返還してから返してもらう過程を経なければならないと述べている。また韓国は盗品すら返さない国という風評を危惧する声もある。

 仏像を保管する国立文化財研究所は早急な解決を求めている。変色や錆びなど棄損が激しいが、盗難証拠品の保存修理は認められていない上、日本への返還が決まると韓国の修理が新たな摩擦を引き起こしかねない。日本への返還が急がれる。」(Newsweek2/14配信)

 日本では「韓国の司法が初めて観音寺の主張の正当性を認めた」「仏像返還へむけて一歩進んだ」とか、概ね歓迎ムードのようだが、なにしろ相手は韓国である、このままスンナリ仏像返還に応じるかどうか、かなり怪しいように思います。

 上告審の大法院(最高裁)では、大法院長と大法官13人のうち6人が親北・反日・左翼系のウリ法研究会と民弁(民主社会のための弁護士会)の出身者らしい。

 ムン・ジェインによって地裁所長から大法院長に大抜擢された金命洙(キム・ミョンス)は、ウリ法研究会の会長をやっていた男で、その任期が今年の9月までだから、トンデモ判決でユン・ソンニョル政権に最後屁をカマス可能性も有りではないか。

 判決の内容も奇妙な印象です。

 観音寺は500年に渡って、この仏像を護持してきたのであって、観音寺の所有権は全く疑いの余地がない。

  韓国民法は日本民法を元に作られたらしいから、「占有者が占有物について行使する権利は適法に有する者と推定」(日本民法188条)されるはずである。

 原告が所有権を主張するためには、この推定を覆す事実を立証しなければならないが、14世紀に倭寇が活動していたという言い伝えだけで、裁判所が、仏像が「略奪文化財」であると決めつけるなどは、無謀というか、非常識というか、要するに馬鹿なのだとしか思えない。

 また「観音寺が法人化(宗教法人のことか)してから60年たっているから、取得時効が成立する」などと言っているが、ではそれ以前の所有権はどうなっていたのか、700年前の浮石寺と現在の浮石寺の同一性が確認できないから現浮石寺の所有権は認められないというが、旧浮石寺の所有権が60年前まで存続していたとでも言いたいのだろうか、マア韓国の裁判所の本音はそんなところでしょう。

 検察が観音寺住職を参考人として要請し、取得時効を主張するようアドバイスしていることも面妖というよりほかない。

 本来ならば、ユネスコ条約、ウィーン条約で即決できる問題を、検察と裁判所が一緒になって、観音寺と現浮石寺との間の所有権争いに置き換えているとしか思えない。

 何故このように歪な論理構成になっているのか、その理由については思い当たる節がないわけではない。

 1998年、叡福寺(大阪府・太子町)から高麗仏画「楊柳観音像」が盗まれたのを皮切りに、国内では仏像・仏画・仏典の窃盗が相次ぎ、その多くが韓国人窃盗犯によるもので、確か2012年ごろの雑誌「Will」によれば、重要文化財級の60数点が韓国に渡ってしまったと言われている。

 そのうち1994年安国寺(長崎県壱岐市)から盗まれた「高麗版大般若経」493帳、2002年鶴林寺(兵庫県加古川市)から盗まれた「絹本著色阿弥陀三尊像」などは国指定重要文化財です。

 1995年大韓民国国宝284号に指定された「初彫本大般若波羅蜜多経」が、シミの跡などが安国寺の大般若経に酷似していたため、日本政府が確認の問い合わせをしたところ韓国政府はこれを拒否、2001年に公訴時効が成立したと主張している。

 「大般若経」の最終購入者は、コリアナ化粧品の社長で韓国博物館協会会長の地位にあった人物で、ソウル中央地検は、盗品とは知らずに買ったもので善意の取得だと言っているらしい。

 鶴林寺「絹本著色阿弥陀三尊像」は、韓国内で6回の転売を経て慶尚北道の寺に渡ったが、その後また売り払われ行方不明になっている。

 隣松寺(愛知県豊田市)から盗まれた「絹本著色観経曼荼羅」は元朝に由来するが、韓国文化財管理局は「日本所在韓国仏書図録」では韓国のものだとしており、韓国大邱広域市の寺院が所蔵しているという。

 所蔵が確認された例も幾つかはあるが、盗難文物の大部分は所在不明になっている。

 「韓国では小中華思想や漢民族優越主義の観点から『日本文化のほとんどが日本人が朝鮮半島から盗み出したもの』という見方(韓国起源説等)が流布しており、『日本に略奪された韓国文化財と文化を取り戻しに行く』という名目で、韓国人によって日本にある日本の文化財や中国や朝鮮半島由来の文化財が組織的・計画的に韓国人窃盗団に盗み出される事例が1994年以降、2012年まで相次いでいる。韓国では『日本が盗んで持って行ったのだから、盗み返しても問題ない』という通念が流布している。」

 「韓国の警察によれば、韓国古美術界では窃盗品の売買を意図的に繰り返し時効成立を待つ体制が『韓国窃盗ビジネス』として成立しており、窃盗団、古美術界、パトロンの財界などが一体となっている。特に高麗仏画は韓国に20点ほどしかなく、日本に100点。米国や欧州に40点ほどあり、韓国での価格は50億ウォンにもなるといわれ、窃盗の標的になっている。」

 「日本の文化庁・外務省は1970年にユネスコ総会で採択された文化財不法輸出等禁止条約に基づき、1998年以降、返還要請を繰り返しているが韓国政府は日本からの度重なる調査・返還要請を拒否し続けている。この背景には伝統的な反日感情のみならず、『日本は韓国から略奪した文化財を返さないでいるのに、なぜ韓国のほうから積極的に返さなくてはならないのか』という一方的な被害者意識からくる国民感情がある。」(wiki「朝鮮半島から流出した文化財の返還問題」から)

 これらの盗難文化財がいつの日か韓国内で「発見」され、日本政府(文科省・外務省)が調査・返還要請する、あるいは被害者の寺院が韓国内で訴訟を提起することが当然予想される。

 しかし韓国のことだから、国際法(ユネスコ条約、ウィーン条約、日韓請求権協定など)を無視して、その文化財は略奪されたものであり、合法的に日本にもたらされたことの立証責任は日本側にある、また日本側の所有権が認められたとしても、韓国内で即時取得あるいは取得時効が成立するから日本に返還する必要はないと主張する可能性が大きいのではなかろうか。

 韓国の「平穏・公然・善意・無過失」を封じるためにも、文化財盗難の再発を防ぐためにも、日本政府は粘り強く国際法の遵守を訴え続けるよりほかないはずであるが、日本側当局には十分な熱意が感じられないような気がします。

 3月17日に12年ぶりの日韓首脳会談が行われたが、岸田首相は文化財盗難の問題も提起したほうがよかったのではないか。

 私は、岸田首相の外交的センスを信用していない。

 高裁判決が旧浮石寺と現浮石寺の連続性を否定したことは妥当な判断です。

 極端な儒教国家であった李氏朝鮮は、仏教を大弾圧したため、高麗時代に1万3千あった仏教寺院の大部分が破壊され、「世宗大王」の時代に残った寺院は36ヶ所のみであり、生き残った寺院に浮石寺は含まれていない。

 また現在の曹溪宗は、総合仏教なるものを標榜しているが、実態はスリランカから受け継いだ南方上座部仏教であり(ネットで検索すれば分かる)、高麗時代の禅宗の一派である曹溪宗とは全く別のものです。

 随分前のことだが山川出版社から出ている「仏教史Ⅱ」によれば(手元にないので確認できないが)、日本仏教の影響力を嫌った一部の仏教徒がスリランカ仏教を移入して儀軌を整えたとあったように覚えている。

 曹溪宗を名乗っているのは、伝統を強調して、権威づけするためでしょう。

 曹溪宗は今や韓国仏教界の最大派閥で、政治に対する影響力行使の野心を保持しており、反日傾向も強いので、将来、日本でも何らかの問題行動を起こす可能性が高いように思えます。 

 差し押さえ免除法

 2018年、韓国国立中央博物館は、高麗建国1100年周年特別展「大高麗展」に出展するため、日本にある高麗時代の仏画や仏像を所有する博物館(国立東京博物館、九州博物館、大倉集古館など)や寺院などに貸し出しをよう要請したが、文化財が安全に返却される保証がないとの理由でレンタルを拒否されている。

 日本だけではなく、アメリカ、フランス、台湾の美術館も拒否している。

 2010年10月に韓国国立中央博物館「高麗仏画展」には、韓国外、日本、フランス、アメリカなどから名品の高麗仏画61点が集まり大盛況となったらしい。

 ところが2012年観音時仏像盗難、2013年の大田地裁「占有移転禁止仮処分」決定がだされると、海外の博物館や美術館では、文化財を韓国に貸し出せば差し押さえされる危険があると見なされるようになり、展示貸し出しを避けるようになった。

 観音寺仏像盗難事件は海外の美術館・博物館・文化行政関係者らも注目するところとなっている。

 米国、フランス、ドイツ、英国、日本など多くの国々では「展示などの公益的目的で外国機関の資料をレンタルする場合、一般的な差し押さえや押収などを禁止できる」という、いわゆる「差し押さえ免除法」を施行しているが、韓国にそのような法律はない。

 一部の国会議員が「国民の文化享受権を促進するためにも、差し押さえ免除法が必要だ」と提案したが、法務部が「司法部の固有権限を侵害する惧れがある」とし法律審査の保留を要請、国会での議論さへままならないというが、これもまた奇妙な言い草である。

 司法部の固有権限なるものに外交権や行政権・立法権が含まれるはずがない、法務部の言い方だと、法律の制定には司法部に「お伺い」をたてねばならないと言っているようであるが、要するに責任回避でしかないのではないか。

 どうも韓国の辞書に「恥ずかしい」という言葉は載っていないのではないか。

 日韓議員連盟会長に菅義偉元首相が就任されるとのことである。

 菅さんには「国際法を守らないことは、とても恥ずかしいことなんだよ」と、韓国の政治家たちに、情理を尽くし、諄々と説いてやってほしい。

 期待している。

 

2022年1月16日 (日)

大浦天主堂・津和野カトリック教会・乙女峠マリア堂

大浦天主堂

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 19世紀半ば、日本に開国の兆しありとみたローマ・カトリック法王庁は、フランスに本部があるパリ外国宣教会(Sciété des Missions Étrangères de Paris)に日本への宣教師派遣を要請した。

 1844年、テオドール・フォルカード神父が琉球に上陸し、那覇で2年間日本語を学んだ。

 1854年日米和親条約が結ばれ、この期に応じてメルメ・カション神父、バルテルミ・ジラール神父・テオドル・フューレ神父の三人の司祭が那覇へ赴任した。

 安政五年(1858)、幕府は五か国(米・蘭・露・英・仏)と修好通商条約を結び、外国人の居留が認められ、居留民のキリスト教の信仰の自由も保証されることになった。

 「日本にある仏人、自国の宗教を自由に信仰いたし、その居留の場所へ寺社を建てるも妨げなし」(日仏通商条約第4条)

 また、オランダ出島商館長ドンケル・クルチウスの進言を容れ、長崎においては踏み絵が廃止されることになったが、それ以外の地では明治四年まで続いた。

 安政六年(1859)、ジラール神父日本教区長として横浜に上陸、日本で最初のカトリック教会となる聖心教会(現在の山手教会)を建てた。

 カション神父は函館、フューレ神父は長崎に赴任した。

 パリ外国宣教会のベルナール・タデー・プチジャン神父は万延元年(1860)三月、日本に向けて出発、那覇において二年間日本語と日本文化を学び、文久二年(1862年)横浜に上陸、翌三年七月長崎に赴き、フューレ神父と合流した。

 先任のフューレ神父は、二十六聖人の殉教地に、フランス人のための教会を建てようとしたが叶わず、殉教地(立山)を望む丘(長崎市乙一番地)において教会の建設に着手した。

 フューレ神父が途中帰国したため、元治元年(1864)プチジャン神父と大工棟梁小山秀之進によって天主堂が完成、翌文久元年二月献堂式において「日本二十六聖殉教者天主堂」と命名された。

 「天主堂は長崎市民の好奇の的となった。『フランス寺見物』は長崎の人々の流行語にさえなった。浦上でも『フランス寺にマリア様がおいでなさる』という噂が村中に広まっていった。」(「乙女峠資料室」の解説・パンフレットなどから)

 慶応元年(1865、元治二)三月十七日の昼下がり、フランス寺の玄関前に、老幼男女十五人ほどの人々が集まり扉のカケガネをガチャガチャさせていた。

 庭園にいたプティジャン神父は扉を開け、人々を招じ入れた。

 一行は参観人をよそおい、堂内に散った。

 祭壇の前に跪いて祈る神父に三人の婦人が近づき、一人が神父の耳元にささやいた。

 「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ さんた・まりあノゴゾウハドコ」神父が聖母子像の前に案内すると人々が集まってきた。

 「本当にサンタ・マリア様だよ。ゼウス様を抱いていらっしゃる。」

 「私たちは今カナシミ節を守っています。あなたも守りますか」

 カナシミ節とは四旬節すなわち復活祭前の40日間をいう。

 神父は自分たちもカナシミセツを守っていると答えた。

 最初に声をかけたのは浦上村に住むイザベリナゆり(のち杉本を苗字とする、当時52歳)で、一行はゆりの娘婿や妹のクララてる(49歳)や夫、子供たち等、親族の者たちだった。

 日をおいて神の島(現長崎市神ノ島町)のペトロ政吉がやってきて神父に尋ねた。

 「折角参りましたので奥様やお子様方にご挨拶申し上げとうござります。」

 「私は一人です。御覧なさい。どの室にも誰もいないでしょう。」

 「ではお国に残してお出になったのでは?」

 「国にもいません。私たちは生涯独身でキリシタンたち全部が私の子供です。」

 政吉はこの人が待ち望んだパーデレであることを確信し、額を床につけて「童貞でござるか。お有難う。おありがとう」と声を挙げた。

  出津からやって来た者が、また神父に尋ねた。

 「ローマのお頭さまのお名前は何とおっしゃいますか?」

 「ピオノノ(ピオ九世)と申されます。私たちはローマのお頭から遣わされて日本に来ました。」

 信徒らがこのような質問をしたのは、「バスチャンの予言」というものが潜伏キリシタンに信じられていたからである。 

 最後の神父達が殉教した後、浦上、外海(そとめ)地方で信仰指導していた日本人伝道師でバスチャン(=セバスチャン)という者がいた。

 日本名は分かっていない。

 そのバスチャンが言い残したのは「七代たったらコンヘソーロ(告白を聞く神父)が大きな黒船(黒船という言葉は室町時代からあった)にのってやってくる」という希望に満ちた予言であった。

 しかし同時に、その時の神父が真実の神父かどうかを判断するための三つの識別条件を付けている。

 第一「サンタ・マリアを尊敬しているか?」、第二「神父が独身であるか?」第三「ローマ教皇に従っているか?」

 大浦天主堂が竣工する少し前、プロテスタントの牧師が小さな教会堂を建てた。

 屋根の頂の十字架に惹かれて大勢のキリシタンが訪れたが、牧師が妻帯者であることを知ると再び近づくことはなかった。

 信徒らが心配げにプティジャン神父に質問したのは、このような事情があったからである。

 しかし、今やパーデレを識別するためにバスチャンが言い残したという三つの条件はそろった。

 九月、プティジャン神父は、神の島のペトロ忠吉らと小舟で出津小浜海岸に上陸、古老のバスチャン重蔵方に入って潜伏キリシタンらと面会した。

 外海、五島、天草、筑後今村などの隠れ信徒の指導者らが神父のもとを訪れ、村に帰って教えを広めるようになった。

 「プティジャン神父は信徒を発見した。しかし、信徒もまた神父を自分たちの判断で発見した。こうして日本のキリシタンはローマと再び相まみえたのである。」

 バスチャンについては、平山郷布巻(現長崎市布巻))の生まれで、菩提寺の門番をしていたとか、深堀(長崎市深堀)の教会で働いていたとか、長崎桜町の牢獄に3年3か月捕らわれの身となり78回の拷問に耐え抜いた末に斬罪に処せられたとか云われており、バスチャン川、バスチャン井、バスチャン屋敷跡、バスチャンの妻が糸を繰ったという布巻平、バスチャンの師を祀った「サン・ジアン枯松神社」など、、関わる伝承は多いが確実なことは分かってはいない。

 バスチャンの最大の功績は、長崎、外海、五島のキリシタンに「バスチャン暦」あるいは「バスチャンさまの日繰り」と呼ばれる教会暦(典礼暦)を遺したことである。

 これはローマ教皇庁の「告知暦年」1634年のものを、大陰暦に換算し直したもので、バスチャンは、ともに潜伏布教活動したサン・ジアン神父に学んだと云われている。

 バスチャン暦のお陰で、この地方のキリシタンは、クリスマス(=ご産待ち、ご誕生)、復活祭(==上がり様)、昇天祭(=四十日目様)、聖隷降誕祭(=十日目様、そおかめさま)などの年中行事を二百五十年間維持することができた。

 バスチャン暦では、サンタ・クララの祭日が七月にあり、浦上の信者は、毎年夏、盆踊りを装い教会跡に集まりオラショを唱え、「家野はよかよか・・・」と唄ったという。

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 旧羅典神学校

 キリシタン禁制解除を機に、日本人神父を養成するために建てられた神学校で、ミサや授業は全てラテン語で行われた。

 明治8年(1875)ド・ロ神父によって完成し、大正15年まで神学生の校舎兼宿舎として用いられ、現在はキリシタン資料室となっています。

 国の重要文化財。

 プティジャン神父の募集に応じて来日したマルク・マリー・ド・ロ神父(1840〜1914)のことを知った。

 ド・ロ神父は「農業・印刷・医療・土木・建築・工業・養蚕などの広範な分野に渡る技術を外海(そとめ)の人々に教え、「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれた。」

 「ド・ロ神父は出津に教会堂を建て、「『外海の人々を貧しい生活から救いたい』『海難事故や病気で一家の働き手である夫や息子を失った妻や母、仕事のない娘に働く場を』と願い、私財を投じて授産場、マカロニ工場、鰯網工場などの施設を建設、織布、織物、素麺、マカロニ、パン、醤油の醸造などの授産事業により、女性たちの自立を支援しました。」

 「ド・ロ様そーめん」は今でも外海の名産物になっている。

 資料室にはド・ロ神父が布教のために作成した木版画が展示してあった。

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  浦上四番崩れと信徒解放 

 慶長17年、幕府は江戸・京都・駿府を始めとする直轄地にたいして教会の破壊と不況の禁止を命じた禁教令を布告し、諸大名もこれを「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った。

 慶長十八年(1614)、伴天連追放令

 元和二年(1616)、幕府は最初の鎖国令といわれる「二港制限令」を出し、その中で「下々百姓に至るまで」キリスト教を厳禁するとした。

 元和五年(1619)八月二十九日 幕府キリシタン60余人を京都・四条河原で火刑に処す

 元和八年(1622)八月五日 長崎・西坂でスピノラ、木村セバスチャンら55名処刑される。

 元和九年(1623)十月十三日 江戸・芝でシモン・遠浦、胤信ら50名、火刑に処せられる。

 元和の大殉教は徳川幕府(秀忠・家光)のキリシタン禁制への強い意志を天下に表明するものだった。

 これに続いて仙台藩、南部藩、久保田藩、山形藩、米沢藩、松前藩、大村藩など諸藩において、大規模の「殉教」事件があった。

 藩主らの多くは有能な家臣とその一族を処刑することを躊躇したが、徳川幕藩体制において自藩の安定した地位を図るには、キリシタン禁圧の姿勢を強力にアッピールするしかなかったのである。

 長崎奉行竹中重義のキリシタン取り締まりもきびしいものだった。

 寛永十四年(1637)十月25日 島原の乱

 正保元年(1644)、マンショ小西(小西行長の孫)、飛騨高山にて処刑され、ローマから正式に叙階された日本人司祭がいなくなった。

 これ以後キリシタン禁制は「殉教」のステージから、「崩れ」のステージへと変わったのではないか、私はそのように捉えている。

 「崩れ」とは、潜伏したキリシタン信徒が集団で摘発されることを言う。

 大村郡(こおり)崩れ -明暦三年(1657)天草四郎の生まれ変わりという神童が現れたという風聞を切っ掛けに、郡村、萱瀬村、江の串村、千綿村の608人が逮捕された。疑いの晴れた者99人、永牢者20人、取り調べ中に牢死した者78人、411人が打ち首となった。獄門所でさらし首にされたのち、胴体と首は、別の場所に埋められ、首塚跡、胴塚跡として伝えられている。

豊後崩れー万治二年〜天和三年(1659〜1683)肥後藩高田、葛木、丹生から始まった取り締まりが、臼杵藩、岡藩、熊本藩、府内藩と豊後全体へと広がり、1000人を超えるキリシタンが捕縛された。豊後国のキリシタン捕縛は、長崎奉行の命で実施され、その後の処分は幕府の宗門改に報告され、江戸幕府の直接的介入によるものだった。以後、幕府は各藩に宗門改奉行の設置を義務づけ、大名領のキリシタン禁制政策を『幕府宗門改役ー各般の宗門奉行』というラインで統括することとなり、長崎奉行は九州全域の禁教政策に介入するようになり、幕府の九州統治が強化された。

 濃尾崩れー寛文元年(1661)〜寛文七年(1667)尾張と美濃で3000人のキリシタンが斬首、磔刑に処せられた。織田信長がキリスト教に好意的だったので、濃尾地方には九州に次いで多くのキリシタンが残っていた。首を落とされた胴体は、試し切りのため藩士に配られ、老中には生きたままのキリシタンが試し物として差し出されたという。寛文七年十二月にはキリシタンはほぼ絶滅したと考えられるようになり、尾張藩は幕府に対し、領内の宗徒は大方絶滅の旨報告している。 

 浦上一番崩れー寛政二年(1790)浦上村の庄屋が、円福寺に八十八体の石仏を奉納するため村人に寄進を迫ったところ、多くの人から拒絶されたため、怒った庄屋が反対派の村民19名をキリシタンとして告発した。五年後「証拠不十分」として村人は放免された。

 天草崩れー文化元年(1804) 幕府から天草を預けられた島原藩では、天草一揆から165年たった当時も、度々の禁止お触れを出し、厳しい宗門改めをおこなうなど、キリシタン取り締まりに余念がなかったが、今富村(天草市河浦町今富)に牛を殺して神前に供える者がいるとの風聞が流れたことを切っ掛けに、庄屋らを使って探索を進めたところ、大勢の隠れキリシタンが発見されたのであった。藩は大事件に発展することを恐れ、検挙して処罰するのではなく「誤りを糺す」方針で臨み、夜半決められた場所へ聖具を捨てさせたり、僧侶を遣って諄々と説諭させ改宗させるなどの処置を講じて、穏便に事を収めたのだった。最終的に「心得違い」の人数は5205人に及んだ。天草崩れは「天草心得違い事件」と呼ばれることもある。

 浦上二番崩れー天保十三年(1842) 浦上村の住民がキリシタンであるとの密告があり、帳方(隠れ信徒の指導者)利五郎ら主だった幹部4人が摘発された。だが、捕らえられた者は一人として自分たちがキリシタンであることを認めず、長崎奉行所の役人である益田土之介も事態を大事(おおごと)にしないよう進言したので、捕らえられた者らは注意を受けたのみで釈放された。

 浦上三番崩れー安政3年 「転び者」の密告によって帳方・吉蔵らキリシタン15名が捕らえられた。過酷な取り調べによって幹部らが獄死したが、長崎奉行所は「異宗事件」として処理した。

 浦上四番崩れー後述

 木場(こば)三番崩れー慶応三年(1872)7月3日、木場(こば、現長崎市三ツ山町)の125人が大村牢に投獄され、明治五年までに55人が獄死した。

 五島崩れー明治元年9月29日、久賀島でキリシタン200人が、わずか6坪の狭い牢に押し込められ、明治五年までに42名死亡。ウジに腹を食い破られて絶命した者がおり、ひもじさに泣き狂う子供に顔を掻きむしられ血まみれになった母親がいたという。現在、牢屋の跡地には「牢屋の窄(さく)殉教記念聖堂が建てられている。

 

 信徒発見から、二年程の間は、和服を着たりチョンマゲ姿に変装したプティジャン神父、ブローニュ神父が浦上村を訪れ、村民に教理を教え、洗礼を授け、ミサを行った。

 巡回してくる神父のために、四つの秘密教会ー聖ヨセフ堂(高木仙衛門宅の裏にあった)、聖マリア堂、聖フランシスコ・ザベリオ堂、聖クララ堂が設けられた。

 1867年(慶応3)、浦上信徒らは仏式の葬儀を拒否し、キリスト教の葬儀を行いたいと庄屋に申し出、驚いた庄屋がこの事を長崎奉行所に報告した。

 信徒代表として長崎奉行所に呼び出されたドミンゴ高木仙衛門は、はっきりとキリスト教の信仰を表明したが、奉行は仙衛門をいったん村に返している。

 7月14日深夜、幕吏は、秘密の教会堂を急襲し、信徒68名を捕縛し小島の牢獄に閉じ込めた。

 翌日、事件を聞いたプロイセン公使、フランス領事、ポルトガル公使、アメリカ公使は、長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議をおこなった。

 8月29日、浦上キリシタンはローマ教皇ピオ9世に書簡を奉呈した。

 9月、浦上キリシタン80名ほどが桜町の牢に移送され、入牢者に拷問を加えないという諸国外交団に対する口約は破られた。

『ドトイ』(駿河問い=足と手を背に寄せ首と胸に縄をかけて背に縛りよせ、梁に掛けた縄で吊るして棒や鞭で叩き、降ろしてまた水をかける)が六人の者に加えられ、見せしめの為に門口に転がされた。

 小島牢から移送された者らはこの有様をみて震え上がり、皆改心(転び)してしまったが、本原郷の仙衛門だけは背教を拒んだ。

 9月13日、改心した82名が帰村を許され、改心しなかった仙衛門も14日には帰村を許されている。

 理由は分からないが、長崎奉行は懲らしめの効果は十分あったと判断したのだろう。

 「それより浦上に帰り、我が家に行きましたれば、なにぶん内にもいられず、外にもおられず、天主様を捨てたと思いましたら、一つの体を居る処がありませんゆえに、昼も夜も山の中にいて、三日三晩泣いておりました。それより、天主、サンタ・マリア様の力をもって、天主に立ち帰り、人々をすすめ、官にかけこみ、ふたたびの責め苦を受け、責め殺されるつもりにて、人々をすすめまわりましたところが大分仲間ができました。それより、村の庄屋の玄関に頭を下げて、もとのごとく改心もどし願いをいたしました。」(『木村仙衛門覚え書き』)

 「改心もどし」とは、信仰を捨てたが、あとで改めて信仰を持っていることを確認し、再認識してもらうことをいう。

 一度転んだ者らが改めて信仰を表明するということは、それこそ決死の覚悟だったのではないか。

 9月21日(8月24日)、正式に抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大阪城で面会し、事件についての話し合いが持たれた。

 1868年3月7日(慶応4年2月14日)、新政府の参与であった澤宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命ぜられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任。

 4月6日(戊辰3月14日)「五箇条の御誓文」、翌7日「五榜の掲示」

 「御誓文」が詔勅であるのに対し、「五榜の掲示」は、太政官布告による間に合わせ的な措置であり、新政府の支配下にある地域の高札場で掲示された。

 第一札「五倫道徳順守」第二札「徒党・強訴・逃散禁止」第三札「切支丹・邪宗門厳禁」第四札「万国公法履行」第五札「郷村脱走禁止」

 第三札「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所へ可申出御褒美可被下事」

 沢と井上は、浦上信徒らを呼び出し説得したが、改宗の意思がないと判明するや、井上は太政官に対し「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰案を提示した。

 5月15日(4月25日)、大阪で御前会議が開かれて、これが討議され、外交担当の小林清兼の、諸外国からの抗議がある現状を考慮せよとの意見が採用され、「一村総配流」が決定された。

 翌日、大阪東本願寺別院で行われた外国公使との交渉の席でさらに厳しい抗議が行われ、大隈重信ら政府代表らは6時間にもわたって浦上信徒問題について議論がおこなわれた。

 大隈は当時外国事務局判事であり、交渉の席には三条実美、岩倉具視、木戸孝允、井上馨、伊藤博文らも同席していた。

 パークスは「文明国はどの国も信仰の自由を承認している。日本が行っていることは野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議し、「さもなくば日本は滅びる」とまで言い放った。

 大隈は「欧州の歴史は戦乱の歴史である。キリスト教は地に平和を送るものではなく剣を送るものである。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となって、世に波風を喚起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは誰の所為か。今の日本でいきなりキリスト教を開放するならば、混乱が起き、神道派・仏教派が反対して血が流れることになる」と抗弁した。

 大隈は、パークスが強く抗議してはいても、外交関係を損なうようなことしないとみていたのである。

 大隈は佐賀・致遠館で宣教師フルベッキから洋学を学んでいたのでキリスト教に好感を抱いていたが、交渉の席では敢えて保守的な強硬論を主張して、新政府内部において実力を高く評価されるようになった。

  6月7日(閏4月7日)太政官達で捕縛された信徒の流罪が示された。

 7月9日(5月20日)木戸孝允が長崎を訪れ、第一陣として信徒の有力者114名を津和野、萩、福山へ移送することが決定された。

 浦上キリシタンは、名古屋以西で且つ十万石以上の諸藩に預けられることになり、最終的には3394人が金沢、名古屋、和歌山、鹿児島、広島など22ケ所に分けて配流された。

 信徒らの移送は、1870年(明治3年)まで続いた。

 「彼らは流刑先で数多くの拷問・死刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱責め、磔、親の前でその子供を拷問するなど、その過酷さと、陰惨さ、残虐さは旧幕時代以上であった。」(wikiから)

 「1871年1月27日(明治3年12月7日)イギリス代理公使アダムスは、金沢(526人も受け入れている)、大聖寺、富山などの諸藩預かりのキリシタンが、残酷な取り扱いをうけているという外事新聞の報道を取り上げて、政府に待遇改善の申し入れを行った。

 3月9日(1月20日)政府はアダムスの要求を受け入れ外務権大丞楠本正隆と中野建明に各地を巡検させることにした。

 その結果浦上キリシタンの処遇も改善され、一応落ち着いたと思われる1871年12月17日(明治4年11月6日)またもや「伊万里県異宗徒移送事件」が起こり、新たに伊万里県(のちの佐賀県)管轄の、高島、蔭の尾、伊王島、神の島、大山、出津、黒崎の村々のキリシタン67名が捕らえられ、佐賀市内の牢に投獄された。

 この事件は欧米の世論を再び刺激して、使節団の目的不平等条約の改正に対して暗雲をもたらすことになる。」

 不平等条約改正、欧米事情の視察を目的とした岩倉使節団は、ワシントンに向かう途上で、伊万里事件のことを知り、アメリカ公使デ・ロングは此の事に対する注意を促した。

 1872年3月3日(明治5年1月15日)アメリカ大統領グランドの岩倉大使挨拶に対する答辞の中に「信教の自由を認めなければ自由な交際は出来がたい」との要求があり、条約中にその旨規定することを認めさせられた。

 同年、8月、ロンドンにおける英外相グランヴィルとの会談でキリシタン弾圧政策が非難された。

 12月5日、ウィンザー城にてビクトリア女王に拝謁した岩倉大使に、女王は「日本の政治が将来キリスト教諸国民の信愛と尊厳とを得る方向に進むことを信じています」と述べた。

 翌年、フランス外相レミユサ、ベルギー蔵相モローとの会談でも問題とされ、ブリュッセル市民が使節団の馬車に押し寄せ浦上キリシタンの釈放を叫ぶという事件があった。

 駐米公使森有礼は『日本宗教自由論』を著し禁教政策は継続しがたいと論じ、長州に影響力を持つ西本願寺の僧侶島地黙雷は信徒の解放を訴えたが、尊王攘夷運動の活動家であった政府要職者らは禁教令撤廃に強硬に反対した。

 1873年(明治6)2月24日、岩倉大使は欧州から電報でキリシタン釈放を要請した。

 「日本の法律中に、外教の明禁なしと雖も、尚高札に其の禁令を掲示するを以て、外人は一概に自由信仰を妨ぐるの野蛮国と見做し、対等の権を許すことを甘んぜず。故にこの高札の禁令を除くこと」

 太政官は布告68号をもってキリシタン禁制の高札を撤去、3月14日太政官達をもって「長崎県化下異宗徒帰籍」が命令され、浦上への帰還が許された。

 放免者は8月までに全て帰村した。

 「1614年(慶長19年)に始まった、キリシタン禁制は、二百五十九年ぶりにその効力を失ったのである」

 西日本の22か所に配流された者は3394名、うち662名が命を落とした。

 拷問に耐え切れずに棄教した者1022人、しかし彼らの殆どが帰村したのち元の信仰へと復帰した。

 生き残った信徒らは流罪の苦難を「旅」と呼んでさらに信仰を厚くし、1879年(明治12年)、浦上に聖堂をたてた。

 カトリック津和野教会

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 浦上キリシタン殉教の地である津和野に、明治中期、ヴィリオン神父によって創建された。

 火災によって焼失したのち、現在の建物は昭和初期の再建。

 石造りのような外観だが、木造平屋建て。

 チャペルは畳敷き。

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 浦上キリシタンが預けられたのは十万石以上の諸藩だったが、津和野藩は四万三千石の小藩であるにもかかわらず、信仰堅固な153名を引き受けている。

 これは、津和野藩主・亀井茲監(これかね)が、維新政府の神祇局判事にいち早く就任し、キリシタンは説諭して改宗させるべきであるとの意見を奉答したためです。

 津和野は復古神道の盛んな土地柄であり、亀井は神道による教導教化に相当の自信をもっていた。

 亀井はまた、自藩の神道家・国学者である福羽美静(ふくばびせい、よししず)を神祇局権判事に就け、福羽の師である高齢の大国隆正を内国事務局権判事に送り込んだ。

 亀井と福羽は、新政府の神祇事務局の主導権を掌握し「祭政一致の御布告」「神仏判然令」を起草、その後も新政府の宗教政策・文教政策に多大の影響力を行使しています。

「福羽の指導で津和野藩はキリシタンの信徒を改心させる務めを負いましたが、キリシタンの信仰は篤く、たやすく改心させることは出来ませんでした。そこで彼等は方針を変更し、拷問を加えて棄教させる方法をとりはじめたのです。三尺牢から氷責めにいたるまで残酷の限りをつくしました。」

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 昭和14年(1939)、津和野カトリック教会のセルミニョ神父、信徒等とメキシコ聖母青年修道会の援助を得て、「聖母の野原」(乙女峠の殉教の地)を購入。

 昭和23年(1948)、パウロ・ネーベル神父(岡崎祐次郎、ドイツから日本に帰化)、乙女峠に記念聖堂を建てる。

 昭和27年(1957)、ネーベル神父によって、「乙女峠まつり」が始められた。

 乙女峠マリア堂

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 飢えに苦しんでいる六つの女の子モリちゃん(カタリナ・もり)に役人は、お菓子を見せ「『食べてもいいが、そのかわりにキリストは嫌いだといいなさい』と言うと、その子は『天国の味がもっといい』と答えて永遠の幸せを選びました。

 志操堅固な守山甚三郎を憎んだ牢役人は、彼の弟14歳のドミニコ裕次郎を杉丸太に縛り付けて苛んだ。

 二週間後危篤状態に陥った裕次郎は姉のマツに渡された。

 「責め苦を受けている時、悲鳴をあげてしまって、さぞや姉さんの耳に障ったことでしょう。ご免なさい。八日目、もう耐えきれぬと思っていた時、竹縁とさしむかえになって居る屋根の上を見ると、一羽の雀が飯粒を含んできて、激しく鳴いている小雀の口に入れてやっているのを見ました。私はすぐイエズス様、マリア様のことを思い出しました。小雀でも神様から親雀によって大事にされ、守られていると思うと、まして私がここで責められるのを天からご覧になって、より以上にかわいく思ってくださらぬはずはない。こう思うと勇気が百倍して何の苦しみも無しに耐え忍ぶことができました。」

 「私はもうこれで終わりでしょう。天国に昇ったらきっと皆さんのために祈ります。姉さんたちは天主様のご摂理で、この監獄を出るようになるかもわからぬ。その時はよく人に教えてやってください。子供を泣かしてはなりませんよ。子供には罪がない。却って大人は罪があるから償いをせねばならぬのです。」

 「乙女峠の証し人(殉教者)」37人には、1〜9歳の子供が6人、十代の少年少女5人が含まれています。惨いというより言葉がない。

 津和野に流された総人数は153人、帰還した者122人、死亡者は41人、生児10人だった。

 杉本ゆりと娘のセツが流されたのは福山であった。

 福山の総人数は96人、帰還した者90人、死亡者7人、生児2人、逃亡1人。

 逃亡したのは浅市という男で、直ちに太政官から人相書きが回されたが、彼はこれを掻い潜り、大阪でクザン神父にあって配流されたキリシタンを慰問するよう依頼された。

 浅市はメダイ、コンタス(数珠)、クルス(十字架)などを携えて各地を回り、津和野に戻って夜通し語り明かしたのち、鳥取、金沢、大阪を経て再び津和野を慰問してから長崎へ帰り、大浦天主堂に匿われた。

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 ジョアンバプチスタ安太郎は、明治二年一月、裸のまま雪の中の三尺牢に入れられた。その身を案じた三人が牢の床に穴をあけ、安太郎に会いにいき彼の言葉を聞いて驚いた。

 『私は少しも寂しゅうはありません。毎夜九つ時(十二時)から夜明けまで、きれいな聖マリアさまの御影に見えるようなご婦人が頭の上に顕れてくださいます。とてもよい話をして慰めてくださるのです。』

 安太郎の言葉は甚三郎の「覚え書き」に記されている。

 パウロ守山甚三郎は『殉教者の死亡日誌』を書き記した。「一日一枚渡される紙(津和野紙)を引き裂いて、それに次々と殉教していく人々の名前、霊名、住所、死亡年月日、年齢などをメモしておき、後日取り調べがゆるやかになり、外出できるようになったとき清書したものである。

 『覚え書き』は彼が老年になって子供たちの願いに応じ、牢屋時代の話を書き綴ったものである。」

 高木仙右衛門とともに「氷責め」(氷が張った池に裸で漬けられ、気を失うと火で暖め気付け薬をきかされる)に掛けられ、意識が戻った甚三郎は「神様に誓ったという、『もし自分が生きて浦上に帰ることが出来れば、初めて生まれた男の子を神父にしますと』。後に、浦上に帰った彼は、神と交わした約束の通り長男を神父にしたのである。その人が浦上教会初めての邦人主任神父守山松三郎師である。」  

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 1867年10月21日、ドミンゴ高木仙衛門は、立山奉行所の大広間で長崎奉行と対座した。

 八月に着任したばかりの河津伊豆守祐邦(すけくに)は、池田長発使節団に随行し(→2017年7月3日「英国公使オールコックの忠告ー横浜鎖港問題」)西欧の事情に明るく、キリスト教国を見てきただけに、キリシタン弾圧には批判的な人物だった。

 仙右衛門は堂々と言い放った。

 「日本に私どもを助ける宗旨があればそれに従いましょう。けれども私どもはキリシタンです。天地万物がなかったときから天主があって、天地万物をつくり、最初の人間をつくりました。天主はわれらのまことの御親でございます。このおん親のほかには、何も信じて敬うことはできません。・・・わたしが親から言い伝えられたことは、天主よりほかのものは拝むなということです」

 「どうも折角ながら改心することはできません。お上のお取り調べのときも厄介をかけると知りながら改心をせずにおりまする。全く私は人を恐れません。ただ天の主だけを恐れます。どうぞお慈悲に、御吟味所の御用を受けさせて下さい。」

 「民百姓の類(たぐい)」が「お上」に向かって、堂々と「人間の尊厳」を主張した、これは日本人の精神の歴史における画期的な一大事件だったのではあるまいか。

 ただ、私は、禁教令も含めて鎖国体制(鎖国という言葉に疑問が投げかけられていることは承知しているが、ここではパス)というものは、正しいか間違いかということではなく、止むを得ないことだったし、日本の歴史にとって、やはり良い結果をもたらしたものだったと考えている。

 日本文化ー我々が「日本的」「日本らしさ」と感じるものの多くが江戸時代に形作られたことを否定することはできない。

 信長・秀吉・家康の時代には、加賀国一向一揆や天文法華の乱の記憶が生々しく残っていた。

 信長・秀吉は延暦寺、本願寺、伊勢長島一向一揆と戦っており、家康も三河一向一揆を鎮圧するのに苦労している。

 彼らの目に、宗教勢力は「天下統一」の障害をなす敵対勢力であると映っていたのではないか。

 「島原の乱」については、農民一揆であるとする説も有力なようだが、私は、やはり宗教戦争であったと思っている。

 しかし、郡崩れ、豊後崩れ、濃尾崩れなど大規模なキリシタン取り締まりの結果、1800年代になると、キリシタンは何ら徳川幕藩体制を脅かす存在ではなくなっていた。

 であるにも関わらず、開国・維新になると突然、峻烈過酷な弾圧が復活したというのは、何と理解したものか。

 おそらくは、信徒を預けられた藩主や役人に、テロリストらによって建てられた新政府への恐れと怯えの感情が瀰漫していたからではないか。

 明治初期のキリシタン弾圧は、近代国民国家・日本の「不都合な真実」である。

 「不都合な真実」は、日本だけのものではない。

 フランス革命では、ヴァンデ地方で数十万人のカトリック教徒が殺されているし、現代フランスの有名な宗教政策「ライシテ」も政府とカトリック勢力との抗争に起源がある。

 ロシア革命では、「1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは投獄され」2000の教会が破壊された。

 中南米では、極左勢力と保守派・軍部がカワリバンコになって、政権交替の度に「不都合な真実」をやっている。

 中国などは「不都合な真実」だらけであるが、最近のものとしては「法輪功」「臓器売買」「香港民主派」「ウィグル族」。

 ミャンマーのロヒンギャはベンガルから渡ってきたイスラム教徒だといわれており、国軍と仏教勢力が結びついて弾圧している。

 アフガニスタンを制圧したタリバンについては、2001年の「バーミヤン石窟寺院爆破」の印象が強烈すぎて、国際社会の承認を得られるのは難しいだろう。

 日本の政治家もダンマリを決め込んでいると、先進国から「野蛮国」とまではいわれないかもしれないが、「この程度の国か」と舐められるのではなかろうか。

 「なあなあ主義」は国際社会では通用しない。

 人は「不都合な真実」から目をそらせてはいけない。

 何故なら、人は成功体験よりも失敗・挫折の方から、はるかに多くのものを学ぶことができるからである。

 

2021年12月13日 (月)

吉備津神社

吉備津神社

岡山市北区吉備津

主祭神は大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)

第七代孝霊天王の第三皇子で、元の名は彦五十狭芹彦(ひこいせりひこ)

崇神天皇十年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子健吉備津彦命(わかひこたけきびつひこのみこと)と吉備を平定。

その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備氏になったとされる。

相殿には、大吉備津彦命の子孫二柱、姉である倭迹迹日百襲姫(やまととひももそひめ)命を始めとして兄弟姉妹の六柱の神が祀られています。

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 「    吉備津神社案内

 記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を創られた大吉備津彦大神(五十狭芹彦命・いさせりひこのみこと)を祀る山陽道屈指の大社。仁徳記創建で『延喜式』では明神大社。また最高位を与えられ一品(いっぽん)吉備津宮とも称される。古来、吉備国(備前、備中、備後、美作)開拓の大祖神として尊崇され、殖産興業・交通安全の守護神・延命長寿の霊験あらたかな神として朝野の信仰が篤い。

 吾国唯一の様式にして日本建築の傑作『吉備津造り』(比翼入母屋造り)の勇壮な社殿、鳴釜の神事、桃太郎伝説のモデルなどで著名。

  国宝 本殿・拝殿

  重文 御竃殿・南北随身門・木彫狛犬

  県重文 回廊              」

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 本殿・拝殿は室町時代に後光厳天皇の勅命により、明徳元年(1390)足利義満が造営に着手、応永三十二年(1425)に遷座した。

 本殿の大きさは出雲大社本殿・八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響がみられる。

 平安時代中期からは神仏習合で「吉備津明神」と称せられていたが、 江戸時代中期に三重塔を破却し、神仏分離が断行された。

 総延長398mの回廊が戦国時代天正年間(1573〜1591)に造営された。

 回廊に沿って、岩山宮、えびす宮、祖霊社などの摂社が配されています。 

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 回廊の終点(南端)は本宮で、吉備津彦命の妃や父母が祀れています。

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 一童社には学問・芸能の神が祀られ、江戸時代の国学者からも厚く信仰され、近年では受験生のお参りが絶えないという。

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 「比翼入母屋造りの本殿と拝殿が国宝に指定されている吉備津神社。

境内には全長398mに及ぶ美しい回廊や釜の鳴る音で吉凶をうらなうらなう鳴釜(なるがま)神事が行われている御釜殿(おかまでん)などがあります。

 さらに、この神社の祭神・吉備津彦命は、みなさんもよくご存知の桃太郎のモデルとして有名です。

 『悪事を働いて人々を困らせていた温羅(うら)という鬼を、朝廷から派遣された吉備津彦命が犬養部の犬養健命(いぬかいたけるのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)という3人の部下を率いて退治した。』

 これが『吉備津彦命の温羅退治』神話のあらましですが、桃太郎の鬼退治の昔話と共通点が多いうえ、吉備路一帯には温羅が城を構えたという鬼ノ城(きのじょう)、吉備津彦命矢と温羅の投げた岩がからみ合い落ちたとされる場所にある矢喰宮(やぐいのみや)、鯉に姿を変えた温羅が鵜と化した吉備津彦命に捕らえられた鯉喰神社といったゆかりの史跡も数多く残されていること、吉備団子や桃が古くから岡山の特産品であることから、桃太郎伝説のルーツと言われています。」

 「また、吉備路はかって吉備王国の中心地として栄え、以来数々の歴史の舞台となってきました。

 全国で4番目の大きさを誇る造山(つくりやま)古墳、総高343mの五重塔が美しい備中国分寺、そして羽柴秀吉の奇策・水攻めで有名な高松城址など古代から中世近世にいたるいくつもの史跡をみることができます。

 『古代吉備王国・桃太郎伝説を訪ねて』は、この吉備路一帯に点在するスポットを訪ね、歴史ロマンを体感するルートです。」

 (吉備津神社入り口の掲示板「吉備の国・新発見の旅ー古代吉備国、桃太郎伝説を訪ねて」)

 なお、2012年11月12日「桃太郎と吉備津彦神社」2019年11月15日「姫路城と岡山城」もご覧いただければ嬉しいです。

 御竃(釜)殿は慶長十一年に再建された。金曜日を除く毎日「鳴釜神事」が行われています。 

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  「      御竃殿鳴動神事の由来

 社伝によれば御祭神に退治せられた鬼『温羅』を祀る処とつたえられる。

 縁起によると 或る夜 吉備津彦命の御夢に温羅の霊が現れて『吾が妻阿曽郷の祝(はふり)の娘阿曽媛(ひめ)をしてミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ。若し世の中に事あらば 釜の前に参り給はば 幸あれば裕かに鳴り禍あれば荒らかに鳴らふ。

 ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給へ。吾が一の使者となりて四民に賞罰を加えむ。』と告げた。

 これ神秘な釜鳴神事のおこりである。

 今日も『鳴釜の神事』が行われており 鳴動の音の大小長短により吉凶禍福を卜するのである。

 江戸時代の林道春の『本朝神社考』や上田秋成の『雨月物語・吉備津の釜』などに紹介され 神秘な神事として天下に有名である。」 

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2021年10月19日 (火)

どないすんねん「ケイ&マコの愛の物語」(1)

 

秋篠宮眞子さまは十月中に皇籍を離脱され、小室圭さんとの婚姻届けを提出、「小室真子」となってNYで新婚生活を送られることになったらしい。

真子様の結婚について、毎日新聞と社会調査研究センターが全国調査したところによると

「『祝福したい』との回答は38%で『祝福できない』の35%をわずかに上回った。『関心がない』は26%だった。」

 「AERA dot.」が読者2051人にオンラインアンケートを実施した結果、「あなたは今、お二人の結婚を祝福する気持ちはありますか」という質問に91%が「ない」と答えたとのこと。

 「週刊女性」による調査では「祝福できる」が29,5%、「祝福できない」が29,6%だった。

 読売新聞の全国調査では、眞子さまご結婚を「よかったと思う」が53%、「思わない」は33%であった。

 「文春オンライン」がメルガマ登録者に行ったアンケート調査では、「納得がいく」7,4%、「納得がいかない」83,7%、「どちらともいえない」が8,9%だった。

 テレビの街頭インタビューでは、「おめでとうございます」「お幸せに」と応える人が多いが、活字メディアに対する回答では賛成派が減り反対派が増え、ネット世論やSNSでは結婚反対派が圧倒的になるようである。

 「祝福したい」「納得できる」と答えた人でも、その考え・思惑は様々だろうと推察するが、この結婚で眞子さまの幸せが約束されたなどと考える無邪気で能天気な人は、きわめて少数、いやほとんどいないのではないだろうか

 この結婚が「多くの人々がそのことを納得し喜んでくれる状況」の下でないことは明白であるが、私としては、この度のご結婚には大賛成である。

 ともかくも、「婚約中」が長引くことで、小室圭氏が「プリンセスのフィアンセ」の看板を利用し、眞子さまがビットキャッシュでお小遣いを送金し続け、世論の風向きを気にするあまり秋篠宮さまがノイローゼになり、小室母子のために宮内庁が警護の人員・金員の支出を余儀なくされることになっているが、もういい加減、ここらあたりで決着をつけるべきだ。

 眞子さまが紡ぎだした自分勝手なラブストーリーに、秋篠宮様、宮内庁、国民世論までもが翻弄されている、あまりにもバカバカしいというか情けないというか、見るに堪えないね。 

 この結婚を「駆け落ち婚」「強行婚」「ゴリ押し婚」などと呼んで、真子様が、愛というか信念というか、あるいは妄執を貫徹したことをもって「粘り勝ち」のように称揚する向きもあるが、その実態を、宮内庁の役人の側からみれば、眞子さまの情熱に屈した振りをして、体のいい「厄介払い」をしたわけで、むしろ「追放婚」「縁切り婚」「切り捨て婚」と呼ぶほうが正解なのではないだろうか。

 「もはや眞子さまと小室圭の結婚を止めることはできないが、それならば眞子さまには皇室と『無関係』になっていただくほかありません。」(宮内庁関係者)

 今年四月、小室圭さんは「私と母と元婚約者の方の金銭トラブルといわれている事項」についてのについての釈明文書を公表した。

 「借金だったことにされてしまえば、元婚約者のおっしゃることが正しかったことになり、私や母は借金を踏み倒そうとしていた人間だったということになります。これは将来の私の家族までもが、借金を踏み倒そうとした人間の家族としてみられ続けることを意味します。」「一般的には金銭トラブルと呼ばれていますが、切実に名誉の問題でありましたし、今でも同じように受け止めています。」

 小室氏は、リーガルマインドということを勘違いしているのではないか。

 こちらの対応に法的問題はないから、元婚約者のほうが間違っているといっているとしか聞こえない。

 贈与か金銭貸借か、学費に使ったか生活費にしたかは、本人は丁寧に説明しているつもりかもしれないが、法的問題以前に、元婚約者としては小室母子と家族になるためにお金をだしたのだから、婚約破棄の申し出があった時にそれなりの対応、たとえば資金援助に感謝の意を伝えたうえで「今はお返しできないが、社会人になったら必ずお返しします」といった挨拶が、まあ社会生活の常識として必要だったのではなかろうか。文春で金銭トラブルが報じられた時点でも、なお、やり方があったような気がする。

 28ページの文章には、何ともいえないネチネチ感、ネットリ感が漂っており、逆効果というか釈明どころか、より嫌悪感をもって受け止められたのも無理からぬことだ。

 小室文書について、宮内庁の西村泰彦長官は「非常に丁寧に説明されている印象だ」「小室さん側と元婚約者との間の話し合いの経緯についても理解ができた」と大絶賛したという。

 この時点で、秋篠宮についてはどうか分からないが、宮内庁としては「縁切り婚」で結婚容認する構想ができていたのだろう。

  小室文書は「国民が納得し喜んでくれる」状況を作りだすことには失敗したにしても、金銭トラブルが結婚の最大の障害になっているかのごとくにマスコミや世間に印象付ける効果はあった。

 しかし実は、金銭トラブルなどは小室母子に対する疑念の、ほんの一部でしかあるまい。

 圭氏の父親・敏勝氏は圭氏が10歳の2002年に多摩川の河川敷で焼身自殺、その一週間後、祖父(敏勝氏の父親)が自殺、その一年後には祖母が自殺したというのだから恐ろしい話である。

 詳しいことは、文春オンラインやデイリー新潮で読んでいただきたいが、三人の自殺には小室佳代さんの身勝手な振る舞いが関係しているように思えてならないのです。

 その他にも、暴力団関係者との交友関係、怪しげな新興宗教団体の信者であること、遺族年金詐取疑惑、職場での休業補償をめぐるトラブルなどの問題があるし、秋篠宮様に自身のビキニ姿の写真を贈ったり、天皇皇后両陛下、上皇・上皇后さまに面会を申し込んだりとか奇行も多い。

 10月6日に、ジャーナリスト篠原丈一郎氏が、東京地検に「遺族年金の不正受給」「傷病手当金の不正受給」が詐欺罪にあたるとして告発状を提出したとの報道があった。

 告発状が受理されるかどうか決まったわけではないが、今後小室佳代さんが詐欺罪容疑で捜査・告発される可能性もあるわけであり、26日の御結婚発表にも何らかの影響があるものと思われる。

 また、10月10日には、東京都内で眞子さまの結婚に反対する街頭デモがあった。

 「皇室を護りたい」「茶番会見やめろ」「小室母子の血税横領疑惑を調査せよ」などのプラカードを掲げて、100人ほどが有楽町を練り歩いたという。参加者の8割が女性であったという。

 ご結婚反対のデモは、先月から、東京、神奈川、大阪、福岡などで、何度か行われていたらしい。

 デモ参加者の気持ちもわかるが、早いとこ「ケリ」をつけてもらって、スッキリした気分になったほうが良いのではないか。

 佳代さんが女手一つで圭氏をここまで育て上げたことは、並々ならぬご苦労があったはずで立派な母親だとは思うが、内親王様と結婚し、皇族方と姻戚関係を結ぶとなると、やはりどうにも首肯しかねるというか、由々しき事態というよりほかない。

 秋篠宮様が「納采の儀」は出来ないとされたのは当然のことです。

 眞子さまが、これらの事情をどの程度御存知か分からんが、ご結婚が悲惨な結果を招くことは必定でしょう。

 「国民の忌避感情をあおっているのは、小室さんが真子さんを操っているように見える点でしょう。サイコパス的な気質の人の中には他人をコントロールしたり世間を騒がせたりすることで快感を覚える人がいます。小室さんもまた、そんな愉快犯めいた気持ちがあるのではないのでしょうか。」(元都立松沢病院精神科医長・春日武彦氏)

 「秋篠宮殿下の長女・眞子さまと小室圭さんが年内にも入籍する運びとなり、長く続いた結婚問題は、小室母子が" 粘り勝ち "した形だ。その裏で、佳代さんは真子さまについて周囲にあけすけに語っていたようでー

 佳代さんの知人は、最近の彼女の様子についてこう語る。

 「最近も佳代さんは『眞子さまが”母(紀子さま)より、お母さまの方が好きです”と仰ってくださるのよ』などと嬉しそうに話していました」」

 実際にこれまで、眞子さまは佳代さんにお会いするたびに"お母さま、ご機嫌いかがですか"と気遣いを見せられ、佳代さんも"天使のような方"と讃えていたという。

 眞子さまは日頃から、圭さんだけではなく佳代さんにも密に連絡を取り合っており、すでに"小室家のお子さん"というご様子だそうだ」

 (『デイリー新潮』)

 小室家と眞子さまが既に一体化している様子がうかがえるが、世間知らずの眞子さまが一方的に小室母子の術策に嵌められたとみることも正しいこととは思われない。

 2017年9月の婚約内定会見において秋篠宮が仰ったように、二人は「約五年の歳月をかけて、双方の気持ちを確認しながら結婚に向けての話を進めてきた。内定までの5年は、私たちの時よりも長い期間になり、二人の意思を確認するには十分な時間であった」。

 小室母子の特異なキャラクターから、眞子さまが操られているかのように見えるのかもしれないが、私の感じでは、眞子さまの「皇室離脱」への強い意志がまずあって、そこに小室母子が付け入ったのではないか。

 2017年9月の婚約会見では「太陽のような明るい笑顔」「月のように静かに見守ってくださる方」という掛け合いが話題になったが、この会見の応答は眞子さまの主導で入念に準備されたもので、圭さんは猛練習を強いられたらしい。

 この会見で、眞子さまのどの点に惹かれたかという記者の質問に、圭さんは「とても愛情深く、確たる信念をお持ちのところに強く惹かれました」と答えているが、これは眞子さま自身の「理想の自画像」でもあったのではないか。

 今年9月22日、真子内親王殿下は、かねてから相談なさってきたという皇室関係者に「色々ありましたが自分を信じて進んで参りたいと思います。」と現在のお気持ちを伝えられたという。

 2020年1月の「歌会始の儀」における、眞子さまの歌「望月に月の兎が棲まうかと思ふ心を持ちつぎゆかな」

 眞子さまの純粋なお気持ちが表現された良い歌だとヨイショする人がいるかもしれない。

 唄の巧拙は置いといてー私は、下手くそで下らない歌だと思っているがー二十八歳にもなって、皇室行事の場で、恥ずかしげもなく、こんな歌を披露する神経が、ワシのような田夫野翁には分からん。

 「いつまでも御伽噺の世界で遊んでいたい」といっているようにしか聞こえないのだが。

  私の見るところでは、庶民の生活世界から隔離された特殊空間の中で醸し出された、現実を顧みない「脆く儚い」ラブストーリーを、眞子さまは「信念」と呼んでおられるのではあるまいか。

 さて、婚約会見において、好きな言葉は何かという記者の質問に、圭様は莞爾として「好きな言葉は『LET IT BE』でしょうか」とお答えになったのであった。

 「LET IT BE「」とは、「あるがままに」「かまわないで」「なりゆき次第」「順調だ」といった意味らしい。

 婚約発表に際しての佳代さんのコメント「主人亡き後、息子は自発的に物事に取り組み、努力を重ね、ご尊敬申し上げる方からのご指導のもと、人生の要所要所を固定観念にとらわれることなく決断してまいりました。」に、符合するところがある。

 眞子さまは「生真面目で」「勝気」「頑固」「わがまま」」「自分のことは自分で決める」「いちず」な性格であると評されているが、これは秋篠宮様から受け継いだものらしい(紀子様も、多分にこの傾向がある)。

 昔の歌ではないが「思い込んだら命懸け」なのである。

 圭さんの「LET IT BE」で「固定観念にとらわれない」性格が、「硬くて脆い」眞子さまの目には「自由でしなやか」な生き方のように見えたのであろう。

 小室母子には常にパトロネージを求める性向があるようで、相手に合わせるのが巧みな圭さんの性格も、これで形作られたものだろう。

 圭さんは、大学を卒業してから、三菱UFJ銀行に勤めたのち、司法試験を目指して法律事務所に勤めながら法科大学院で学び、3年前に結婚延期を発表して、フォーダム大学の法科大学院で学んでNYで弁護士になる予定だといわれている。

 夢の実現に向け苦学力行しているイメージだが、どうも現実回避でモラトリアムの時間を稼いでいるようにしかみえないのである。

 小室圭さんは、本当に眞子さまと結婚したいのだろうか、本心はいつまでも「王子様」であり続けたいのではないか、フト思ったことではある。

 眞子さまは、2020年11月、秋篠宮様の立皇嗣の礼が終わったのち、眞子さまは「結婚についてのお気持ち」を文書にて公表された。

 「様々な理由からこの結婚について否定的に考えている方がいらっしゃることも承知しております。しかし、私たちにとっては、お互いこそが幸せな時も不幸せな時も寄り添いあえるかけがえのない存在であり、結婚は私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です。」

 「私がこの文章を公表するにあたり、天皇皇后両陛下と上皇上皇后両陛下にご報告を申し上げました。天皇皇后両陛下と上皇上皇后両陛下が私の気持ちを尊重して静かにお見守りくださっていることに、深く感謝申し上げております。」

 2020年の自殺者は21,081人で前年比912人増〈4.5%増)で、リーマンショック後の09年以来、11年ぶりの増加であった。

 50代、60代が減少した他は、各世代において増加し、特に20代、30代の女性の自殺の増加が顕著であるという。

 新型コロナによる雇用減少で困窮している、それこそ「心を挫かれている」若者らは、この声明をどのように聞いたことだろうか。

 眞子さまは、「自分たちの心」のほかに興味がないのであろう。

 「結婚できないなら死んでやる」と脅しているようでもあり、実に嫌な感じの文章である。

 特に、天皇皇后両陛下、上皇上皇后陛下が「私の気持ちを尊重」しているなどと勝手に言っているが、絶対にやってはいけないことだ。

 天皇陛下は、今年2月の記者会見で「眞子内親王の結婚については、国民の間に様々な意見があることは承知しております。このことについては、眞子内親王が、ご両親とよく話し合い、秋篠宮がいったように、多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております。」と仰り、眞子さまの発言に釘を刺された。

  どうも眞子さまという人は、「下手な小細工」が多すぎるのではないか。

 自分一人で状況をコントロールしてやろうという気持ちが強すぎるんだね。

 眞子さまは「ただの人」になって、生き馬の目を抜くNYで否応なく「現実」に身を曝すことになるわけだが、「ポッキリ」と折れてしまうのではないか。

 

2021年5月 9日 (日)

八坂神社と蘇民将来・牛頭天王・八王子 (1)

 

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  八坂神社というと思い浮かべるのは東大路通りに面する華麗な朱塗り門・西楼門です。

 しかし多くの神社がそうであるように八坂の神も南面しているので、南楼門が正門とされている。

 こちらから入るのが正規の参拝ルート。

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 慶応三年(1867)十二月九日「王政復古の大号令」

 「幕府や摂政・関白を廃止して新政府樹立を宣言するこの号令は、『諸事、神武創業之始に原(もとづ)キ』行うこと、つまり神武天皇が行っていたとされる、天皇中心の祭政一致の政体に復古することをも宣していた。」(古川順弘「仏像破壊の日本史ー神仏分離と廃仏毀釈の闇」宝島新書)

 翌慶応四年、新政府は、祭政一致を実現するため、律令制の神祇官を再興(三月十三日)し、社僧の還俗(三月十七日)を命じ、神仏の混交を禁止(三月二十七日)する布告を発した。

 このような一連の布告を総称して「神仏分離令」「神仏判然令」という。

 神仏混交を禁止する布告とは、「古くから某権現・牛頭天王などの仏語を神としている神社は少なくないが、いずれもその神社の由緒詳細に書きつけて申し出るように・・・仏像をご神体としている神社は今後、改め・・・本地などと称して仏像を社前に掛けたり、鰐口・梵鐘・仏具の類を置いている場合は、早速取り除くこと」を命じるものであり、続いて(四月二十四日)太政官より「このたび大政御一新につき石清水・宇佐・筥崎などの八万大菩薩という称号を禁止し、八万大神(おおかみ)と称するよう申し渡す」との告示がなされた。

 (神仏分離令の趣旨は、神仏習合を禁じ、神社の仏教色を排除することにあって、仏教そのものの弾圧や排撃を意図したものではなかった。過激な廃仏毀釈を主導したのは国学者や神道家、神職たちであり、彼らのあとに廃仏に熱狂する民衆が続いたのだった。廃仏毀釈によって、日本の総寺院数は半減し、大量の文化財が失われた。神仏分離令・廃仏毀釈は、転形期におけるイコノクラスム(偶像破壊・象徴破壊)であると同時に、民衆暴力という視点から把握することも必要だと思う。)

 八坂神社は維新前は祇園社、感神院(かんじんいん)などと呼ばれ、牛の頭を登頂に据えた姿で描かれる牛頭天王(ごずてんのう)を主祭神としていた。

 慶応四年、祇園社では社僧が復飾し、五月、「八坂神社」と改称、仏像・仏具は浄土宗寺院に移され、堂塔も漸次処分された。

 京都の祇園社が八坂神社と改称したことを機に、全国各地に3000社あるとされた牛頭天王社、天王社、祇園社は、八坂神社、あるいは所在地の地名を冠した社名へと変わっていった。

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   東山通りの楼門から入ると、正面に疫神社があり、その右隣に「太田社・白髭社」がある。

   御祭神は猿田彦神・天鈿女(あめのうずめ)命。

 太田社の名前の由来については、アメノウズメ・サルタヒコ夫婦の子孫に太田命がいたからであると説明されているようだが、私は、この『太田』は大田田根子(おおたたねこ)から来たのではないかと考えている。

 「崇神五年、国内(くにうち)に疾疫(えのやまひ)多くして、民(おほみたから)死亡(まか)れる者(ひと)有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす。」

 「六年、百姓(おほみたから)流離(さすら)へぬ。或いは背叛(そむ)くもの有。其の勢(いきほい)、徳(うつくしび)を以て治めむこと難し。」

 崇神七年、天皇の夢に大物主(オオモノヌシ)神が現れて『天皇(すめらみこと)、復(また)な愁へましそ。国の治まらざるは、是吾が意(こころ)ぞ。若し吾が児大田田根子を以てして、吾を祭りたまはば、立(たちどころ)に平ぎなむ。亦海外の国(わたのほかのくに)有りて、自づからに帰伏(まうしたがひ)なむ』と告げた。

 そこで天皇は、茅渟縣(ちぬのあがた)・陶邑(すえむら)から大田田根子を探し出して主(かむぬし)とし、物部連の祖(おや)伊香色雄を『神班物者』(かみのものあかつひと)として、大物主神を祭らせたところ『是に、疫病(えのやまひ)始めて息(や)みて、国内漸(やうやくに)謐(しずま)りぬ』。

 そこで、大田田根子は疫病退散の神とされ、若干字ずらが違うけれども『太田社』として祀られることになったのではないか。

 白髭神社は全国におおよそ150あって、総本社の白髭神社(琵琶湖西岸)では、比良明神あるいは白髭明神は猿田彦であるとしているので、八坂境内の白髭神社もこれに倣って、神仏分離の際に猿田彦を祭神としたのだろう。

 しかし白髭神社については、朝鮮に起源をもつ新羅神(しらぎがみ)を祀ったものだとする説もあり、「古事記」にも、イザナギ・イザナミの神婚によって生まれた国土のなかで筑紫国を白日別(しらひわけ)あるいは新羅神というとある。

 また斉明天皇二年(658)、高句麗の調進使・伊利之使主(イリシオミ)が渡来の折に、新羅国牛頭山に座(いま)す素戔嗚尊の御霊を勧請して祭事を執り行ったので、これによって愛宕郡八坂郷と八坂造の姓を賜ったのだとする伝承(『八坂郷鎮座大神記』)があることを考え合わせると、白髭社の祭神は、新羅の神であると受け止められていたのではないか。

  祇園信仰の原点である薬師堂(薬師如来、観音菩薩・夜叉神明王などの仏像を祀っていた)があったのは、この辺りとされている。

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 「   疫神社   祭神 蘇民将来

 むかし祖神が諸国を巡って日暮れに宿を請うたところ巨旦将来は富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来は貧しかったけれども粟殻で座をしいて粟の粥で手厚くもてなしましたので、「われはハヤスサノヲの神なり」と言い、後年疫病が流行しても茅の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば、災厄から逃れしめると約束され、巨旦将来の子孫は皆絶えてしまいましたが蘇民将来の子孫は今に栄えています。

 例祭一月十九日 夏越祭七月三十一日  」 

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  武塔神と蘇民将来

 以下は「備後国風土記逸文」から

 「備後(きびのみちのしり)の国の風土記に曰く、疫隈の国社(えのくまのくにつやしろ、広島県新市町の疫隈神社のことらしい)。昔、北の海に坐しし武塔(むたふ)の神、南の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚(いた)く貧窮しく、弟(おと)の将来は富饒(と)みて、屋倉(いえくら)一百(もも)ありき。爰(ここ)に、武塔の神宿処(やどり)を借りたまふに、惜しみて借さず。兄の蘇民将来、借し奉りき。即ち、粟殻(あわがら)を以て座(みまし)と為し、粟飯等を以て饗(みあ)へ奉りき。爰(ここ)に畢(を)へて出でませる後に、年を経て、八柱の御子を率いて還り来て宣(の)りたまひしく、『我、将来に報答(むくい)為(せ)む。汝(いまし)が子孫(うみのこ)其の家にありや』と問いたまひき。蘇民将来、答へて申ししく、『己が女子(むすめ)と斯の婦(め)と侍ふ』と申しき。即ち詔りたまひしく、『茅の輪を以ちて、腰の上につけしめよ』とのりたまひき。詔(みことのり)随(まにま)に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民の女子一人を置きて、皆悉(ことごと)にころしほろぼしてき。即ち、詔りたまひしく、『吾は速須佐雄(はやすさのお)の神なり。後の世に疫気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ』と詔りたまひき。」  

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 敦賀・気比神宮の茅の輪

 茅の輪くぐりにもやり方があって、「祓へ給へ 清め給へ 守り給へ 幸へ給へ」と唱えながら、8の字を描く形に三回茅の輪をくぐり、くぐり終えたら御神前(拝殿)へと進むのが正しい作法。

 沖縄では、藁しべや薄(ばく)の葉を束ねて輪っかを作り、これをサンと呼び、モノすなわち魔物・悪霊を防ぐ力があるとされている。

 茅の輪と同じ発想である。

 

 風土記逸文の記述から、容易に連想されるのは、ユダヤ教における「過ぎ越しの祭り」の由来である。 

 「モーゼはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った『あなた方は急いで家族ごとに一つの子羊を取り、その過ぎ越しの獣をほふらなければならない。また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入り口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。主が行き巡ってエジプト人を撃たれるとき、かもいと入り口の二つの柱にある血を見て、主はその入り口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなた方は言いなさい、『これは主の過越(すぎこし)の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』。民はこのとき伏して礼拝した。」

 「夜中になって主はエジプトの国の、すべての初子(ういご)すなわち位に座するバロの初子から、地下のひとやにおる捕虜の初子にいたるまで、また、すべての家畜の初子を撃たれた。それでバロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起き上がり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。」(出エジプト記、十二章)

 「牛頭天皇と蘇民将来伝説ー消された異人たち」(川村湊/作品社)のなかで川村湊は『蘇民将来、牛頭天皇信仰を古代ユダヤ教やキリスト教に関連ずける言説も見られるが、荒唐無稽なトンデモ学説の域をでない。』としているが、二つの伝承の、発想における類似性にはただならぬものがあるように私には感じられる。

 私見は学説などといった大層なものではなく、たんなる直観だが、ユダヤの伝承が、スキタイ系やトルコ系の民族によって中央アジアを変化しつつ東遷し、高句麗などを経て渡来することは充分ありうるのではないだろうか(→2016年2月11日「高志の国の奴奈川姫」、2017年2月11日「伝番説」)

 川村湊は、武塔神の「むとう」は、朝鮮語の「ムーダン(巫堂)」に由来するとしているが、これはありそうなことのように思える。

 しかし、パリ公主(パリコンジュ)伝説から、蘇民将来伝説が生まれたという説については、どうも無理があるのではないか。

 蘇民将来に続いて、牛頭天王、祇園信仰、八王子と論を進めたいところであるが、如何せん、寄る年波には逆らえず、息切れをかんじるようになった。

 続きは一休みしてからということに致したい。

 私が蘇民将来のことを知ったのは、三、四十年前のことで、梅原猛の本に当麻寺の蘇民祭のことが書かれていたからだ。

 梅原氏は蘇民将来を、怨霊論の立場から、蘇我氏の滅亡に関連付けていたが、これは我田引水の妄説というほかない。

 ↓JR平泉駅にあった蘇民祭のポスター

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 4年ほど前のことだが、上田を訪れた際、博物館で信濃国分寺が配った「蘇民将来符」のコレクションをみて、蘇民将来が、この地方の民俗文化として定着していることを知った。

 信濃国分寺の蘇民将来符は、ドロヤナギ、ドロノキと呼ばれる樹木を六角塔形に作ったもので形状や模様の一つ一つに意味があり、六つの側面には「大福・長者・蘇民・将来・子孫・人也」の文字が記されている」

 「蘇民将来符は、蘇民講とよばれる江戸時代から信濃国分寺門前に家を構える古い家系の人々によって製作され、寺へ奉納する護符のほかに、蘇民講の人々はその家独特の七福神を描いた「絵蘇民」を一定数制作する。」

(ブログ『信州の伝承文化』八十二文化財団)

 続く。

2021年1月 9日 (土)

鶴ヶ城・飯盛山・白虎隊記念館

 会津駅前

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 鶴ヶ城

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 飯盛山

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 慶応三年(1967)十二月九日、会津藩は、御所の警備を解任され、薩摩兵一小隊、芸州兵一小隊がとって代わった。

 同日「慶喜、容保欠席の中で朝議が開かれ、慶喜の辞官納地と容保の京都守護職、容保の実弟松平定敬(さだあき)の京都所司代の解任を決めた。」

 「会津藩は京都守護職として全身全霊を尽くして京都の治安維持と御所の警備に当たってきた。その努力が報われ孝明天皇から深く信頼され、天下に会津の名前を高めることができた。それが一転して罷免、誅伐の対象となった。とうてい納得できるものではなかった。」

 『 我公多年の精忠、空しく水泡となりて、残念というも愚かなる事ならずや。実に臥薪嘗胆の時にして、君辱めらるる時は臣死するの期に到れり。苟(いやしく)人心ある者、臣子の情ににおいて、あに片時も安ずべけんや。禁庭に対し奉り、弓をひくことは決して為すべからざずといえども、奸邪の徒、もし綸旨を矯(た)め兵を加うるあらば、関東の力を戮(あわ)せ、義兵をあげて君側の奸悪を除かざるを得ず。』

 「会津藩の人々は激しい怒りを覚えた。未来永劫、どこまでも薩長を追い詰めて恨みを晴らすという激しい思いであった。すでに在京の婦女子には帰国の命令が出され、多くの婦女子が着の身着のまま会津に向かっていた。誰がこのような事態を想像しえたであろうか。見るも無残な光景だった。会津藩の徹底抗戦は、このときに決まったといってよかった。それは今日に至ってまだ尾を引く怨念であった。」(星亮一『会津戦争全史』)

  明治元年(1968)正月一七日、新政府総裁・有栖川宮熾仁親王は、徳川慶喜追討命令を発するとともに、仙台藩主伊達慶邦(よしくに)と米沢藩主上杉斉憲(なりのり)に対し、「徳川慶喜の叛謀にくみし錦旗に発砲し大逆無道」な会津藩主松平容保を征伐せよとの命令を発した。

 幕府は完全に恭順に傾いており、慶喜は静寛院宮(和宮)を通じて謝罪嘆願を行い、会津も徳川宗家の意向に従って、上野の輪王寺宮に依頼し謝罪嘆願書を提出した。

 会津はまた、家老田中土佐、神保内蔵助ら重臣名で尾張、土佐、肥後、高松など二十二藩の藩公にも嘆願書を出したが、なんの反応もなく、伝えられてくるのは、大総督府は会津藩に対し藩主松平容保の斬首、城・領地の没収を求めているなどの悪い噂ばかりだった。

 会津を守るには徹底抗戦しかないと思いを定めた会津藩主従は、二月十六日、江戸・和田倉邸を出て会津へと帰り、軍備を増強するとともに、兵制改革を断行した。

 改革の重点は装備を洋式に改める、年齢別に編成する、農民から兵を募集するの三点であった。

 年齢別の編成とは、一八歳から三十五歳の最強部隊を朱雀隊、三十六歳から四十九歳を青龍隊、五〇歳以上を玄武隊、一六、一七歳白虎隊とし、各隊をさらに上士、中士、下士の身分に応じて士中・寄り合い・足軽に三区分し、これを更に~番隊と呼ぶ一〇〇人規模の中隊(白虎隊では五〇人)に分けたものだった。

 青竜寄り合い二番隊とか朱雀足軽三番隊といった具合。

 計三一中隊、約二八〇〇を主力とし、これに砲兵隊、築城兵、遊撃隊など総計三〇〇〇の正規兵を組織、これに募集した農民に帯刀させた農兵隊が三〇〇〇人規模、そのほか力士隊、猟師隊、修験隊などが組織され領内あげて戦う体制を造ることを目指したが、なにぶん急ごしらえのことであり、武器調達も充分なものではなかった。。

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 「フォン・エッツドルフ氏寄贈の碑」

 ドイツ大使館書記官エッツドルフが白虎隊精神に感動して贈った碑。「若き少年武士へ、一ドイツ人」とドイツ語で刻まれている。昭和10年(1935)に建てられた。

 「ローマ市寄贈の碑」

 昭和3年(1928)、白虎隊精神に感銘を受けたローマ市より贈られた記念碑。イタリア語で「文明の母たるローマは白虎隊勇士の遺烈に不朽の敬意を捧げんため、古代ローマの権威を表わすファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」

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 白虎士中隊は藩校日新館の生徒で編成されていた。

 白虎隊は当初一五歳以上、一七歳までで編成され、のちにアメリカで物理学を学び東京帝大の総長となった山川健次郎・当時十五歳も入隊したが、銃を担いで戦場に出るのは無理だとして除隊させられ、白虎隊は十六、十七歳で編成されることとなった。

 しかし戦争が始まり兵力が不足すると、十五歳も再び白虎隊に編入され、健次郎も隊員として籠城戦を戦った。

「八月二十二日、雨の中を戸ノ口原に出陣した白虎二番士中隊は敢死隊、奇勝隊とともに戦ったが、雨具も充分ではなく、食糧もなく、出撃は無謀であった。隊長日向外記が食糧求めに出掛けたこともあって、隊員はいくつかのグループに分かれ、退却を余儀なくされた。」

「篠田儀三朗率いる士中白虎隊二〇人は二三日黎明、滝沢峠の麓に出て、道を左に転じ、戸ノ口堰洞の間道をくぐり、飯盛山の中腹に出た。一命を取り留めた飯沼貞吉の証言だと、途中で三人が傷ついて倒れ、十六人になっていた。山上からはるかに鶴ヶ城を仰ぐと。すでに黒煙に包まれ、市街は火焔に覆われていた。銃砲の響き、吶喊の声、眼下に広がる光景は目を覆うものだった。

 空腹と疲労と恐怖で平常心を失っていた。「死のう」ということになり、『梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士(もののふ)のみち』と貞吉は母から贈られた歌を詠みあげ、脇差しで喉をついた。

篠田は『人生古(いにしえ)より誰か死無からむ 丹心(たんしん)を留取(りゅうしゅ)して汗青(かんせい)を照さむ』と漢詩を吟声し、刀を逆手に取り、喉を貫いて倒れたとされている。」

飯盛山には一九人の墓碑があるが、このうち三人は近くで戦死した少年とみられ、姓名は分っていない。

 (星亮一「会津戦争全史」(講談社選書メチエ)から)

 「  飯沼貞吉(白虎隊士) 

 安政元年~昭和6年(1854~1931)

 飯盛山で自刃した白虎隊士の中で唯一一名を取りとめ白虎隊の悲劇を後世に伝えた人物です。

 貞吉は藩校日新館の秀才で15歳の時に白虎士中二番隊に入隊しました。

 慶応4年(1868)新政府軍は会津への攻撃を開始します。その攻撃はすさまじく、同年8月22日白虎士中二番隊は藩主・松平容保を護衛して滝沢本陣へと向かいました。

 最前線での攻防は激しく、遂に白虎隊士37名にも出陣命令が下されたのです。37名の少年達は隊長・日向内記の指揮のもと戸ノ口原の戦場へと向かいますが、降りしきる雨の中、食糧調達に向かった隊長とはぐれてしまいます。翌8月23日大野ケ原で戦ったものの敗れ、やむなく20名の隊士が洞門を抜けて飯盛山へと退却したのです。

 疲労困憊の中、少年たちが飯盛山の山腹から見たものは砲煙に包まれた鶴ケ城の姿でした。少年達はもはや為すことは終わったと次々に自刃に及んだのです。

 貞吉も喉に刀を突き刺しました。しかし貞吉は絶命には至らなかったのです。奇跡的にも息のあった貞吉は喜多方へと運ばれました。途中の適切な治療もあって貞吉は命を取りとめたのです。

 自刃した白虎隊士19士の悲劇は生き証人飯沼貞吉によって後世に伝えられることとなったのです。

 戊辰戦争後、貞吉は会津を離れ名を貞雄と改名し逓信省に電信技師として勤めました。日露戦争などでも活躍し仙台逓信管理局工務部長で退職しています。貞雄は仙台で77年の生涯を終えるまで二度と会津には戻らず、白虎隊の話を遠ざけていたといいます。

 昭和32年(1957)戊辰戦争九十周年を記念して飯盛山の白虎隊十九士の墓と並び飯沼貞吉の墓が建立され、平成元年(1989)及び平成11年(1999)には、それぞれ札幌市、喜多方市にに記念碑が建てられています。」

 ↓飯沼貞吉の墓

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 白虎一番士中隊一七名は、鶴ヶ城から東北東二キロの愛宕山に逃れ、やはり濛々と立ち昇る黒煙が城を包んでいるのを目撃した。

 絶望に駆られた少年達から「死のう」「死のう」の声があがり、皆が差し違えの相手を探して肩を寄せ合ったとき、一人の武士が現れ『馬鹿者』と叱咤しながら、隊員の腕や肩を叩き、頬を殴りつけて止めて廻った。

 少年達の昂奮ががやや収まったのをみはからい「武士が自分の一存で死ねるのは主君が死んで初めて許されることであり、どんなにつらいことがあっても入城を果たし、御主君の安危を確かめた上で潔く死んでこそ会津武士だ」と諄々と説いた。

 一番隊士らは、その後、愛宕山の奥にある羽黒山の麓から東山温泉に下って、大平口方面隊、勢至堂方面隊と合流し、二五日、入城に成功した。

 隊士らを諫止したのは、家老田中土佐の切腹を介錯した田中家の家人長・田中権介で、主人の首級を抱いて城へ向かう途中のことだったと云われている。

 同じ日、家老神保内蔵助も切腹している。      

 白虎隊記念館

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 京都守護職・奥羽越列藩同盟・会津戦争

「  会津戦争の教訓

 この戦争は会津側に約2千数百名の死者を出し、婦女子の殉難者も百十数名に上り、戦争は真に避くべきことを後世に教えた。

  しかし、裏面には会津藩にも尊ぶべき左記の悲壮な非戦論があった。

 まず家老西郷頼母と田中土佐は、京都守護職になるとき反対したが、後籠城線の初日、西郷一族二十一人は入城せず自刃し、田中家老も外郭門が破れた時、責任を負い自刃した。

 つぎに神保修理(30)は鳥羽伏見の戦いの時、大阪城中で徳川将軍に非戦論を説いたために、江戸で藩命により切腹し、その遺妻雪子(24)は後、娘子軍に参加し城外の柳橋で悲しい最後を遂げた。

 また開戦の直前、人参奉行の河原善左衛門(43)は同志・籾山章介と共に城中会議の時自ら死を賭して停戦使となることを提案したが用いられず、籠城線の初日滝沢口で戦死した。

 この戊辰の会津藩と第二次世界大戦の日本とは、共に同盟を当てにして失敗した歴史でもある(奥羽越三十一藩同盟)。

 しかしまた一面『艱難汝を玉にす』のたとえのように、敗残の会津からは、後年多数の人材が輩出して世に活躍したことは興味ある事実である。」

 以下は「白河・会津のみち、赤坂散歩 街道をゆく33」(司馬遼太郎/朝日文芸文庫)から。

「春嶽が政事総裁になった。かれは公武合体主義者だった。ただ政治家としては、左内を失って以来、はなはだ精彩を欠いた。

 そういう春嶽が、容保を見こんだ。容保の聡明さとその側近団の上質さと、それに会津藩の武力がほしかったのである。

 『とてもその任ではありません』とひたすら固辞する容保に対し、春嶽はにじつに執拗で、手紙を送ったり、重臣をよびよせて容保に承けさせよ、と説いたり、ついには駕籠でやってきて、病中の容保をたたきおこして説いた。

 が、政治とは、はかない。いざ容保が上洛し、事態がいよいよ紛糾し、倒幕気分のたかまりのもとに春嶽の公武合体論が古ぼけたものになってゆくと、春嶽は容保を火中から救ってやろうとはせず、政局の火炎のなかからすこしずつ身をひいた。

 公武合体主義者の薩摩の島津久光や土佐の山内容堂も似たようなもので、一時期、親友の春嶽とともに「京都政界」に鼻をつっこんでいたが、火の手のはげしさに結局は京を去り、この業火のなかでふみとどまったのは、将軍後見役の一橋慶喜と松平容保だけだった。」

 「元治元年(1864)の禁門の変では、薩摩が申入れてきて、会薩同盟をむすび、長州を京から追い落とした。その薩摩が、四年後には長州と組み、土佐も引き入れて、幼帝を擁し、戊辰戦争をおこしたのである。春嶽にいたっては国もとに帰り、容保に対して知らぬ顔であった。革命前夜の政治というのは、土筆公(はにつこう、保科正之のこと)以来の『道理』で押しとおすには奇怪すぎた。

 将軍になった慶喜もまた、盟友たりえなかった。鳥羽・伏見で敗けて江戸へ逃げもどってから、慶喜はひたすら恭順し、容保の登城を拒否しつづけた。容保は孤立した。ひとり『逆賊』の汚名を新政府軍によって着せられ、会津若松城で満天下の敵をひきうけることになるのである。」

 「容保が歴史の中にいたのは、わずか五年未満だった。歴史とは、京都にいた時期のことである。二十八歳から三十三歳までのあいだのことだった。

 この間、かれは過激派から敵とみなされつつ、ひとり孝明天皇のみから信頼された。孝明天皇は穏和な現状維持派ーつまり佐幕家ーで倒幕を望んだことは一度もなかった。」

 「孝明天皇は、このこと(偽の勅諚の横行)に悩み、武家ではただ一人 容保を、わらでもつかむように信じた。

 孝明天皇は、二度、容保に内密の宸翰(天皇の書簡)をくだしているのである。」

 「『極密々書状遣候』からはじまる宸翰は、時勢についての天皇自身の意見をのべ、容保の考え方、態度を大きく嘉している。」

 「この文意から察するに、天皇は側近の公卿にさえうかつに心をひらけないという緊迫した宮廷の様子がうかがえる。」

 「くりかえし、書状のなかで、天皇は、『少しも漏洩無之様・・・』といったことばをつかい、守秘を要求というより、懇願しているのである。

 容保はこの守秘については、生涯をかけてまもりぬいた。天皇崩御ののちは、いわば自ら解禁してもよかったろうが、それでも黙していた。また時勢が大旋回して朝敵の名を蒙ったときもこの宸翰をもちだして立場を明らかにしようとはしなかった。まことに<道理>の人というほかはない。

 おそるべきことは、藩士にさえ明かさなかったことである。明治二六年、死の病床にあっても身辺の者にさえ明かしていない。」

 「容保は、篤実な性格のせいか、逸話というものがなかった。

 ただ、肌身に、長さ一尺あまりの細い竹筒をつけていた。ひもをつけて頸から胸に垂らし、その上から衣服をつけているのである。入浴のときだけは、脱衣場の棚においた。

 家族のたれもがそれを不審におもったが、問うことをはばかるふんいきが、容保にあった。

 その死が明治二六年十二月であることはすでにのべた。十月に病み、十二月五日に死んだ。

 死後、竹筒のなかみを一族・旧臣が検(あら)ためてみると、なんと孝明天皇の宸翰二通だった。この二通が、明治後、沈黙の人になった容保の心のささえだったのである。

 それでもなお、会津人はつつましかった。この二通で、薩長という勝者によって書かれた維新史に大きな修正が入るはずだのに、公表せず、ようやく明治三十年代になって、『京都守護職始末』に掲載するのである。

 いま、東京銀行の金庫のなかにおさめられている。」

 戊午の密勅、安政の大獄、桜田門外の変によって水戸藩の朝廷への影響力は雲散霧消し、その後釜を狙ったのは長州であった。

 文久元年(1861)、長州藩は長井雅楽の航海延略策を採用し、長井に公武(朝廷と幕府)の周旋に当たらせ、和宮降嫁などがあり、公武の融和が成るかに見えたが、文久二年正月、水戸浪士が坂下門外で老中・安藤信正を襲撃し、幕府の面目は失墜し、再び破約攘夷論が優勢になった。

 兄斉彬の遺思を継いで、中央の政局への野心を抱いていた島津久光(薩摩藩主島津茂久のちに忠義の父)は、これを機会に京都朝廷を動かし、その権威を借りての幕府政治への容喙を図り、四月、幕政を改革し公武問題を周旋するためと称して、藩兵千人余を率いて入京、朝廷は島津久光の建議をいれて、勅使の江戸派遣を決定、五月、大原重徳が久光を従え東下した。

 幕府は無論これに不満だったが、幕閣にはこれをはねかえす結束力を欠いていた。

 島津久光は公武合体派であり、斉彬以来の開国派であり、上京は幕政改革を目的としたものであったが、尊攘・倒幕に乗り出すと言う噂が広がり、尊攘の志士がーとくに長州と土佐の過激派ーが京に集結するようになった。

 久光の率兵上京と勅使東下は、天皇権威を振りかざせば外様大名でも幕政に介入できることを世に知らしめた意味において画期的なことだった。幕府の政局主導権は失われ、京都に集まる有志の動静が局面を引きずるようになった。これを『文久大勢一変』ということがあります。 

 七月、九条家の家士・島田左近の首が四条鴨川の川原にさらされ、以後京都で「天誅」が蔓延するようになった。

 暗殺の流行は、翌文久三年「八月十八日の政変」で、激派の公家と御所警備の長州藩兵が追放されるまで続いた。

 「町奉行所の役人は及び腰で犯人が捕まる様子はなく、しかも藩邸内は治外法権である。」「幕末の京都が無法化したのは、治安を担当する町奉行所が逆恨みを怖れ、捜査に本腰をいれなかったからだ。見て見ぬふりでやり過ごそうとするから、大抵の暗殺犯は捕らえられずに済んだ。小寺玉晃は町奉行所が「死骸の片付け役所」と呼ばれていたと記す(『東西紀聞』)」(一坂太郎『暗殺の・・・』

 長州では、久坂玄瑞、桂小五郎ら破約攘夷をとなえる尊攘激派(正義党)が藩論を引きずるようになり、6月、長州藩は公武を周旋中の長井雅楽に帰国謹慎を命じ、京都河原町の長州藩邸で御前会議が開かれ、藩是は「航海延略策」から「奉勅攘夷」に一転した。

 藩主毛利慶親(敬親)は薩摩に対抗するため、より過激な路線を選択したのであった。

 長州も薩摩に習って江戸への勅使派遣を画策したが、勅使大原重徳が江戸下向中なのでこれは叶わず、世子の毛利定広が勅書を携え幕府に伝達する形にし、八月、定弘は、安政以降の処罰者の特赦を命ずる勅書を幕府に伝達した。

 閏八月、朝廷は叡慮は攘夷だと伝えた。もっとも孝明天皇は国是は将来の『衆議』によるとしたが、長州藩は叡慮を絶対として振りかざし、急進的な尊攘運動を推し進めた。

 文久二年四月、土佐勤皇党は佐幕派重臣であった吉田東洋を暗殺し、藩論を尊攘に振り向けることに成功した。薩摩、長州に出遅れた土佐だったが、勅使を担ぎ出す朝廷工作には成功し、九月、朝廷は三条実美、姉小路公知を攘夷督促勅使として江戸へ送ることを決定。

 しかし薩長に遅れたと焦る土佐勤皇党の武市半平太は派手な暗殺によって土佐の存在を京都中にアピールしようとした。

 朝廷の政治介入が進み、孝明天皇は大名に直接勅諚を発し、上洛を促すようになった。島津久光、毛利慶親、土佐の山内豊範だけではなく、仙台・肥後・筑前・安芸・肥前・備前・津・阿波・久留米・因幡・岡藩主にも上洛が命じられた。

 「従来なら大名は将軍の命で動く。それが天皇からも命がでる。『政令二途』であり、多くの大名たちは困惑した。」(一坂太郎『暗殺の幕末維新史』)

 勅諚の乱発が続くが、これが果たして『叡慮』であったかどうかは分らない。

 話は前後するが、六月、幕府は勅使大原重徳の要望に応じ、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永(春嶽)を政事総裁職に任命、閏八月、京都守護職の創置と参勤交代の緩和を決定(「文久の改革」)。

  京都守護職は、大坂城代・京都所司代の上位に立ち、非常時には天領だけではなく、近畿地方の諸藩の軍事指揮権をも有するものだった。

 このような大任に最も相応しいのは、京都に近く、田安家出身の松平慶永が藩主となった福井藩であったが、春嶽は執拗な懇請によって、容保に守護職をを押しつけた。

 容保は将軍・家茂から信頼されること大で、幕政参与の職にあった。

 家老の西郷頼母、田中土佐らが急遽会津から駆けつけ『このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の極に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの、おそらく労多くして功少なし』と戒めたが、容保は『 聞き及べば余が再三固辞したのを一身のみの安全を計るものとする者があったとやら。そもそも我が家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩租公の遺訓がある。余不肖といえども一日も報公をわすれたことはない。ただ不才のために宗家に塁をおよぼすことを怖れたただけである。他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きを貪るとあっては決心するよりほかあるまい。しかし、重任を拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果はみられないだろう。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退を考えてほしい。』     

 江戸藩邸にあった君臣らは『この上は義の重きにつくばかり、君臣ともに京師の地を死に場所としよう』『これで会津は滅びる』と肩を抱き合って涙したという。 (『会津守護職始末』)

 会津藩は役料五万石加増で、金戒光明寺を本陣として、藩兵千人を京都に常駐させることになり、財政の窮乏をきたした。

 会津松平家九世の容保は、高須藩主・松平義建の六男から、十二歳で会津松平家八世容敬(かたたか)の養子となり、江戸藩邸で『藩祖土筆(はにつ)公の御遺訓』を厳しく教え込まれていた。

 八世容敬も高須松平から養子に入った人で、容保にとっては伯父にあたる。

 「容保には生来の誠実さとともに、つねに養子の身としての配慮があった。自分の決定が養子先である会津藩の利害に大きく響くことを常に意識する生真面目さをもっていた。この美点がこのときは裏目と出た。京都守護職への就任を最後まで突っぱねた結果が会津藩にどんな形でもどって来るか、という懸念を捨てきれなかった。藩老たちが全員反対したのであるから、幕閣の要請を蹴った結果については責任を免がれているとはいっても、家臣にその尻を以てゆくことに平気ではおれない人物であった。」

 「それのできない人柄が松平容保のアキレス腱であったともいえよう。またそのために臣下もよく心服した反面、悲劇も拡大したといってもよいかもしれない。しかし主従の連帯感だけはどの藩にもまして強く生まれた。」

 いま、後世という裁断の自由な、無責任な立場から思えば、どこまでも突っぱね通すべきだったといえるかもしれないが、いずれにしても幕府の頽勢が顕在化してくる段階になると、それを突っぱねたことにたいする批難が会津の重荷になったであろうし、また歴史の流れが会津藩のような文武ともに抜群の水準を保っていた藩を避けて明治維新を迎えることができたとは思われない。いうならば、このときの政策決定は<運命的>というしかなかったであろう。」(綱淵謙錠『戊辰落日』)

 当初は京都守護職の定員は決まっておらず、島津久光も容保とともに任命された。容保は反対したが、幕府はあえて久光を任命。久光もこれを内諾していたが、京都および朝廷が尊王攘夷派に牛耳られる事態に失望し、文久3年4月16日守護職辞退の願書を提出した。」(Wikiから)

 「慶喜が将軍後見職に、春嶽が政事総裁職に就任した。いずれも幕府始まって以来、はじめての役職名である。二人は<公武一和> という政治スローガンの実現には、まず何よりも無政府状態にある京都の治安を復活し、長州系の過激分子を武力で鎮圧することが喫緊事であるということで、京都守護職という新職名をもう一作って、それに会津松平家を引っ張り込んで、政治責任を三分しようと考えた。しかもかれらは万一新しい政策が失敗に終わったとき、警察取り締まりという仕事が被治者の最も直接的な怨みを買うことは古今東西の歴史が証明していることを知悉しているがゆえに、その一番嫌な仕事を会津容保に背負わせようともくろんだのかもしれない。そこまで意識はしていなかったとしても、自分の手をそれで汚すことだけはしたくない、とは考えていたはずである。そしてそれは二人の考えた通りの結果をもたらしたというべきであろう。」

 「現在では(容保が帰国した時期のこと)慶喜は『会津の手は血で汚れすぎている』といわんばかりに容保を遠ざけて、自分一人延命に必死になっている。そして春嶽は<公武一和>の実現が絵に描いた餅に過ぎないことを知ると同時に政事総裁職を投げ出して藩国越前に帰り、現在では薩長政府の議定職に就いている。」(綱淵)

 徳川慶喜は鳥羽伏見ののちの大阪城脱出について、『昔夢会津記』の中で、ぬけぬけと『神保の建言を聞きたれば、むしろその説を利用して江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心せしかど、そは心に秘めて人には語らず』などと語っている。

 神保修理(長輝)は、家老神保内蔵助の嫡男で、全藩の嘱望を担う人物で、容保の守護職就任に従い上洛、慶応二年(1866)からは長崎で内外事情の調査にあたっており、伊藤博文、大隈重信、勝海舟などと交わり大いに得るところがあったという。

 松平容保は外国事情の研究にも熱心で山川大蔵(おおくら)、横山主税、海老名郡治らをヨーロッパに遊学させています。

 慶応三年(1867)十二月九日、王政復古の大号令、同夜、小御所会議で徳川慶喜に対する辞官納地がきまった。この時、御所の警備に当たっていたのは薩摩、尾張、越前、土佐、安芸の藩兵だった。長州の先鋒隊七百名は、摂津浜に着いたばかりだった。

 二条城では、京都守護職の容保、若年寄大河内正質(まさただ)、幕府陸軍奉行竹中重固(しげかた)、が開戦を主張したが、慶喜は『余に深謀がある』といって大阪にのがれた。

 王政復古大号令が発布されると、修理は長崎から大急ぎで大阪に至り、軍事奉行添え役として容保の君側に付き添った。

 大阪城では開戦論が沸騰していたが、慶喜に意見を求められた修理は、大政奉還し辞官納地を認めてしまった上は、東帰しておもむろに前後の策を講じた方が良いと説いた。

 明治元年正月三日、鳥羽伏見の戦いで、修理は前線を視察し、大阪城の容保に報告した。

 正月六日夜、慶喜は修理を呼んで意見を徴したのち、大広間で慶喜出馬を求める諸有司・諸隊長に『さらばこれより打ち立つべし、皆々その用意をすべし』と言い放ったのち、伊賀・肥後・越中(松平定敬)・容保ら四、五人を随え、大阪城後門を抜けて、天保山に到り、小舟、アメリカ商船を乗り継いで開陽丸に着いたのが「六日亥の刻ばかり」というのだから、鮮やかといおうか何といおうか、ともかく開いた口がふさがらない。

 開陽丸はオランダから輸入した最新鋭艦で、これ一隻で大阪湾の制海権を確保できたはずであった。

 しかも、艦長榎本武揚は外出中であるのに、慶喜は『江戸へ帰る』の一点張りで、とうとう榎本を置き去りにしたまま、出航してしまった。

 修理が慶喜一行がすでに大阪に居ないことを滝川播磨守から知らされたのは七日早朝、大阪の幕府軍に出陣命令を下しながら自分たちだけ東帰すとは、全く馬鹿げた話で、ここは一度大阪城へ帰ってもらった上で善後策を講じなければ、幕府軍が総崩れになると考えた修理は、容保の厩から鞍馬一頭を借り、天保山に直行、小舟で開陽丸を追おうとしたが波浪で沖に出ることが出来ず、陸路で追うことにした。

 津、四日市、桑名と東海道を下って、桑名から早駕籠を飛ばして江戸和田倉藩邸に着いたのは、正月十五日、慶喜の一行に遅れること三日であった。

 やがて大阪から疲労困憊した藩兵が引き揚げてきた。会津藩士の慶喜に対する憤りは甚だしく、また慶喜に東帰恭順をすすめたのは神保修理であるとの噂が流れ、全藩士が修理の行動に疑惑の視線を放ち、批難罵倒した。

 容保は修理を会津の国許へ返そうとしたが、奸賊として誅戮されるおそれもあり、藩邸に幽閉した。

 修理と親しかった勝海舟が慶喜に諮り公命で修理を救おうとしたが、それが返って藩士の怒りに油を注いだ。

 容保はついに修理を三田の別邸・会津藩下屋敷に檻送し警戒を緩めて行動を自由ならしめ、修理は容保の意を察し、感泣して切腹を決意した。君命ではないので介錯人はつかなかった。

 修理の妻雪子は、八月の会津戦争において薙刀を手に娘子隊に参加、彷徨中に大垣藩兵の捕虜となって、放免を主張した土佐藩士・吉松速之介の短刀を借りて自決を遂げた。

  西郷頼母は終始、会津守護職に否定的な姿勢を崩さず、禁門の変の直前に上洛して藩士たちに帰国を説いたが、流石に賛同する者はなく、家老職を解任蟄居させられた。

 戊辰戦争勃発で頼母は家老復職を許され、白河口総督として薩摩軍と戦い二ヶ月以上白河口を死守したが 、棚倉城陥落の責任を負って解任された。

 八月二一日、石筵口・母成峠が破られ、敵は猪苗代を占領し、会津若松に迫っていた。

 この時西郷頼母は「こんなことになった責任は主君容保公以下重臣全員にある。即刻切腹すべし」と叫んだ。

 西郷頼母と養子の西郷四郎

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 八月二三日、西郷頼母の家族、西郷鉄之助近虎とその家族、親戚の小森、町田家の家族、いずれも女子供と老人、二一名が自決。頼母は蟄居の身であり、城に入っても自分たちの居場所はない、家族がそう考え、追い詰められて自害したのではないか、との説がある。

 「これらの人々は、現在会津若松氏の西郷家菩提寺である善龍寺内に<二十一人之墓>として葬られ、殉節の遺芳を伝えている。」

 八月二五日、城内の指揮系統および守城部署の再編成がなされ、山川大蔵、梶原平馬、佐川官兵衛らの若手が軍務局を占めた。

 八月二六日、北越方面から引き揚げてくる会津軍は入城せず、城外にあって敵軍を防ぐべしとの命令が発せられ、頼母がその伝令使として派遣されることになった。

 本丸黒金門にて、容保と喜徳(徳川斉昭の十五男、慶喜の弟、二月、容保は隠居し、養子の喜徳が会津藩第九代藩主となっていた)に別れを告げ、家族で唯一人生き残った長男吉十郎(十一歳)を伴い、頼母は悄然として城を去った。

 大沼城之介と芹沢生太郎の二人は、頼母暗殺の密命を帯びて跡をを追ったが、暗夜、雨の中に道を失ったとして帰城した。

 頼母は翌二七日高久に至って使命を果たしてのち、米沢を経て仙台に向かい、榎本武揚の艦隊に身を投じ、函館に渡り、五稜郭落城の時には弁天台場にいた。

 明治三年、西郷頼母は改姓し、保科頼母を名乗った。

 西郷家は藩祖・保科正之の分家で、代々の家老職を世襲していた。西郷頼母は純然たる守旧派で直情径行、容保や若手の家老などと親和することがなかった。

 また、自藩第一主義を蝉脱することが出来なかった視野の狭い人物であったように見えるが、しかし、やはり時代に翻弄された過酷な人生だったというよりほかない。

 会津の苦難が、京都守護職から始まったことに間違いは無いし、春嶽の働きかけも随分と身勝手な印象を受ける。

 しかし、会津は保科公以来の勤皇藩であり、徳川宗家への忠節の念も篤く、京都守護職に最適任と目されたことには充分な理由があったともいえる。

 幕末の諸大名の事情に詳しいわけではないが、会津いがいの他の大名にして、京都の無政府状態を終息させることができたかどうか。

 尊攘激派の策謀ー天誅組や、但馬生野の変、池田屋事件、蛤御門(禁門)の変の、どれか一つでも成功して「玉」がテロリストの手に落ちたら、日本は一体どういうことになっていたのか、実に心胆を寒からしめるものがあります。

 幕末の権力闘争とは、結局のところ「天皇権威の争奪戦」であった。

 しかし、孝明天皇は幕府に対して不満を持ちながらも、政治を幕府に委任するという姿勢を崩さず、しかも長州を忌み嫌っていた。

 慶応二年七月、将軍家茂急死、喪は一ヶ月伏せられ、一橋慶喜は最前線に出て、長州征討軍を立て直そうとしたが、小倉落城でこれを断念、将軍死去を理由に、解兵の勅を得る方針に切り替えた。

 孝明天皇や松平容保は、解兵に反対であった。

 今や、孝明天皇は、倒幕派にとっては邪魔な存在でしかなかった。

 孝明天皇は、慶応二年十二月二五日、にわかに崩御された。

 孝明天皇の天然痘は、近侍御用を勤める藤田某から感染したものとされているが、当時でも天然痘が感染性のものであることは一般的な認識であった。疱瘡の治療に名を借りて毒殺されたという説もある。

 幼少の睦仁親王が践祚し、長州派の公卿らが続々と復権した。

  明治になると、「桜田門外」「坂下門外」「天誅組」「生野の変」「蛤御門」などは「維新の先駆け」として評価され「義挙」と呼ばれるようになり、水戸浪士や吉田松陰、久坂玄瑞、武市半平太、吉村寅次郎、真木和泉、宮部鼎蔵、吉田稔麿、平野国臣などのテロリストが「義士」と呼ばれ褒め称えられ、霊山護国神社や靖国神社に祀られるようになった。

 天誅組は、久留米の神職・真木和泉がデッチ挙げた「大和行幸・攘夷断行・天皇親政」の詔勅をもとに、十津川郷士ら千人を集めて挙兵した。

 挙兵の頭目に祭り上げられた攘夷派公卿・中山忠光は、天誅組潰滅の後、長州に逃れ支藩の長府藩に匿われたが、「禁門の変」に敗れ、長州が「朝敵」となり、恭順ムードが支配的になると厄介者扱いされて、元治元年(1864)八月に縊り殺された。

 忠光の姉・中山慶(よし)子は、明治天皇の生母であり、長府毛利家が男爵止まりだったのは、忠光を暗殺したためらしい。

 忠光は明治二十一年(1888)靖国合祀、同三十一年、正四位が追贈。

 「生野の変」の旗頭にされた公卿・澤宣嘉は出石藩兵・姫路藩兵が出動すると、直ちに本陣を脱出、四国に潜伏し、戊辰戦争では九州鎮撫総督に任ぜられ、子孫は伯爵家になった。

 「天誅組」などは、北朝天皇が南朝の本拠地で「天皇親政」を宣言するなど全くあり得べからざることで、馬鹿馬鹿しいというよりほかない。

 明治時代後半から大正に掛けて「南北朝正閏論争」というのがあった。

 総理大臣の桂太郎は『学者の説は自在に任せ置く考えなり』であったが、立憲国民党が内閣を糾弾する材料にして、大騒ぎになってしまった。

 これなどは新政府の「ポリティカル・コレクトネス」の歴史認識がブーメランになったようなものです。

 「統帥権干犯問題」や「天皇機関説事件」にも同様の構造を見て取ることができる。

  テロリストたちの生き残りが明治政府の高位高官となった例は多く、その最たるものは、伊藤博文でしょう(政治家としての伊藤博文は立派だったと、私は思っているが)。

 「鉤(腰帯の飾り、バックル)を盗む者は誅せられ、国を盗む者は諸侯となる」(『荘子』)

 万国共通、革命とはそのようなものだと言うよりほかない。

 「日本の近代化のスタート地点とされ、奇跡のような革命と賞賛することが多い『明治維新』など、一歩踏み込めば暗殺及び暗殺未遂事件のオンパレードだ。ペリー来航から王政復古までわずか十数年の間に、その数は百件を超す。テロや暗殺が悪ならば、日本の近代化はとても賞賛できるような歴史ではないだろう。」(一色太郎)

 歴史は教訓に満ちている。日本の歴史は、先人の辛苦と犠牲によって築き上げられた、民族の「大いなる遺産」というべきです。

 そして、人は成功よりは、失敗によって多くを学ぶことが出来るものである。

 歴史の「明」に幻惑され、歴史の「暗」ー錯誤、愚行、犠牲・・・ーに眼を瞑る者は必ずシッペ返しを喰らうことになっている。

 昭和六年、陸軍によるクーデター計画発覚「三月事件」「十月事件」、南次郎陸将が「国務全般はこれを政治といって差し支えない。軍人は天皇統率大権の下に団結してその目的を遂行するに必要なる一切の軍務に従事すべきである。従って軍人は軍政という政治を担当するものであるから元来政治に関与すべき本文を有するのである」と発言。

 昭和七年(1932)「満州事変」『血盟団事件」「五・一五事件」、昭和八年「神兵隊事件」、昭和九年「士官学校事件」、昭和十年「相沢三郎中佐、陸軍軍務局長・永田鉄山少将を惨殺」、昭和十一年「二・二六事件」「陸海軍大臣現役制」・・・

 軍部の専横がまかり通って、政治家が沈黙してゆくプロセスは、「文久大勢一変」にそっくりです。

 陸軍士官学校でクーデターを計画し、二・二六事件で逮捕された磯辺浅一は『獄中日記』の中で「余は祈りが日々に激しくなりつつある。余の祈りは成仏しない祈りだ。悪魔になれるように祈っているのだ。優秀無敵なる悪鬼になるべく祈っているのだ、必ず志をつらぬいてみせる。」「余の所信は一分も一厘もまげないぞ、完全に無敵に徹底するのだ。余の所信とは『日本改造法案大綱』を一点一画も修正することなく、完全にこれを実現することだ」「悪臣どもの上奏したことをそのまま受け入れあそばして、忠義の赤子を銃殺なされましたところの陛下は不明であられるということを、まぬがれません。かくのごとき不明をおかされあそばすと、神々のお怒りにふれますぞ。いかに陛下でも、神の道をおふみちがえあそばすと、ご皇運の涯てることもござります」

 『獄中日記』は三島由紀夫の『英霊の声』に影響を与えたことで、よく知られているが、ここに著された心情は、まさに長州尊攘激派のそれと変わりがないのではなかろうか。 

 さて本稿では奥羽越列藩同盟についても私見を披瀝する積もりでいたが、正直言って、シンドくなってきた。

 簡単に述べる。私は列藩同盟は、薩長新政府や公儀政体論に対して、一種の連邦国家のビジョンを提示したもので、それなりに歴史的な意義があったと考えている。

 ただ惜しむらくは、同盟諸国の足並みが揃わず、戦略が余りにもナイーブで、同盟を纏め上げるだけの器量を持つ人物がいなかった。

 奥州鎮撫総督の九条道孝を、簡単に秋田藩に渡してしまったことなど、あまりにも芸がなさ過ぎる。

 一言で言えば奥羽越諸国は、遅れていた。

 水戸藩や西南雄藩が十数年かけて取り組んできた、藩政改革、財政改革、軍制改革、藩論統一、中央政局での外交交渉、これらを戊辰戦争の数ヶ月間で、一気にやり遂げる必要に迫られ、そして当然のごとくに挫折した。

 会津は東北諸藩の中では、先進的な方だったが、それでもこの「遅れ」から逃れることはできなかった。

 会津は「禁門の変」の後、直ちに兵制改革を断行すべきだったのではないか。

 会津は新政府の理不尽に対して勇敢に戦い、それは今も会津人の矜恃を支えるものではあるが、然し、やはり会津の戦い方は拙劣であったと言わざるをえない。

 新政府軍が会津盆地に侵攻するには三つのルートがあった。猪苗代湖の南側「白河・勢至堂」口、東側「二本松・中山峠」口、北東側「石筵・母成峠」口。会津は兵力を分散させることを余儀なくされた。

 慶応四年八月二十一日朝、板垣退助、伊地知正治率いる新政府軍(薩摩、土佐、長州、佐土原、大垣、大村藩兵)7000が、旧幕府軍(大鳥圭介率いる伝習隊、仙台藩兵、二本松藩兵、新撰組)800が守る母成(ぼなり)峠を攻撃、昼頃には守備軍は潰走した(兵員数については異説有り)。

 二十二日、猪苗代の亀ケ城が落城、新政府軍、夜には戸ノ口原に至る。半鐘が鳴らされ非戦闘員の入城が始まった。

 二十三日、新政府軍は朝から進撃を開始、午前十時頃、会津若松城下に突入した。

 「どこも索敵と連絡が不十分だった。会津藩の記録によると、軍事局に第一報(母成峠陥落)が入ったのは二十二日寅の下刻(午前五時頃)とされている。敵の攻撃開始は前日の早朝である。いったい何時間を無為に過ごしたのだろうか。20時間前後は経過している。」

 「いったいこれはどういうことなのだろうか。いくら主力部隊が国境に出ていたとはいえ、母成峠を越えた途端、一切の抵抗がなく、敵はスイスイと会津盆地に侵入したというのである。」

 「母成峠から戸ノ口原に至る一連の戦闘に際し、会津軍の軍務局はほとんど機能しなかった。この原因は、敵は攻めてこないという誤った情勢分析と油断であった。加えて国境を破られた際のマニュアルがなかった。」

 「国境を破られた場合、城下に敵を入れて殲滅する作戦もあろうが、その場合は、城下から非戦闘員を避難させ、家屋も一部破壊し、塹壕を築くなどなんらかの手立てが必要だった。しかしなにも策はなかった。なんとも理解しがたいことである。」(星)

 「会津藩の籠城は、たしかに武家婦女子の集団自決による殉難で鮮烈に彩られているが、そのような殉難者間瀬家や林家のように、藩の指示に従って入城した婦女子と、どちらが正しく立派であるか、などと比較することは、無意味とはいわないまでも、いささか的外れになる危険性がある。」

 「会津藩のみならず、当時の幕藩体制の倫理教育は『諸籠(もろごもり)』つまり一朝有事のさいには戦闘員としての藩士だけでなく、非戦闘員である家族の老幼婦女子まで籠城して、城主と運命をともにするというテーゼによって規制されていたのであるから、急いで自決するか、少し死を先に延ばして籠城するかは、どちらがその籠城体制にとって有効かという、それぞれの家での選択に任されていたのである。」

 「軍事奉行飯田平左衛門は新政府軍の国境接近の報を耳にするようになると、その職務上、城外諸倉の米を城中に搬入して、万一に備えることを建議した。ところがよくあることだが、目先の見えない一部の藩使どもはこれを不詳の言とし、平左衛門は藩境が破られ、鶴ヶ城が危機に瀕することを快とし、いたずらに士気を沮喪させようとしているといきまき、交々容保の面前で平左衛門を誹謗したので、ついに平左衛門は軍事奉行を罷免され、玄武足軽隊中隊頭に左遷された。」(綱淵)

 鶴ヶ城の近くには、上倉、下倉という、非常用の糧米が保管する倉庫があったのだが、敵の掩体になる可能性があり、また糧米が敵のものになることを怖れ、二十三日に焼却された。

 また、小田村と青木村に焔硝蔵(火薬庫)があったが、これを肥前兵と薩摩兵に押えられている。二つの倉は二十六日に爆破されており、これが官軍側によるものか、会津側によるものか見方は分かれているが、それにしても,あまりにも無策である。

 非戦闘員の避難計画もあったようには見えず、会津は籠城戦が現実のものとなることを想定できなかったのではないか。

 容保が帰国してから、半年以上経過しているのに、この為体(ていたらく)は一体何だということになる。

 五月三日、仙台にて25藩が参加し、奥羽越列藩同盟の盟約書が調印された。

 「会津戦争の教訓」に「同盟を当てにして失敗した歴史」とあったが、この同盟の成立で会津に気の緩みが生じたのかも知れない。 

 「会津藩が白河の戦闘で敗れたとき、会津藩の使者がが米沢に急行し、援軍を求めた。このとき応対した甘糟継成(あまかすつぐしげ)は『昨今、会津藩はたびたび敗走し、勇名を聞かない。戦いを知らない当藩に頼るとは心外である。尊藩は奥羽列藩同盟ができたことで、気持ちがゆるみ、必死の覚悟が失せたのではないか。そもそも奥羽の戦争は、皆、尊藩より起こったものだ。尊藩が初めの覚悟に戻り、他人に頼らず、会津一国をもって賊を打ち払う決心がなければ、誰が尊藩のために尽力する者があろうか』と、この要請を断った。」

 この後も会津は再三米沢に使者を送り、藩主上杉斉憲の決断で、藩兵六〇〇人を越後に送り、新潟港を警備したが、長岡も落城、米沢藩兵は新発田藩兵に追撃され、会津若松を経由して米沢へと帰還、薩摩と土佐に働きかけ、降伏の意思を表明した。

 板垣、伊地知が、会津若松への最短ルート(約四〇キロ)母成峠を選んだのは、米沢藩から背後を突かれる危険性が無いと判断したからである。

 甘糟の言葉は『第二次世界大戦の日本』よりは、遙かに現代日本の安保状況に対する警告となっているように思われる。

 本ブログで幕末・維新期に関わるものとしは

 2020/9/17「長岡城址・河井継之助記念館・山本五十六記念館」2020/6/19「松前崇広と条約勅許、兵庫開港」2020/4/16「旧英国領事館・旧函館区公会堂」2020/4/9「住吉神社・赤間神宮・亀山八幡宮・亀山砲台跡」2019/1/15「瑠璃光寺・サビエル記念堂」2018/9/30「碧血碑・土方歳三最期の血」2018/2/12「小塚原回向院・両国回向院・すみだ北斎美術館」2017/12/17「新発田城址・白壁広報資料館」2017/10/11「二本松城址・二本松神社」2017/8/20「飯盛山さざえ堂」2017/7/30[「彦根城」2017/7/3「英国公使オールコックの忠告ー横浜鎖港問題」2016/10/24「松前城」2013/6/20「会津人・柴五郎」

 なを次の本を参考にした。

 「白河・会津のみち 赤坂散歩ー街道をゆく33」(司馬遼太郎/朝日文芸文庫)「京都守護職始末 ー会津藩老臣の手記 1,2」(山川浩・山川健次郎/遠山茂樹 校注/平凡社東洋文庫)「会津戦争全史」(星亮一/講談社選書メチエ)「奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢」(星亮一/中公新書)「会津白虎隊ー物語と史跡をたずねて(星亮一/成美堂出版)「敗者の維新史 会津藩士荒川勝三の日記」(星亮一/中公新書)「暗殺の幕末維新史ー桜田門外の変から大久保利通暗殺まで」(一坂太郎/中公新書)「吉田松陰ー久坂玄瑞が祭り上げた『英雄』」(一坂太郎/朝日新書)「天皇は暗殺されたのか」(大久保芳/二見文庫)「疫病の日本史」(本郷和人・井沢元彦/宝島新書)「戊辰落日」(綱淵謙錠)「ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書」(中公新書)

2020年11月26日 (木)

穴あきダムと天道とデモクラシー

 「ことし7月の豪雨で氾濫した熊本県の球磨川流域の治水対策をめぐり、かって『川辺川ダム計画』を白紙撤回した蒲島知事は、これまでの姿勢を転換し、環境に配慮した新たなダムの建設を国に求める考えを表明しました。」

 「信念を持って政治家として一度決断したことを自分の手で変えなければいけないのは本当につらいことだが、県民にとって最適な判断を考えた」

 「住民の命を守り、さらには地域の宝である清流も守る、新たな流水型のダムを国に求める」

 「流水型のダムは、利水や発電などの目的で水量を維持するために水の流れを堰きとめる『多目的ダム』とは異なり、大雨の時以外は水をためずにそのまま流す構造で『穴あきダム』とも呼ばれ、貯蓄型のダムと比べ、環境の影響が少ないとされています。」

 (11月19日「NHKおうちで学ぼうfor School」から、なお2020年10月28日『球磨川洪水と川辺川ダム』)

 「流水型の河辺川ダムの建設を国に求めると表明した蒲島知事が20日上京し、赤羽国土交通大臣に直接、ダム建設を要望しました。『命と環境を守るという観点から新たな流水型のダムをお願いしたい』『国としても全面的に受け止めたい地元の皆さんの声が反映できるような緑の流域治水対策にしていきたい』

 また赤羽大臣は、蒲島知事が求めた環境への影響調査に関しても国が実施する考えを明らかにしました。

 『大変嬉しく思います。大臣と知事が会って、合意形成がなされたのではないかと思う』」(11月20日RKK熊本放送)

 蒲島知事の方針転換を、流域住民は概ね現実的として好意的に捉えているようだが、当然のことながら漁協や観光業者、環境保護運動家、市民団体、県議会の一部会派は猛反発しているので、県民の合意を取り付けるまでには、なお紆余曲折が予想され、知事も随分ご苦労されるのではないか。

 「防災大義、消える脱ダム、災害頻発で勢いづく公共事業」「環境変化「しょうがない」住民の「反対」のみ込んだ豪雨」「『治水に期待』『結論早い』再び分断か、割れる民意、豪雨から4ヶ月。」「分断の歴史繰り返すな ダム建設に反対した前相良村長 徳田正臣氏」(最近の西日本新聞の見出し)

 「豪雨で川辺川ダム建設計画再燃 前熊本県知事の思いは」(2020年11月11日、朝日新聞)

 2018年、日本初の本格的なダム撤去工事とされる、球磨川上流、荒瀬ダムの解体撤去が完了した。

 このダムは、1955年の完成当時は、熊本県内電気供給量の16%を賄っていたが2000年頃には1%にまで低下、堆砂のため放流時には悪臭をはなつ汚泥が流出するようになり、近隣住民や漁協の要請で、2007年、当時の潮谷義子知事が、全国で初めてのダム撤去を決定。

 しかし、2008年、熊本県知事に就任した蒲島氏は「財政難なので使えるダムを巨費で毀すことは出来ない」として前知事の方針を撤回した。

 2009年民主党政権が誕生し、2010年、前原誠司国交相が「ダム継続に必要な水利権は、地元漁協の同意が無ければ失効する」と表明し、国の財政支援を受けることも決まり、やむなく蒲島知事は荒瀬ダムの撤去を決断、2012年、日本初のダム解体工事がスタートし、5年余りをかけて完了した。

 ダム反対派は続いて、球磨川の再生には、荒瀬ダムの10キロ上流、電源開発の瀬戸石ダムの撤去が必要だと訴えたが、2014年、蒲島知事は瀬戸石ダムの水利権を更新、ダムの存続を容認し、また1992年に計画された、天草市の県営路木ダム(2014年竣工)工事を続行した。

 こういうこともあって、川辺川ダム計画を中止したにもかかわらず、環境保護派の,知事に対する信頼は篤いものとは言えず、「水源漣」のHPでは「蒲島氏は信念の人ではなく所詮はオポチュニストだ」と言い切っている(2015年1月29日『荒瀬ダムの撤去は蒲島熊本県知事ではなく潮谷義子知事のおかげ』)。

 ただここで常識的に考えれば、ダムというものは県民の資産である。

 ダム反対派にどれほどの先見の明があるのかは分らんが、流行の環境思想・自然保護思想に棹さして、しかも巨額の出費をして、県民の資産を廃棄するというのも実におかしな話なように思う。

 路木ダムには天草市の水道用水を確保する目的があったというから、やはり必要なものだったのではないか。

 荒瀬ダム撤去の後は、清流が戻った、生態系が回復した、ラフティングなど新たな観光資源が出来たなどと言われていて、それはそれで結構なことだが、自治体首長や議会の意思決定が、何等かのPC(ポリティカル・コレクトネス)を掲げる独善的な勢力によって壟断される危険性についても考えてみたほうがよい。

  22日のネット記事に「川辺川ダム反対派が集会 『分断と対立もたらす』」、ダムに反対する市民団体が「川辺ダムでは命も清流もまもれない」として、建設中止を求めるアピールを拍手で採択したとある。

 蒲島知事の方針転換で「分断と対立」がもたらされると言いたいようだが、「分断と対立」はなにも今に始まったことではない。

 「河辺川ダム建設中止」、「荒瀬ダム撤去」の後も、県内外の様々な団体によって、「瀬戸石ダム」「路木ダム」「立野ダム」「市房ダム」などへの「ダム撤去運動」が展開されており、また「ダムによらない治水」を巡って、国・県・住民へ容喙する動きが続いていたようである。

 「川辺川ダムを守る県民の会」「水源連(水源開発問題全国連絡会)」「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」「瀬戸石ダムを撤去する会」「美しい球磨川を守る市民の会」「八ッ場(やんば)あしたの会」「立野ダムによらない自然と生活をまもる会」「人吉・球磨の活性化会議」等々、ネットでみると随分と多くの団体が関わっているようだ。

 これは「西の川辺川」「東の八ッ場」がダム反対運動にとっての金字塔となったからである。

 漁協も一枚岩ではないし、流域住民とその他の県民では立場が違うし、農業従事者も遊水池の場所などで一致できるわけではないし、土木業者でもゼネコンと地元下請け業者ではかなり思惑に違いがあるようだし・・・。

 「ダムによらない治水」が12年たっても纏まらなかったのは、いろんな団体や利害関係者の言い分の「良いところ」ばかりを寄せ集めた結果、「合成の誤謬」(fallacy of composition)に陥ったからではないか。

 「治水」「環境保護」「生態系」「住民の暮らし」「財政」「気候変動」「環境思想」「支持率」「土建業者」「景気浮揚」・・・諸元の全てを満たす万能の方程式など無い。

 「流水ダム」は勿論「最適解」ではない、どちらの側も不満が残ると思うが、このやり方以外に現実的な方策はないのではないか。

 最適解を「極限まで追求」するのは、学者なら誉められることがあるかも知れないが、政治家・行政家の道ではない。

 蒲島知事の方針変更は、大戸川ダム(滋賀県)、城原ダム(佐賀県)、石木ダム(長崎県)など全国のダム計画に、少なからず影響を与えることが予想されます。

 「ここがマジノ線」で様々な勢力が熊本に結集し、「地方vs国」「環境vs開発」「正義vs国家権力」[被害者vs加害者」「弱者vs強者」等々どぎついコントラストの図柄に仕立てようとするのではなかろうか。

 蒲島知事は「今年末までに基本計画を策定する」とスピード重視だが、この姿勢は全く正しいと思います。

 「天道は自然に行われる道なり。人道は人の立つる所の道なり。元より区別判然たるを相混ずるは間違いなり。人道は勤めて人力を以て保持し、自然に流動する天道の為に押し流されぬ様にするにあり。天道に任する時は、堤は崩れ、川は埋まり、橋は朽ち、家は立ち腐れとなるなり。」

 「天理は万古変ぜず。人道は一旦おこたれば忽ちに廃す。されば人道は勤(つとむ)るを以て尊しとし、自然に任(まか)するを尊ばず。」

 (『二宮翁夜話』→2020年7月26日「小田原城・二宮神社」)

 2003年、田中康夫は「脱ダム宣言」の「長野モデル」をひっさげて、「第3回世界水フォーラム」へ颯爽と乗り込んだが、「地域事情を勘案しない独善的論拠」として途上国代表から総スカンを食らったのであった。

 ナルシストの田中康夫は、マスコミにもてはやされた「栄光の日々」忘れがたく、今だにSNSで「ブツブツ」やっているようだが、洵に憐れと言うほかありませぬ。

 線状降水帯やゲリラ豪雨による洪水被害が近年多発していることから、民主党時代の「コンクリートから人へ」に、再び批判の声が高まるようになった。

 蓮舫は「200年に一度の洪水に備える必要などない」といって、国・東京都の「スーパー堤防計画」を「仕分け」してしまい私も「一理あるか」と思っていたが、段々と堤防決壊による被害の甚大さが分ってきたので、やはり「あの仕分け」はとんでもない事だと言う思いである。

 スーパー堤防については「荒川区HP」「江戸川区HP」などで検索のこと。

 前原誠司元国交相は最近、川辺川ダムについて「ダムが必要ないといったことは一度もない」「地元の判断なら、あり」などと言っているらしいが(西日本新聞、毎日新聞など)、杓子定規な中止の判断にどれほど「地元の事情」が顧慮されたものだったか、甚だ疑問である。

 相も変わらず、軽いんだよねー、この漢(おとこ)は。

 2010年12月福岡高裁が、3年以内に堤防を開き、5年間開門調査をして海の環境変化を探るよう国に命じた、菅内閣は上告を断念、判決が確定した。

 諫早市長、長崎市長、仙谷由人官房長官、鹿野道彦農水大臣が菅直人総理の説得を試みたが菅は「私なりの知見」を押し通し、これによって諫早湾干拓事業問題は泥沼に迷い込んだ。

 諫早湾開門を巡っては、現在六つの訴訟が審理中であり、政府は開門しようがしまいが、漁業者と農業者・地域住民の両方から制裁金の支払いをもとめられる羽目に陥っているのである。

 戦後の食糧難への対策として、国は八郎潟干拓事業、宍道湖・中海淡水化事業、諫早湾干拓事業を計画・着工したが、1970年、米の生産調整(減反政策)が始まって、干拓事業の必要性は失われた。

 八郎潟(大潟村)への入植は1967年に始まり、反対の声は当然あったが、稲作から麦・豆・牧草・園芸作物への転作が奨励された。

 宍道湖・中海の干拓・淡水化事業は1963年に着工されたが、漁業者の反対、干拓地利用の未整備などを理由に、1988年「当分の間延期」とされ、2002年、事業の中止が正式に決定した。

 諫早湾干拓事業は、1952年に当時の長崎県知事が「長崎大干拓構想」として発案、1989年「国営諫早湾干拓事業」がスタートした。

 この事業は、発案から工事着工まで30数年もかかって居ることから「無駄な公共事業」の代名詞のように言われたが、それでも、2002年に工事は完了、淡水化された調整池は農業用水として利用され、高潮・洪水の防災機能も果たされたとして、結構評価されているようである。

 借金までして干拓地に入植した人が居ることなどを考え合わせると、潮受け堤防水門を開閘するなど、あってはならない事だ。

 生態系回復の実証実験だというが、それで塩害・高潮・洪水被害が生じたら、どうやって始末をつけるのかということだ。

 皆さん既に御存知のこととは思うが、やっぱり菅直人は頭がおかしいのであった。

 (なお菅直人の迷走については、2010年9月8日「迷走が止まらない(Ⅰ)」、2010年9月13日「迷走が止まらない(Ⅱ)、2011年4月11日「覚悟無き政治家は失せろ(Ⅰ)」2011年4月24日(「覚悟無き政治家は失せろ(Ⅱ)」2011年8月23日「崖っぷちの日本」など)

 二、三日前、テレビを見たら、俳優の宍戸開が常願寺川の砂防ダムー白岩堰堤、本宮堰堤、泥谷堰堤をレポートしていた。

 三つの堰堤は国の重要文化財に指定されている。

 常願寺川の土石流を防止するため、立山カルデラ出口の砂防工事が始まったのは約100年前、少しづつではあるが現在も工事は続行している。

 水源との標高差2660メートル、延長52キロ。

 明治時代、常願寺川の改修工事のため招かれたオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケは「これは川ではない、滝である。」といった。

 日本で200キロを越える長さの川は、北上川、利根川、信濃川の三つしかない。

 日本の川は全て急流である。

 列島の脊梁山脈に降った雨は、おおよそ一泊二日で海へと流れ落ちる。

 河状係数という指標がある。

 これは年間を通じた河川の最大流量を最小流量で割ったもので(最大/最小)、これが大きい川は洪水流量が大きく、かつ渇水も発生しやすく、河状係数が小さい河川は、流況が比較的安定した河川であり、洪水流量も小さめである。

 日本では、これが200とか300とか、とてつもない数字の川が多く、用水の取り入れ、舟運、洪水の処理に支障をきたすことになる。

 安定的に水を得るためには溜め池が、洪水を避けるためには堤防が必要である。

 水稲耕作が始まって二千数百年、溜め池と堤防で日本人は営々と国土を育て上げてきたといっても言い過ぎではなかろうし、将来的にもこの事情が変わることはない。

 ダムは溜め池の延長である。

 ネットで様々な「水の指標」を知ることが出来るが、そのいずれもが、「日本の水の未来」に対し、警告音を発している。

 日本の食糧自給率は、カロリーベースで30数パーセントである。

 バーチャルウォーターの考え方は、輸入された農産物や畜産物の生産にどれほどの水が必要か換算したものである。

  小麦1キロー2トン、大豆1キロー2.5トン、鶏肉1キロ-5トン、牛肉1キロー21トン・・・。 

 この計算(計算法によって異なるが )によると、日本は年間約800億立米のバーチャルウォーターを海外から輸入しており、これは日本国内の年間水使用量と同程度なのである。

 日本はバーチャルウォーター(仮想水)の輸入量において、世界第一位である。

 世界の水資源量の不足は、2010年時点の7パーセントから、2030年には40パーセントに拡大すると予測されている。

 アジア諸国を初め、世界各国では水の使用量が増大しており、さらに気候変動による降水量の偏在化、降水量の集中化がこれに拍車をかけており、日本のバーチャルウォーター獲得が困難になることは確実なのである。

 四国で水不足が慢性的になっていることにも注目していただきたい。

 ところで日本は代議制民主主義(間接民主主義)である。

 「国民が選挙で選んだ代表者に一定の期間自らの権力を委託し政治を委託することを通じて間接的に政治参加をし、意思の反映・実現を図る政治制度である。」

 政治家は代表者(represenntative)であって代理人(agennt)ではない。

 勘違いしている人が多いようだが、「民意」とか「総意」とかいうものが実体的に存在し、政治家がそれを代行するわけではない。

 政治家は自らの責任に於いて政策を決定し実現するべきなのである。 

2020年11月15日 (日)

伊太祁曽神社・倭人・原弥生人・海人族

 伊太祁曽神社

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  伊太祁曽(いたきそ)神社  

 和歌山市伊太祁曽

 主祭神 五十猛命(いたけるのみこと)

 左脇殿 大屋津比売命(おおやつひめのみこと)

 右脇殿 都麻津比売命(つまつひめのみこと)

 紀伊国には一宮(いちのみや)が三つある。日前(日前・国懸の総称)神宮、伊太祁曽神社、丹生都比売神社。

 社伝によれば、ふるくは日前神宮の地(和歌山市秋月)、に祀られていたが、垂仁天皇十六年に日前神・国懸神が遷座されるので、土地を明け渡したことになっている。

 紀氏の祖先である天道根命(あめのみちねのみこと)、は、天孫降臨の際に、日像鏡・日矛鏡を携え瓊瓊杵尊に付き従い、紀伊国の賀太、木本、毛見に行宮を設けて二つの鏡を奉祀していた。

 天道根命の五世孫にあたる大名草比古(おおなぐさひこ)命が夢でお告げを受け、鏡を秋月の地に移したといわれている。

 天正十三年(1585)、豊臣秀吉が紀伊国に攻め入って、伊太祁曽神社は根来寺、日前宮とともに滅ぼされ、社領は没収された。

 羽柴秀長が領主となって社殿が建立され、ついで浅野氏の時代に社領が寄せられた。

 五十猛を祭神とする神社は東北から九州まで約330社、その内で社名に五十猛を冠するのは、僅かに六社で、他はこの六社からの勧請である。

 五十猛は「いそたける」と呼ばれることもある。

 また「五十猛」は、「伊曾猛」、「伊多手」、「伊太祁曽」、「五十健」、「五十武」、「射楯」、「勇猛」などと表記されることがある。

 兵庫県姫路市の射楯兵主神社は射楯神・兵主神の二柱を併せて祀っています。

 『延喜式』神名帳では、出雲の玉造湯神社、揖夜神社、佐久多神社、阿須伎神社、出雲神社、曾枸能夜神社などに「同社坐韓国伊太氐神社」と記されているから、五十猛が、韓国(からくに)=新羅から押し渡ってきた神であると認識されていたのである。

 伊太祁曽神社の神紋は、丸に「太」。「太」とは古道教の「太一」「太乙」のことで、太白・太極すなわち「陰陽全体」を意味している。

 →2018年10月10日「御塩殿神社・伊雑宮と『太一』」

  2016年8月23日「来宮神社の大楠」

  2014年8月24日「麻賀多神社の大杉の木」

  2013年5月7日「根来寺」

  2012年12月4日「桜井市出雲の十二柱神社」

  2009年1月31日「春日大社若宮大楠」 、2009年7月22日「浜の宮の夫婦楠」 

  2008年12月2日 「高天彦神社(ⅱ)」

  2008年9月21日「相撲神社・穴師坐兵主神社」、2008年12月21日「粉河寺の大楠」  

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 奉納されたチェーンソー・カービングの作品

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 「一書に曰く、素戔嗚尊の所行無状(しわざあずきな)し。故(かれ)、諸々の神(かみたち)、科(おほ)るにするに千座置戸(ちくらおきど)を以てし、遂に逐(やら)ふ。是の時に、素戔嗚尊、其の子(みこ)五十猛(いたける)神を帥(ひき)ゐて、新羅国に降到(あまくだり)まして曽戸茂梨(そしもり)の處(ところ)に居(ま)します。乃ち興言(ことあげ)して曰はく、『此の地(くに)は吾(われ)居らまく欲(ほり)せじ 』とのたまひて、遂に埴土(はに)を以て舟に作りて、乗りて東(ひむがしのかた)に渡りて、出雲国の簸(ひ)の川上に所在(あ)る、鳥上(とりかみ)の峯(たけ)に到る。」

 「初め五十猛神、天降ります時に、多(さは)樹種(こだね)将(も)ちて下る。然れども韓地(からくに)に植(う)ゑずして、盡(ことごとく)に持ち帰る。遂に築紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖(まきおほ)して青山に成さずといふこと莫(な)し。所以(このゆゑ)に、五十猛命を称(なづ)けて有功(いさおし)の神とす。即ち紀伊国に所坐(ましま)す大神是なり。」

「一書に曰く、素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『 韓郷(からくに)の嶋には、是金銀(こがねしろがね)有り、若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国に、浮宝(うくたから)有らずは、未だ佳(よ)からじ』とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を抜きて散(あか)つ。即ち杉 (すぎのき)に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是柀(まき)に成る。眉の毛は是櫲樟櫲(くすのき)に成る。已にして其の用いるべきものを定む。

 乃ち称(ことあげ)して曰はく『 杉及び櫲樟、此の両(ふたつ)の樹は、以て浮宝(うくたら)とすべし。柀は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に當(も)ち臥さむ具(そなへ)にすべし。夫の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆能く播(ほどこ)し生(う)う。』となたまふ。

 時に、素戔嗚尊の子を、號(なつ)けて五十猛命と曰す。妹(いろも)大屋津姫命、次に枛津姫(つまつひめ)命。凡て此の三(みはしら)の神、亦能く木種を分布(まきほどこ)す。即ち紀伊国(きのくに)に渡し奉る。

 然して後に、素戔嗚尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居(ま)しまして、遂に根国 に入りましき。」 

 「植林を行い、木を育てる神としての五十猛である。『木の国』紀州の豊かな木材資源を管掌するのが、五十猛を祀伊太祁曽神社なのであるが、同時にそれは、製鉄のために多量に消費する木炭の供給を意味する。

 しかし、木材の用途として当時最も重視されたのは船材であろう。スサノオとイタケルは『日本書紀』では、『埴土(はに)を以て舟に作りて、乗りて東に渡りて』と造船技術の所有者のように描かれているが。海上を制覇したイツツヒコ(イタケルのこと)が、造船に意を注いだことは当然だ。」

 「このように、イタテ=イツツヒコは、新型の造船技術をも日本にもたらしたのであり、また船の材料として最も重要な木材資源の管理技術を倭人に伝えたのである。」

 「この日本海の海上勢力、大毘古の婿であった崇神天皇が、新型の造船技術に強い関心をよせないわけがない。西には瀬戸内海、北には琵琶湖を経て日本海と、支配の領域を拡大する交通手段は、馬のなかった当時、船が最善最強力なものだった。『日本書紀』「崇神天皇十七年の条」は、次のように船の建造について伝える。

 詔して曰く、「船は天下(あめのした)の要用(むねつもの)なり。今、海(わた)の辺(ほとり)の民(おおみたから)、船無きによりて甚(にへさ)に歩運(みちはこび)に苦しぶ。其れ諸国(くにぐに)に令(みことのり)して、船舶(ふね)を造らしめよ」とのたまふ。冬十月に、始めて船舶を造る。

 この時、始めて船舶を造るというのは、丸木舟はどんな地方にも普及していたのであるから。丸木舟のことではない。漢字二字の船舶、本格的な大型船を造らしめた、と解するのだ。その構造はおそらく、先の銅鐸(福井県坂井郡春江町出土)に見るような丸木舟を基本として、舷側や、船首、船尾に板を継ぎ足した「縫合船」だったろう。これでも当時としては驚異的な技術革新だったといえる。

 この時期以後、船の構造は、前と後ろを別々に造って中央部でつなぎ合わせた「複合構造船」へと変化していく。この型になると、船材を継ぎ合わせるための釘、鉄製工具がいっそう必要なものとなる。鉄神と船神を複合した、イタテ神の新技術とは、この複材構造線の造り方の秘密にあったのではないか。イタテ神を祀る紀臣(きのおみ)一族は、五世紀を通じて対半島の水軍として活躍したが、おおむねこの時期の大型船は、この複材構造船だったと考えられている。」

 「早くから製鉄業の盛行した半島では、ただでさえ少ない木材資源をいっそう早く涸渇させていっただろう。豊かな木材による造船の発達、それが四世紀から五世紀にかけての倭国の強みであり、それを誇っているかのような調子が、先の五十猛の説話には看取される。」

 「古い歴史を持つ神社を訪ねると、樫、楠をはじめとする照葉樹の大木が、ほとんど原始そのままの姿で残されているが、それは、原始人の樹齢信仰といったもの以上に、製鉄・造船にとってかくも重要な木を愛護する、という心情が働いていたと思われるのである。」

 (神垣外憲一『倭人と韓人ー記紀からよむ古代交流史』(講談社学術文庫)から)               

 ↓ 吉野山中、高野槙群生地。

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 ↓気生神社 五十猛の荒御魂を祀る

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 蛭子(えびす)神社

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 イタケル神の由来

 イタテ神は渡来系の製鉄神であり、古い倭鍛冶(やまとかぬち)に対して、新しい技術・韓鍛冶(からかぬち)に関連があるらしい。

 「書紀」には「築紫の伊都県主の祖五十迹(イトテ)、(仲哀)天皇の行(いでます)を聞(うけたまわりて)、五百枝(いそえ)の賢木を抜(こ)じ取りて、船の舳(ともへ)に立てて、上枝(かみつえ)には八尺瓊を掛(とりか)け、中枝(なかつえ)には白銅鏡を掛け、下枝(しもつえ)には十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引嶋(下関の彦島のこと)に参迎(まうむかへ)たてまつる」

 「天皇、即ち五十迹を美(ほ)めたまひて伊蘇志と曰ふ。故、時人(ときのひと)五十迹が本の国を名付けて伊蘇国といふ」

 また「筑前国風土記」逸文には「高麗の国の伊呂山(おろやま)に、天より降(くだり)来し日桙(ひぼこ)の苗裔(すえ)。五十迹手是なり」とある。

 伊呂山とは新羅の東海岸、蔚山(ウルサン)のことで、「伊西(イソ)国」あるいは「伊西古(イソゴ)国」と呼ばれる国があった。

 4世紀、シナ大陸北部は北方諸族が割拠する五胡十六国時代に入り、朝鮮半島では高句麗に攻められ帯方郡、楽浪郡が滅亡、馬韓五十余国を伯済(後の百済)が統一、辰韓十二国は斯慮国(しろこく、後の新羅)が統一、しかし弁韓十二国は統一されることなく諸国が分立したままだった。

 イトテ一族は、半島の動乱を逃れて、関門海峡の両岸に住みついた勢力であったらしい。

 「山口県西部から九州北部の海岸は、新羅系のイツツヒコが押さえ、九州中部の仲哀一族と対立していたとすれば、もう一つ、仲哀一族の宿敵である西南方の熊襲と新羅系の勢力が手を組むのは、当然のなりゆきであろう。両面攻撃で守勢にまわった仲哀一族は、日本海から西下していた新興の息長一族と同盟を結」んで、イトテの一族を降伏させた。

 イトテ一族は、神功皇后・応神天皇の瀬戸内、大和攻略の軍勢に加わり、木材を求めて紀伊国にはいり、新羅系の船の神、鉄の神としてのイタケル神あるいはイタキソ神が伝えられたのではないかと、上垣外氏は推定しておられる。

 これは、イタケル神の船の神、鉄の神としての役割を重視する説だが、「樹木の神」に着目する見方もある。

 「五十猛は、この国に樹木の種をもたらした。つまり日本の豊かな森林はこの神に由来するとされているわけで、これは格別の神格ということになる。

 『神様を数える単位は『柱』ですね。日本では『柱』はもっぱら木でできていましたね。木と神様とは深い関係があります。仏になった人を埋める、これがオジイチャンの木だ。そう言うこともあったかも知れません。魂魄のパク(魄)の木ですね。ここに天上のコン(魂)が降りてくる。魂魄が合わさって蘇りとなりますね。そういう事もあって、神様が降臨するには、木をつたって降りてこられるとか、木に寄りつくとか言います。その木の種を播いた神様ですから。日本の神々の中でも最も古い神だと言えるのでしょう。』(瀬藤綽祥)

 瀬藤氏の指摘こそは、日本文化の本質に関するものだ。神道の最も古い形は神籬(ひもろぎ)である。即ち特別な樹木を神の依り代とする。その神籬をもたらした者こそは五十猛である。」

 戸矢学「ニギハヤヒー『先代旧事本紀』から探る物部氏の祖神」(河出書房新社)から、氏の主張を要約してみる。

 ● 「紀の国」は漢字で「紀伊」と表記されるが、これは古代紀伊地方に「紀氏」と並び称されるほどの古代氏族「伊(イ)氏」があったからであり、イタケルとは「伊氏の勇者」という意味である。

 ● 伊勢、伊賀、伊予などの地名や、伊弉冉、伊弉諾、伊香色雄(イカシコオ)、伊久比売(イクヒメ)、伊佐須美(イサスミ)、伊豆山(イズヤマ)伊太代(いたて)、伊都伎嶋(イツキシマ)、伊氐波(イデハ)、伊吹戸主(イブキドヌシ)、伊雑宮、伊勢久留麻(イセクルマ)神社などの神名、神社名における「伊」は「伊氏」の痕跡である(国語学者がはまた別の解釈をしている)。

  ● 奄美地方に一文字一音の姓「井、伊、紀、記、喜、津、那、野、帆、与」などが多いが、このうち「伊」「記」「喜」は奄美に特有のものである。伊氏は、中国江南から朝鮮半島、日本列島の沿岸部全般にわたり、東シナ海を自在に往来する海人族の一つであり、五十猛は海人族の王であった。

 ● 「伊氏は消えたのではなく、派生氏族として存続したのだ。もともとの伊氏が見あたらない理由は、伊太祁曽神社が日前宮によって遷移させられたという歴史的事実が示唆している。伊氏は紀氏に国譲りして王権から排除された。国名に『伊』こそ残されているものの、実質的には完全に紀氏政権となっている。物部氏が政権を失って、祭祀氏族としてのみ存続を許されて石上神宮に押し込められたように、伊氏は『伊の社』に追いやられて、氏神であるイタケルを祀ることのみ許されたものだろう。紀伊という国名にその痕跡を残され、氏神社である伊太祁曽神社が日前宮とともに一宮に列せられているのはイブ政策である。」

 ● 畿内に「伊国」を築いたイタケルは、築紫から攻め上ってきたイワレヒコ(神武天皇)軍に敗北、「伊の社(和歌山市秋月の伊太祁曽神社の旧社地)に幽閉され、新たな国名はイワレヒコによってヤマトとされるが、南西部は紀氏に与えられ「紀国」となり、後の古称に「伊」の名が加わった。

 ● 石上神宮の祭神「布留御魂大神」、熊野速玉大社の「熊野速玉大神」、矢田坐久志玉比古神社の「ニギハヤヒ」の実体は、物部氏の氏神となったイタケルであり、三輪山の祭神「大物主大神」は物部の長髄彦のことである。

 戸矢氏は「本書では新たな解釈を重層的に提示している。それゆえに、常識や定説の基軸がゆらいでわかりにくい点もあるやもしれない。」と述べておられる。

 近畿地方に「伊国」があって、その末裔が物部氏だというのである。

 この説をとやかく議論する資格は無いので、判断を保留しておくが、イタケル神に象徴される「樹木崇拝」が、東シナ海の海人族によってもたらされたという主張には満腔の賛意を表したい。

 日本神話における「根元の神」「格別の神」としての「木の神」とは、古事記にいわゆる「高木神(たかぎのかみ)」、書紀にいわゆる「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」である。

 この神は、春秋時代の前五世紀、呉越の争乱を日本列島に逃れた「倭人」によって、水稲耕作とともに渡り来たった樹木の神であった。

 国立遺伝学研究所(静岡市)の斉藤成也教授は、日本列島への渡来の波は三回あったとする『三段階渡来モデル』を提唱しておられる(読売オンライン、2017/12/15「『縄文人』は独自進化したアジアの特異集団だった。」から)

 「第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。『第一波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない』と語る。」

 最近では古人骨をゲノム解析する手法が一般的になっていて、縄文晩期の人骨に、シナ大陸江南のDNAに近似する物が多いことが分ってきている。

 イタケル神は、弥生時代中期に渡来した神なのではないか。 

 長江文明と倭族と原弥生人 

 「稲作を伴って日本列島に渡来した弥生人は『倭人』 と呼ばれ、先住の縄文人を征して『倭国』を形成した。彼らの渡来は紀元前400~450年頃の縄文晩期とみられている。

 ところが同じ倭人の称をもつ部族が中国大陸にもいた。『論衡』によると紀元前1000年、周代初頭の記事として、例えば「周時天下泰平にして、越裳(越人)白雉を献じ、倭人、鬯艸(ちょうそう、霊芝のこと)を貢す」などの文が三カ所にみえる。鬯艸は香料として黍酒に入れ、神に供えたり、また不老長寿の霊薬として珍重されていたものである。

 中国大陸にいたという倭人は、一体どこに住んでいたのであろうか。その倭人の住地を探し求める調査研究の結果、長江上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、いくつもの倭人の王国があったことを知った。『史記』が記す滇(てん)、夜郎(やろう)、且蘭(しょらん)、邛邛都(きょうと)、昆明(こんめい)、嶲(ずい)、筰(さく)、冄(ぜん)、駹(ぼう)、蜀(しょく)、巴(は)などの国々であるが、秦始皇帝と前漢武帝の征討をうけて、多くの王が殺され、滅亡していった。

 かれら倭人は新石器時代の初め頃、雲南省の、滇池(てんち)か、または周辺に点在する湖畔で、水稲の人口栽培に成功したとみられる。生産様式の異なりは、それに伴って特殊な文化を育成するが、その文化的特質の中でももっとも顕著なものは、水稲農耕という生産様式から高床式建物を考案したことである。

 (安田嘉徳氏は「かっては稲作農耕は雲南省が起源地とされていたが、近年新しい発見が相次ぎ、長江の中・下流域であるというのが定説になりつつある。」としている。)

 黄河流域にいた漢民族が畑作農民として「土間式建物」であったのに対し、水稲耕作民の「高床式建物は」文化的に対蹠的なものである。彼らは高床式の母屋に接続して、籾干し場である高床の露台を付設し、また火どころも土間式住居の地炉にたいして、高床面に炉を設けて水害から火を守るという建築構造をもつことになった。それに伴って、風俗慣習も異なるものになったが、それは明らかに文化圏を異にするものであった。

 彼らはその稲作と高床式建物を携え、雲南から各河川を通じて東アジア・東南アジアへ向けて広く移動分布した。そうした文化的特質を共有する民族、つまり日本人と祖先を同じくするものを、先年来「倭族」という新しい概念で捉え、これまで幾多の論著をもって提唱してきた。」

 (鳥越健三郎『古代中国と倭族ー黄河・長江文明を検証する』(中公新書)から)

 今から5700年前、古代文明はチグリス、ユーフラテス川のほとりで誕生しエジプト、インダスへと伝搬し、それから1000年ほど遅れて中国黄河に伝わったとされた、いわゆる「四代古代文明」である。

 このうち三つの文明は北緯35度以南に位置しているのに黄河文明だけは北緯35度以北であったので、スッキリしない感じだったが、近年、長江中・下流域で発見された遺跡群の調査・研究が進むにつれて、黄河文明に先立つ1000年以上前に、メソポタミア、エジプト、インダスに文明が誕生したのとほぼ同じ時期に、北緯35度以南の長江流域で文明が花開いていたことが明らかになってきた。

 中国文明の源流が、長江文明にあることは、今や考古学上の定説である。

「6300年前に誕生した長江文明は、4200年前に起こった気候の寒冷化によって大きな変節を迎える。北方で畑作牧畜を行っていた漢民族のルーツにつながる畑作牧畜民が南下し、雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われることになった。」(安田嘉徳『古代日本のルーツ長江文明の謎』(青春出版社)から)

 「畑作牧畜民が作り上げた文明は、森を破壊し、闘争的で、自らの価値観と対決するものは邪悪なものと敵対し直線的な発展を目指してきた。それが今日の科学技術文明を生み出したことは事実であるが、同時にわれわれは多くの自然を失い、地球規模での環境問題に直面しているのである。」

 「自然を組み伏せ、直線的な発展を行ってきた畑作牧畜文明に対して、森から生まれた稲作漁労文明は、自然の再生と循環を重んじ、あくまで自然と調和し、異なる宗教、異なる民族と共生する発展を目指してきたといえよう。豊かな長江文明、そして日本の縄文文明にも、そうした再生と循環の思想が息づいている。」

 「三内丸山遺跡や鳥浜貝塚からは漆やヒョウタン、豆類などが発見されている。河姆渡遺跡でも漆を使用し、ヒョウタンや豆類の栽培が行われていた。これらのことを考え合わせると、縄文時代の日本は長江文明から何らかの影響をすでに受けていたと考えるほうが自然だといえよう。」

 「気候の寒冷化・乾燥化は約4000年前だけでなく、その後も何回も繰り返しあった。その度に北方の民は長江流域に進出してきたと思われる。とくに約3000年前の寒冷・乾燥化は厳しいもので、北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。その結果、森の民・稲作漁労民たちが築いた長江文明は次第に衰退していったのである。」

 「史記 五帝本紀」には「三苗が江淮河・荊州の地にあって、しばしば政治を乱した・・・舜は三苗を三危(西方の辺境の山)に移して西戎に同化させた」とある。

 三苗は、ここでは苗(メオ)族のことではなく洞庭湖周辺に住んでいた蛮族のことで、戦いの場は、江漢(チャンハン)平原(長江と漢江の合流するところにある広大な沖積平野)であったらしい。

 これは神話時代に、中原から江漢平原に進出した畑作牧畜民が、稲作農耕民を打ち破ったことを語っているのだろう。

 「殊に倭族の顕著な文化的特質としての稲作と高床式住居は、他に類例がなく長江文化圏で育成されたものであり、各地に四散した倭族たちも、その文化的特質を保持し伝承している。その比類のない文化を共有する倭族は、長江を離れて広域にひろがってはいるが、長江文明という言葉をもって表わすことも可能ではないかと思う。」(鳥越)

 倭の古音は「ヲ」woであってこれは、「呉」「越」「於」と同音である。

 中国では、いとも簡単に類音異字を用いるので、倭、呉、越、於は同じ民族を、別の文字で表現したものである。

 鳥越氏は、物部系の古代豪族であった「越智氏」の「越」を「ヲ」と呼ぶのは、古音が残存したのではないかと言っておられる。

 「石塞山六合墓から前漢武帝が滇王に授けた金印「滇王之印」が出土している。それは蛇紐(じゃちゅう)の金印で、滇国人が蛇を最高神として尊崇する稲作民族であることから、蛇を象った金印を下賜したのだろう。また後漢の光武帝が57年に奴国王に授与し、北部九州の志賀島から出土した蛇紐の金印「漢倭奴国王印」も、日本の倭人が同じく田の神を蛇とみる稲作民族であることを知っていたからであろう。」

 周代に安徽省・江蘇省・山東省あたりには徐・淮・郯・莒などなどの小国があり、まとめて「東夷」とよばれていたが、それらの国は倭族によって築かれたものだった。

 春秋時代末、越に攻められ呉が滅亡(紀元前473年)した後、呉の遺民だけではなく呉の領民となっていた東夷諸国の民らも、稲作文化を携えて、朝鮮半島中部に上陸し(北部は燕の勢力下になっていた)、先住の濊(わい)貊(ばく)を制して辰国を立て、民族意識が高まって「韓」を自称するようになった。

 戦国時代、越は苗族の楚に討たれて滅び、越人たちは福建・広東・越南(ベトナム)へ亡命、ベトナムに住みついた越人は越裳国を立てた。

 楚は始皇帝によって滅ぼされ、楚は後に漢族の範疇に入れられたが、南遷した苗族の一部は、明・清両朝の迫害で山岳地帯に四散し、今では少数民族と呼ばれる境遇に陥った。

 長江上流域(重慶より上流は金沙江と名を変える)四川盆地や雲貴(ウンユイ)高原には、倭族によって建てられた幾多の王国が存在しており、「西南夷」と呼ばれた。

 前漢武帝のとき、中央アジアに派遣された張騫が、身毒国(インド)を経て大夏(ヴァクトリア)に至る道筋があることを献策した。

 そこで武帝は南路開拓を企て、冄駹、筰都、邛都、且蘭などを滅ぼし、夜郎国と滇国を服属せしめ、昆明国を攻め立てたが、昆明の反撃もすさまじく、「還昆明を撃つも功無し」という結果におわった。

 この頃、怒江(サルウィン川)・瀾滄江(メコン川)に沿ってインドシナ半島に民族移動した一群があり、彼らの一つはミャンマーとタイにかけてモン王国を築き、他はカンボジアで扶南国を建てたのち、9世紀にクメール帝国へと発展した。

 ミャンマー領内では雲南から南下したビルマ族によって8世紀、ペグー王国が建設された。 

 タイ北部のチェンマイに小王国を築いたものもいた。

 蜀の宰相・諸葛亮(諸葛孔明)の遠征で、倭族の古代王国はすべて消滅した。 

 タイ族は夜郎国を本源とする部族で、雲南省南部に住んでいたが、8世紀頃メコン川を下って南下移動し、中国南部は勿論、インドシナ半島の全域に広がっていった。

 1257年にタイ北部でスコータイ王国、1350年にシャム湾にそそぐチャオプラヤ川を少し遡ったところで、アユタヤ王国が勃興した。

 唐代には洱海(アルハイ、大理市の北側にある湖)の周辺には倭族によって建てられた幾つかの部族国家が残っていた。

 蒙古の憲宗(モンケ・カーン)の命をうけた忽必烈(フビライ)が十万の軍隊を率いて中国領内に入り、三路に分かれて洱海を攻撃し、1254年に大理は滅亡、これによってシナの領域における倭族の王国は終焉した。

 これら倭人諸部族の民族大移動は、長江文明に対する黄河文明あるいは漢民族による持続的な圧力によるものだが、見ようによっては、東南アジアに対して長江文明が拡散していくプロセスであったと考えることもできよう。

 そして今の中国は、マオイズムを東南アジアに拡散し、さらには共産党主導の国家独占資本主義を世界中に拡散しようと図っているようにも見えるのであり、古代に始まった黄河文明の侵攻は形を変えながらも持続しているのと見るべきではなかろうか。

 長江文明と日本の類似性

 「中国の雲南省から長江流域、そして西日本には多くの文化的共通点がある。たとえば、納豆や餅などネバネバした食べ物が好きであるということ。」

 「また雲南省では、日本の長良川の鵜飼いと同じように、鵜に魚を飲み込ませる漁が行われている。雲南省も日本ももとは主たるタンパク源は魚であった。この他にもお茶を飲み、味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ。漆や絹を利用する。」

 「このように、雲南省と日本の間には、きわめて共通した文化的要素が存在し、これを中尾佐助氏や佐々木高明氏は『照葉樹林文化』と名付けた。」

 倭族の生活様式と民俗は、今日の中国南部、ミャンマー、ラオス、タイ、ベトナムなどの少数民族、苗(メオ)族、猺(ヤオ)族、哈尼族(ハニ族、タイではアカ族という)、佤(ワ)族、イ族、侗(トン)族などの生活振りから知ることができる。

 弥生人との文化的共通性を例示してみると、

 「生活面を土間とする竪穴式住居や平地式住居では、屋内と屋外との区別無く土足のまま出入りするが、高床式住居では生活空間が高床上にあって、屋外と屋外を截然と区別し、たとえ跣(はだし)の生活であっても梯子の登り口または屋内の入り口で、足を水で洗うか雑巾で拭いてからでないと部屋に入らない。したがって土間式住居では腰掛けや寝台を用いるが、高床式住居では床上に腰を下ろし、正座またはあぐらを組み、眠るときも床面に体を横たえる。」

 住居の小屋組で、千木、鰹木、切り妻に棟持ち柱を建てるところなどは、神社の大社造りにそっくりである。

 棟飾りに鳥形を飾ることも多い。北方アジア民族の鳥は(北方シャーマニズム)死者の霊を天界に運ぶものであるが、倭族に見られる鳥は神あるいは祖霊が家族を守護するために降臨するときの乗物である。

 衣服は貫頭衣で、断髪、鯨面文身の風俗も、魏志倭人伝の記述と類似している。

 「史記」では「呉」について「太白・仲雍の二人、すなわち荊蛮に走り、文身・断髪し・・・」とあり、「越」について「その先は禹の苗裔にして・・・会稽に封じ、以て禹の祭りを奉守す。文身・断髪し、草萊を披(ひら)きて邑とす」とある。

 倭国で「文身」が廃れたのは7世紀ごろからである。

 部落の入り口には、二本の立柱に笠木を渡した門がたてられ、笠木の上には鳥の形象物が置かれている。これなどは、なぜ神社の鳥居が「鳥+居」なのかを説明するものである。日本でも文字通りに、鳥形を載せている神社がある。

 鳥居の代わりに、〆縄が掛けられることもあり、その縄は左縄である。「左縄とは左綯(な)いにした縄のことである。わが国のみではなく倭族に属する民族は、現在でも祭儀に用いる縄は、日常のものと事なりすべて左綯いにする。西は雲南省奥地のワ族、東ではインドネシアの東端にあるスラウェシ島のトラジャ族に至るまで、共通して祭儀用の縄は左綯いにすると聞いた。それは倭族が左を尊ぶ思想にもとずくもので、例えば右大臣より左大臣が上位である。右を左より上位とみるようになったのは、明治以降の西洋思想が入ってから後のことである。」

 神社の祭礼で用いる「たすき」「ちはや」「ひれ」も倭族に起源があるらしい。

 注連縄で聖林であることを現し、山の神を祀る簡略な礼拝所などは、ありふれたもので、これなどは沖縄の御嶽(うたき)にあたるもので、神籬の原型なのではないか。

 「随書・倭国伝」には、倭国では盟神探湯(くがたち)が行われていると記されている。

 「盟神探湯」による神判は倭族全般の習俗であって、現在でもタイ国の山岳地帯に住むリス族、中国雲南の佤族に伝えられているという。

 インドシナ北部を中心として 中国南西部からインドネシアにかけて分布する銅鼓(ドンソン・ドラム)に刻まれた、家屋、動物、狩猟、農耕の紋様は、銅鐸の紋様に酷似している。この地域に青銅器の技術が伝わったのは、戦国時代のことである。

 太陽信仰、鳥信仰、蛇信仰、巨樹信仰、山の神信仰は、長江最上流域の雲南省から上流域の四川盆地、中流域の湖南省、下流域の浙江省まで、長江流域全般に見られるもので、この辺りが日本神話の源流と目されているのも故無しとしない。

 また東北アジア(シナ・韓国)の強力な父権制に比べて、東南アジアや日本には、なお母権性が残存しているように感じられる。

 シナ・韓国人に対して日本人が抱く違和感・異質感については、儒教社会ということで説明されることが多いが、原因はもっと根深い層位にあるように思われるのである。

 ヘイトだ、差別だと罵られても困るので、あまり大きな声では言えないのだが・・・。

 倭人と海人族

 「史記」の「秦始皇本紀」「淮南・衡山列伝」には、斉人の徐福が、東海中の三神山「蓬莱・方丈・瀛(えい)州」には「延年長寿」の薬があると始皇帝に説いたところ、『始皇帝は大いに悦んで、良家の善童男女三千人を派遣することとし、これに五穀の種をもたせ、もろもろの工人をつけて出発させました。徐福は平原と広沢とを手に入れ、その地にとどまって王となり、再び還ってはきませんでした。』とある。

 徐福が、数千人率いて船出したのは前219年のことだった。

 中国の学者の研究によると、江蘇省にある「徐阜村」が清朝初期まで「徐福村」と呼ばれていたこと、秦代の遺跡があることから、徐福は実在の人物で、この邑に住んでいたのだとされている。

 始皇帝は気宇壮大でビッグ・プロジェクトが好きな人だったから、本当のところは、秦の威勢を海内に誇示するために、大船団をおくりだしたのだろう。

 数千人を運ぶ船などあったかと言うことになるが、後の明の永楽帝のときの鄭和の大遠征と同じやり方で、巨大な筏・今風に言えばメガフロートを列ねて、豚を飼い、野菜を栽培しながら、東シナ海を渡ったのではあるまいか。

 日本人の感覚で計ってはいけない。

 徐福伝説が残り「徐福渡来の地」とされる場所が、全国には四十数カ所あるらしい。

 徐福は日本列島に来て、秦氏の祖先になったとか、神武天皇になったとかいう説もあって、その可能性も無いことはなかろうが、証明されることは無いでしょう。

 ↓新宮市・徐福公園 

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「梁書」に「倭は、自ら太白の後(すえ)という」とある。

 太白は、殷代に渭水流域に地方の王国として「周」を建てた古公亶父(ここうたんぽ)の長子であったが、末っ子の季歴に王位を譲り、荊蛮に渡って「呉」を建国した。

 呉越争乱により「呉太白の呉が滅亡すると、呉の領域であった山東半島、華北平原南部(山東省、江蘇省、安徽省)の倭人達が、朝鮮半島中・南部へ亡命し、その一部が日本列島に渡来して『自ら呉太白の後なり』と伝えていたのである。」

 周王の姓は「弃(キ)」であり、後に「姫(キ)」へと改めた。

 まあ山勘だがこの「姫」姓が後に、ヤマトに服属したなどの理由によって「紀(キ)」姓へと改められたのではないだろうか。

 前306年、楚が越を滅ぼすと、倭族は浙江省(チョーチャン)から、福建省(フーチエン)へと亡命し、一部はさらに東南(トンナン)丘陵(広州、広西)へと南下し、他の一部はボートピープルとして東の海上へと乗り出したのだった。

 東へ向かったのは「後漢書」に『その地は大較(おおむね)会稽(現在の浙江省紹興)・東冶(福建省閩候県)の東に在り、朱崖・儋耳(ともに海南島の地名)と相近く、故にその法俗は多く同じ」とあり、また「三国志魏志倭人伝」では夏后少康の子が越国を建てたこと、越の風俗について述べた後、「その道理を計るに、当に会稽・東冶の東に在るべし」とあることから、当時の地理的感覚(邪馬台国論争にも影響しているが)では、越国の東の海上に倭族の国があると信じられていたためである。

 「岐阜県荒尾南遺跡から発掘された土器は、弥生時代後期のものである。この土器には船が描かれているが、じつに大きなものである。オールが何本もあり、100人近い人達が乗り込めると思われる。そんな巨大な船をつくりだし、運航させる技術が、長江文明にあったことを物語っている。彼らは、そんな巨大な船で日本にやって来ていたのではあるまいか。」

 北赤道海流は東シナ海の真ん中で大きく向きを変え、東北東へ向かう黒潮(日本海流)と北東方向へ向かう対馬海流へと分流する。

 福州あたりから出た船は、黒潮に乗るか、それとも先島諸島、琉球諸島、薩南諸島を伝って南九州に漂着し、杭州あたりを出発した船は済州島や北九州に着いたことだろう。

 「日本書紀」ではニニギノミコトは、高天原から鹿児島県の笠沙(カササ)に降り立ったと伝えている。

 「中国から海を渡って日本列島にやって来るとき、この一帯は漂着のメインコースになっている。実際笠沙町の黒瀬海岸には「密航者にご注意」という看板がたっている。ほかにも日本海では出雲、富山、越後といったところも中国からの漂着のポイントとなっているが、一つのメインコースが九州の南西端である笠沙周辺であることは間違いない。鎌倉時代から室町時代にかけて、坊津は南方貿易の拠点にもなっていたことからも、この辺りが中国大陸との重要な接点になっていたことがわかる。」

 「この辺りは、海からの目標になるものもある。鹿児島県の野間岳と開聞岳である。この二つの山を目標にニニギミコトは船を動かし、笠沙の浜に漂着したのである。」

 「ニニギノミコトとは長江文明を担った人たちのことであり、彼らの高度な文明に当時、日本列島にいた人たちは驚いたにちがいない。その衝撃が笠沙の地の神話として残ったのである。」

 「彼らは北方の民族に追われて、ボートピープルとして流れ着いたとはいえ、高い文化と技術を持っている。当時の日本は、長江文明に比べて1000年以上の文化的な落差があったと考えられる。日本列島の人々にとっては、新しい驚異的な文化を持った人達だったのである。その記憶を、ニニギノミコトの漂着として記憶したのではないか。」(安田)

 対馬海流で北九州から日本海側を北上した倭族は、宗像氏、出雲氏、海部氏、息長氏の元の部族になり、関門海峡を抜けて瀬戸内海に入った倭族は、住吉氏、安曇氏、物部氏の元祖になった。

 越前、越中、越後の「越」は、倭族が故郷の「越」を地名に残したものではないか。

 黒潮本流で南九州から四国、紀伊半島、伊豆半島、房総半島へと向かった倭族は、熊襲、隼人、越智氏、紀氏、葛木氏、久米氏、多氏、宇治土公氏、尾張氏、鹿島氏の元祖部族となったものと思う。

 邪馬台国に敵対した狗奴国や、神武の一族もこのグループだったのではないかと私は考えている。

2020年10月28日 (水)

球磨川洪水と河辺川ダム

7月3日から4日にかけて、熊本県を集中豪雨が襲い県南部を流れる球磨川水系は、12ヶ所で決壊・氾濫し、65名が命を落とし、2人が行方不明となった。

 人吉市では、全壊882棟、半壊1411棟など、約半数の家屋が浸水被害を受けた。

 7月5日、蒲島郁夫熊本県知事の記者会見での発言。

 「私が2008年にダムを(河辺川ダム建設計画を)白紙撤回し民主党政権によって正式に決まった。その後、国、県、流域市町村でダムによらない治水を検討する場を設けてきたが、多額の資金が必要ということもあって12年間できなかったことが非常に悔やまれる。そういう意味では球磨川の氾濫を実際に見て大変ショックを受けたが、今は復興を最大限の役割として考えていかないといけないなと。改めてダムによらない治水を極限まで検討する必要を確信した次第だ。」

 「(反対表明した)2008年9月11日に全ての状況を把握出来ていたわけではない。熊本県の方々、流域市町村の方々は『今はダムによらない治水を目指すべきだ』という決断だったと思う。私の決断は県民の意向だった。私の決断の後に出た世論調査の結果は、85%の県民が私の決断を支持すると。その時の輿論、その時の県民の方々の意見を反映したものだと思っているし、それから先も『ダムによらない治水を検討してください』というのが大きな流れだったのではないかと思っている。ただ今度の大きな水害によって更にそれを考える機会が与えられたのではないかと思う。私自身は極限まで、もっと他のダムによらない治水方法はないのかというふうに考えていきたい。」

 「少なくとも私が知事である限り、これまでもそのような方向でやってきた。ダムによらない治水が極限までできているとは思わない。極限まで考えていきたい。ダム計画の白紙撤回の時にも言ったが、永遠に私が予測できるわけではない。今のような気候変動がまた出てきた時には当然、国、県、市町村と、今のところはダムによらない治水なので、その中でやる。それ以外の考え方も、将来は次の世代には考える必要はあるかなと思う。」

 8月20日、球磨川流域12市町村でつくる「河辺川ダム建設促進協議会」は、国や熊本県にダム建設を含めた抜本的な治水対策を求める決議を全会一致で採択した。

 8月25日、国土交通省九州地方整備局と県、流域12市町村長らが集まった「球磨川豪雨検証委員会」の初会合が開かれ、国交省は、ダムが建設されえていた場合、浸水被害を6割減らせたと推計されるものの、全ての被害を防ぐことはできなかったとする検証結果を示した。

 検証委の初会合後、蒲島知事は報道陣に『川辺川ダムも選択の範囲』と明言。結論の時期については『年内』 と期限を区切った。

 この知事の発言が翌日の新聞で取り上げられると、ダムを不要と訴える住民から相次いで批判の声があがった。

 「ダムは想定以上の雨で満水となり、緊急放流するから、返って危険だ。」「ダムは対策から除外されるべきだ。」「検証は雨の降り方や支流の状態を無視した結果だろう。」「ダムで何とかなるというレベルの豪雨じゃなかった」「そもそも毎秒7500トンという流量が信用できない。」等(熊本放送NEWSWEBから)

 検証結果は来年以降の治水対策の基礎となるので、この段階で全面的に否定してしまうと、まともな議論ができなくなるのではないだろうか。

 10月22日熊本放送「球磨川流域の今後の治水対策をめぐり、国や県などは今月27日に新たな協議会を設置し、ハード対策とソフト対策を組み合わせた今月27日に新たな協議会を立ち上げ、具体的な検討に着手することにしています。

 これに関連し、樺島知事は21日の会見で、支流の川辺川でのダム計画が事実上中止されて以降、10年以上にわたって検討してきた「ダムに因らない治水対策」について、工期や費用の面で実現可能性は低いとする考えを示しました。」

 蒲島知事は、2008年の「脱ダム宣言」は、「県民の意向」であったとしているが、ダムに代わる治水対策を打ち出せないままに、今年3月4選を果たし、「令和2年7月球磨川水害」にみまわれることになった。

 今年中にどのような対策が打ち出されるかは分らないが、それが熊本県民や球磨川流域住民にスンナリ受け入れられることになるか、予断を許さない状況ではないか。

 それこそ、ダムをめぐる対立が次世代にまで持ち越され、無策のままに放置される懼れもなしとはしない。

  ここで、川辺川ダム建設計画について時系列で概観してみたい。

 昭和38年8月、39年8月、40年7月、球磨川流域で3年連続の豪雨による大災害が発生。 

 昭和40年(1965)「昭和40年7月球磨川大水害」において、人吉市は市街地の3分の2が浸水、家屋の流失・損壊は1281戸、床上浸水2751戸、床下浸水が1万戸の被害を出した。

 同年7月、寺本熊本県知事は、瀬戸山建設大臣に対して川辺川に治水ダムを早急につくることを陳情。熊本県議会は、川辺川におけるダム建設等を内容とする内閣総理大臣あて意見書を可決。

 昭和41年、球磨川水系工事実施基本計画策定。

 昭和44年から建設事業が進められ、、土地収用や漁業権、水利権についての交渉などが進められた。

 平成13年(2001)12月20日、田中康夫長野県知事が県議会で「長野県にコンクリートダムは造らない」と宣言、いわゆる「脱ダム」宣言を行い、信濃川水系で4つ、天竜川水系で4つの県営ダムの建設が見直されることとなった。

 田中知事の主張は、ダムは環境負荷が大きいので、森林整備や、遊水池を各所に設置して、山林の保水力、平野部の貯水力を高めて治水対策とするというものであったが、施策が広範囲に及び、定量的具体性にも欠けるとの批判を受けると、田中は「河道内遊水池」というアイデアを持ち出して、「河道内に高さ30~40メートルの堰堤を建設し、洪水時に貯水を行う」としたが、これは実は既存の「ゲートレスダム」や「穴あきダム」の構造そのものなのである。

 平成18年(2006)7月、記録的な集中豪雨が長野県中部地域を襲い、諏訪湖・天竜川流域に水害をもたらしたが、岡谷市付近はダムによって災害を免れたことから、長野県議会は「脱『脱ダム宣言』」を可決、方針を転換した。

 同年8月、長野県知事選において、田中康夫、村井仁に敗れる。新知事、浅川の治水対策を公約。平成22年から浅川に治水専用ダム「浅川ダム」着工、平成29年(2017)完成、運用開始。

 同年11月、球磨川流域の相良村議会が「ダムによらない治水・利水の早期実現」を求める意見書を決議。

 平成19年、九州農政局と電源開発(株)が、「川辺川ダム建設事業に参画継続していくことは困難である」と表明。利水は無いということに。

 平成20年4月、蒲島熊本県知事就任、「川辺川ダムについて、有識者会議を設置して9月までに判断」

 「有識者会議」は「ダムによる治水が最も強力な選択肢であるが、ある程度の水害を許容し、河道の整備や遊水機能の活用等工夫して。ダムを造らずに水害に対応する方法もある」と提言。

 「川辺川ダム事業に関する県民の意見をお聴きする会」(八代会場、人吉会場)及び「文書などによる県民の意見の募集」を実施。八代会場は反対多数、人吉会場は賛成反対同数、文書による意見は賛成多数。

 流域12市町村の首長、議長から意見聴取。県議会から意見聴取。

 同年9月、「現行の川辺川ダム計画を白紙撤回し、ダムによらない治水対策を追求するべき」と表明。

 同年12月、水没地である五木村の生活再建対策に伴う熊本県との協議を開始。

 平成21年1月、「ダムによらない治水を検討する場」を開始(地整局長、知事、流域市町村長)

 平成21年6月、前原国土交通大臣が川辺川ダム中止を表明。

 蒲島知事が最初の選挙を戦ったとき、他の候補者は全員「川辺川ダム建設反対」主張したが、蒲島氏だけは態度を保留したまま選挙戦を戦い、その真意が那辺にあったかは分らないが、ともかく建設反対派と推進派の両方から票を集めることに成功した。

 新知事が、県議会や県民、地域住民の、いわば「総意」に推される形をつくって「ダムによらない治水」を宣言したのは、見事な作戦勝ちであったようにも見える。

 これに比べると、民主党政権が「コンクリートから人へ」のマニフェストで、八ッ場(やんば)ダムと川辺川ダムの中止を決めたのは、新政権の政治姿勢の軽薄・稚拙の印象が強められただけのことだったように思う。

「おいおい、そんなに簡単に決めて、大丈夫なのかよ」と。

 八ッ場ダムは平成6年(1994)から付帯工事に着手、工事用道路、橋脚、仮排水トンネル工事、転居する住民の代替地造成がほぼ完成し、いよいよ本体(堤体)工事が始まる段階に差し掛かっていた。

 川辺川においては「ダムの用地取得は98%完了し、水没予定地の五木村では移転対象549世帯のうち、1世帯を除いてすべてが移転。水没する道路の付け替え道路は9割が完成。かかった費用は概算事業費約3300億円の6割に当たる約2100億円に達していた。」

 八ッ場ダムも川辺川ダムも、それまでに投入された資金・資源をご破算にしてしまうのだから、随分「モッタイナイ」話である。

 (八ッ場ダムは、その後工事が再開され、今年3月31日に完成、4月1日から運用開始。)

 「代わりに国や県は、流域市町村は『ダムによらない治水』を検討。国は19年、堤防かさ上げや放水路設置などを組み合わせた10の治水案を提案した。しかし、治水安全度の目標は『20~30年に1度』とダムに及ばず、費用1兆円、工期100~200年をつぎこむ案はまとまらなかった。この間、行われた対策は宅地のかさ上げなど一部に限られる。」

(西日本新聞2020年10月26日『河辺川ダム揺れる民意・・・白紙撤回から12年』)

 2020年10月26日「くまもと復旧・復興有識者会議」(座長・五百旗頭兵庫県立大理事長)は、氾濫した球磨川流域の治水対策として『ダム建設を含む流域治水』の必要性を蒲島知事に提言。

 「ダムを排除・否定せず、全ての減災手法の有効性と限界を科学的に検証した流域治水」を求めた。

 「政策形成のプロセスで、科学的根拠を示しながら議論を進め、民意を形成していくことが重要」と指摘。

 「これらの治水策を前提として『創造的復興策』として、交通インフラの強靱化や安全な住まいと避難場所の確保に加え、森林資源を生かした産業創出や地域ブランド再生、『球磨川流域大学(仮称)』の検討などを盛り込んだ。」

 蒲島知事は、自らの責任問題を回避しつつ、まずは被災地の復興対策、来年度の防災対策、併行して中長期の「創造的復興策」を進めなければならないし、その方向に「民意」を引っ張っていく必要があるわけである。

 私は知らなかったのだが、蒲島知事の経歴が凄い。

 高校卒業後、農協に就職、派米農業研修生として21歳で渡米、ネブラスカ大学で畜産学を学び、卒業後ハーバード大学大学院博士課程(政治経済学)に入学、フィロソフィー・ドクターとなる。

 帰国後は筑波大学社会工学系教授などを経て、東京大学法学部で計量政治学なるものを教えていたらしい。

 熊本県民がt知事を誇らしく思うのも当然のことのように見える。

2020年10月11日 (日)

福井城址・北庄城址・足羽神社

 福井城址

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 「結城秀康公」像

 結城秀康(1574~1607)は徳川家康の次男。

 母は側室のお万の方(長勝院)。

 小牧長久手の戦い(天正12、1584)の講和の際、豊臣秀吉の養子(人質?)となり、九州攻めで初陣を果たした後、秀吉の命により、結城晴朝の養子となり、下総国結城十万一千石を継いだ。

 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは、下野国小山に出陣して、上杉景勝の西上を阻止、この功により越前一国六十八万石を拝領し、加賀前田家を押さえる役割となった。

 北庄(きたのしょう、現在の福井市)に入部し、本田富正に府中城(現在の武生)三万七千石、今村掃部(かもん)に丸岡城二万五千石を与えた。

 晩年は梅毒に罹患して奇矯の振る舞いが多かった。

 鼻が欠け落ちたので、木製の鼻を付けていたが、家康はその姿を忌み嫌ったと云われている。

 結城秀康の長男・松平忠直(1595~1650)は13歳で、福井六十八万石を襲封したが、この時、老臣、本田富正方と今村掃部方との間に家中を二分するお家騒動(久世騒動)が起こり、幕府の裁定により今村方は追放されることになった。

 忠直は、大坂夏の陣で真田幸村を打ち破り家康から賞賛されたが、その後は、病と称して参府を怠ったり、酒色に溺れるなどの御乱行を重ねるようになり元和九年(1623)、「国中政道も穏やかならず」として隠居を命ぜられ、豊後国萩原(大分市)へと配流された。

 ただ、菊池寛や海音寺潮五郎の小説に出てくる忠直の乱行は、必ずしも史実を反映するものではないともいわれ、名前は失念したが、ある時代小説家が、忠直は切支丹だったから追放されたとする説を唱えていたことを想い出した。

 幕府はこの年、家康の小姓だった原主水ら切支丹五十人を芝で処刑しているので、この説も結構当たっているのではなかろうか。

 丸岡城、継体天皇、笏谷石、由利公正などについては、2016年6月13日「恐竜王国・丸岡城」

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 福井神社 松平春嶽の像

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 「横井小楠寄留の地」碑

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 日下部太郎、ウィリアム・エリオット・グリフィス像

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 日下部太郎(1845~1570)は、福井藩で初めての海外留学生として、慶応四年(1867)に渡米、ニューブランズウィック市のラトガース大学に入学し、優秀な成績を修めたが、卒業を目前、病のため26歳で客死した。

 その死は大学関係者や、一般の市民に惜しまれ、大学は彼に卒業資格を与えるとともに、同校の優等生で組織されるファイ・ベーター・カッパー協会の会員として彼を推薦、その印として金の鍵を贈った。

 明治四年(1871)、日下部太郎を指導したウィリアム・エリオット・グリフィス(1843~1928)は福井藩の招聘に応じ、藩校「明新館」の理化学の教師として来福し、多くの若者を育てたが、国内情勢の変化のため、わずか10ヶ月で福井を離れたが、しかしその後『皇国』という本を出版し、講演や出筆活動を通じて、アメリカにおける日本の紹介と理解に貢献した。

 昭和四十九年、福井青年会議所の人々の働きかけにより、日下部太郎とグリフィスの縁を後世に語り継ごうという気運が起こり、昭和五十七年(1982)、福井市とニューブランズウィック市は姉妹都市として提携することになった。

 由利公正像 坂本龍馬歌碑 由利公正宅跡 

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 足羽川幸橋の許

 坂本龍馬の歌「君がため 捨つる命は 惜しまねど 心にかかる 国の行く末」

 ブッキラボウで、うまい歌ではない。

 しかし、坂本龍馬という人物の真骨頂が何よりもその散文的精神=リアリズムにあることに思いいたれば、これはこれで龍馬らしい歌と言えるのでは無かろうか。

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 北庄(きたのしょう)城址・柴田神社

 北庄城は天正三年(1575)、柴田勝家によって築城が開始され、九層の天守閣を持ち、信長の安土城をも凌ぐ日本最大級の城だったと云われている。

 柴田神社

 福井県福井市中央

 主祭神は柴田勝家、妻である市が配祀される。

 市の三人の娘を祀る三姉妹神社もある。

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 お市の方、浅井家三姉妹(茶々、初、江)、柴田勝家

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 当神社では、戦国一の美女、お市の方にあやかって「美(もて)祈願」を受け付けています。

 美を「モテ」と呼ばせる辺りに、中々の工夫が窺われます。

 モテ祈願用紙に、願い事(「誰々さんにモテたい」、「職場でモテたい」、「お目々パッチリになりたい」等々)を書いて、拝殿でお祓いを受けた後、お市様に拝礼。

 男性も可。 

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 境内には、石垣の礎石などが残っています。

 舟橋の鎖

 北陸道が九頭竜川と交わる所に、柴田勝家公が天正六年(1578)に渡したと伝えられる舟橋に用いられたものらしい。

 鎖の鉄は「刀さらえ(刀狩り)」で集められたのだという。

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 黄金舎跡 橘曙覧記念文学館 愛宕坂

 足羽山へ登る愛宕坂。石段は笏谷石(しゃくたにいし)。

 笏谷石は、足羽山北西麓の笏谷地区で採掘されたデイサイト軽石火山礫凝灰岩で、越前青石とよばれることも。

 橘曙覧(たちばなあけみ)は、天保十年(1839)28歳から九年間、ここに住居を構えた。

 石垣に山吹の花が咲き誇っていたことから「黄金舎(こがねのや)と称したと伝えられている。

 「たのしみは 百日(ももか)ひねれど 成らぬ歌の ふとおもしろく 出できぬる時」

 「たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどひ 頭(かしら)ならべて 物をくふ時」

 「たのしみは 朝おきいでて 昨日(きのふ)まで 無かりし花の 咲ける見る時」

 「たのしみは 常に見なれぬ 鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きしとき」

 「たのしみは あき米櫃(こめびつ)に 米いでき 今一月は よしといふとき」

 「たのしみは まれに魚烹(に)て 児等(こら)皆が うましうましと いひて食ふ時」

 「たのしみは そぞろ読みゆく 書(ふみ)の中(うち)に 我とひとしき 人をみし時」

 「たのしみは 雪ふるよさり 酒の糟 あぶりて食ひて 火にあたる時」

 「たのしみは 昼寝目ざむる 枕べに ことことと湯の 煮えてある時」

 「たのしみは 小豆の飯(いひ)の 冷えたるを 茶漬けて物に なしてくふ時」

 「たのしみは 鈴屋大人(すずのやうし)の 後(のち)に生まれ その御論(みさと)しを うくる思ふ時」(鈴屋大人=本居宣長)

 「たのしみは 野山のさとに 人遇(あ)ひて 我を見しりて あるじするとき」

 『独楽吟』五十二首の中の幾つかの歌に見覚えはあったが、橘曙覧が福井の人だということは知らなかった。

 正岡子規は橘曙覧を評して『万葉を学んで万葉を脱し、歌想豊富なるは単調なる万葉の及ぶ所にあらず』『趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌、前に万葉あり、後に曙覧あるのみ』『歌人として実朝以後ただ一人なり』『彼を賞賛するに千言万語を費やすとも過讃にあらざるべし』と絶賛しています。

 「その本領は国学にあり、本居宣長の学風を慕って国学を志したのであった。当時の国学者にとって、歌はすなわち学問であり、少なくとも学立って歌はじめて正し、としたのである。曙覧も自覚して和歌の革新を標榜したのではなく、すべて生活を貫いてきた国学者としての気概から発したものであった。『万葉集』の誠の精神を古義神道に通じるものとして内面生活に活かし、国学の実践者として率直清新な心の歌を詠んだのである。」(『橘曙覧全歌集』(水島直文・橋本政宣 編注/岩波文庫)の解説から)

 安政五年(1858)藩主松平慶永が、井伊直弼から隠居謹慎を命ぜられ、以後慶永は、雅号の春嶽を通称として、霊岸島に幽居することとなり、この時、曙覧は、慶永の教育係であった中根雪江(靭負、ゆきえ、せっこう)から、春嶽への慰めとして、『万葉集』の中から秀歌を選進すること命ぜられ、三十六首を厳選して奉った。

 元治二年(1865)、曙覧五十四歳の春、春嶽は曙覧の陋屋を訪れ、「忍ぶの屋」の屋号を与え、自身の手記に「今より曙覧の歌のみならで、其の心のみやびをもしたひ学ばばや」と記した。

 慶応四年(1868)八月二十八日、明治改元の十日前、曙覧は数え年五十七歳で病没した。

 三子に与えた遺訓は『うそいうな、ものほしがるな、からだだわるな(だらけるな、の意)』の三箇条であった。

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 足羽神社

 御祭神は継体天皇(男大迹、オオトノミコ)と大宮地之霊(おおみやどころのみたま)五柱

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 戦災モニュメント

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  「太平洋戦争末期、昭和20年7月19日夜半、福井市に米軍機B-29、127機が飛来し、焼夷弾54トンを投下した。

 その為、市街地は95%を焼失、志望者は1576名に上った。

 当時、此の地は火災から逃れようと水場を求め集まった罹災者の内106名もの死亡者が出たとされる、旧外記様町川跡地である。

 その人々の霊を慰めると共に、戦災の悲惨な記憶を留める為、此処に慰霊碑を建立する。

       平成24年12月建立。

     外記様町 慰霊碑奉賛会。    」

2020年9月17日 (木)

長岡城址 河井継之助記念館 山本五十六記念館

 

 長岡駅前

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  天保十一年(1840)、十代目長岡藩主牧野忠雅に川越移封の命が下されたものの、翌年沙汰やみとなり、それを祝って花火を打ち上げたのが、長岡花火大会の始まりとされている。

 本格的な花火大会となったのは、明治十二年、千手町八幡神社の祭に、遊郭関係者らが金をだしあって、四寸・五寸・七寸をあわせて350発を打ち上げてから。

 その後花火は尺玉、二尺玉と大きくなって、正三尺玉が打ち上げられるようになったのは大正時代です。

 昭和十二年盧溝橋事件、日中戦争が本格化し翌年から花火大会は中止された。

 昭和二十年八月一日、長岡上空に125機のB29が来襲、長岡旧市街地のほとんどが焦土と化した。

 戦後の花火大会は、昭和二十二年から「長岡市戦災復興花火大会」の名称で復活した。

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 長岡城址

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 長岡城址の「アオーレ長岡」

 「平成30年長岡開府400年~次の百年新しい米百俵に~」

 二の丸跡に「長岡城址」の碑があります。

 慶応四年(明治元年、1868)五月十九日、長州、高田、加賀、薩摩藩兵等は大雨で増水した信濃川を渡河して、長岡城に総攻撃をかけた。

 長岡全市が焼け、藩主牧野忠訓、老公雪堂らは、森立(もったて)峠、栃尾、鞍掛峠(=八十里越え)を経て会津へと避難。 

 長岡藩軍事総裁・河井継之助は、城に固執するのは得策ではないとして、敗兵を栃尾に収容し再挙をはかると決して、本丸に火をはなった。

 長岡落城の直後、長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払い下げを求め、大規模な農民一揆が発生し、一揆鎮圧のため軍勢の一部を差し向けることを余儀なくされた。

 七月二十四日夕刻、長岡軍は見附を進発して、夜陰に乗じて、稲船や船橋を利用して八町沖(八町沼ともいう=長岡城の東北一里余に当る大沼沢)を徒渉し、二十五日午前五時、「長岡の人数二千人城下へ死にに来た殺せ殺せ」と大声で叫びながら奇襲をかけた(実際は600名ほど)。

 会津征討越後口総督府大参謀西園寺公望は裸足のままで高遠藩兵に擁せら関原まで逃れ、参謀山縣狂介は寝間着のままで兵を指揮して妙見まで退却した。

 敗走した新政府軍では、逃げ場を失い信濃川に溺死する者も少なくなかった。

 奇襲作戦の最中、河合継之助は新町(あらまち)口の激戦で、左膝に流れ弾受けて負傷した。

 七月二十九日朝、薩摩、長州、松代、上田藩の兵が、長岡の南と西から攻勢にでて、長岡城は再び陥落した。

 杉本鉞子「武士の娘」(大岩美代 訳/ちくま文庫)から。

「落城記念日」の前日、私はきんにつれられて、ぉ堀端へでかけました。ずっと前には、このぉ堀端の一部は高く築き上げられていたものでございますが、今そこは、青々とした稲田になっておりました。でも大部分は、なお沼地のままで、塵埃捨場になっていました。」

 「私は、丘の方に向けた眼をそのまま閉じて、いしや爺やが度々話してくれた、昔のお城の姿を思い浮かべようといたしました。石垣の上には、頑丈な格子窓をはめ込んだ白壁がつづき、城壁は、どの方向から攻め込む敵にも応戦できるように、まがりくねっていました。深い軒の上高く、角の屋根の棟の両端には、尾をぴんと立てた青銅の鯱が日光に照り映えておりました。老松が枝をはった土手の下には、「底なし」といわれたお濠の水が静かに眠り、亀甲形の石で畳んだ石壁を映していました。」

 「戊申の役後、新政府は人民が新しい制度になずめるようにと、賢く寛大な努力をされたのでありますが、長岡の人々は中々に昔のことが忘れられなかったようでありました。至尊が九重の雲の上にあらわれて俗なることにかかわり給うという事は冒涜であり、幕府が従来通りの道を歩み続ける事ができなくなりました事を日本にとって、悲しむべき事であると、ここの多くの人たちは信じておりました。」

 「明治二年五月七日は長岡城の落城の日で、その後の数年は、長岡藩にとって、誠に辛苦に満ちたものでございました。あの思い出深い五月七日を記念する催しはいつも旧藩士によって守られました。この町に移住してきた人々や、商人たちには、この記念日はただの面白い行事に過ぎなかったでしょうが、弓矢をとった身には、すたれゆく武士道への、せめてもの手向けであったのでございました。」

 「やがて太鼓の音がひびきわたりますと、父は馬上にご先祖達が従う者共を指揮し采配を打ち振り、鎧甲に身を固めた大勢の人々を引き従えて出発いたしました。一行は野をよぎり、山を登り、お社にぬかずいて後、草原に集まり、模擬戦を終わると、弓術、剣術、槍術など、武道の数々を奉納しました。」

 「私の家の召使はみな、悠久山へ見物に出かけましたが、女たちは一行の帰りを迎える準備で忙しくしていました。庭には筵がひかれ、そこここに、戦場をかたどって、三叉に汲んだ木がたてられ、それにつるした大きな鉄鍋には掻立(かきたて)汁という味噌汁がぐつぐつとにえたぎっておりました。」

 「忘れもいたしません、これが私の記憶にある最後の長岡落城の記念日でございました。翌年のこの日は大雨でしたし、そのあくる年には、父の健康がすぐれませんでした。それに、家中の方々も、段々、西へ東へと散り散りになり、記念の儀式を挙げますのものびのびになり、ついにこれが最後になってしまいました。」

 「日本が新しい世界に足場を見出そうとして悩みつづけました明治初年には、人々は唯、むやみと古いものを捨て、憑かれたもののように、新しいものにとびついてゆきましたが、父は静かに、己の信ずる道を歩んでいたのでございました。当時の最も進歩的な方々と同様に、父も日本の将来の成就すべきものについては固く信ずるところがありましたが、同時に、過去に対する深い尊敬の念を捨てることができませんでしたーけれども、この点では、あまり同感者はないようでございました」

 杉本鉞(えつこ)の父親、稲垣茂光(平助)は、長岡藩の家老首座だったが、慶応三年(1867)、河合継之助の藩政改革によって、二千石から五百石に減知され、閑職の兵学所頭取の地位に格下げられた。

 北越戦争が始まると、勤皇派の茂光は屋敷に放火して出奔、槙、九里、武など勤皇派重臣二十名の連署による、藩主助命嘆願書を西軍に提出した。

 維新後は蚕糸農家と併せ旅籠屋を営んた。

 茂光の六女であった鉞子は、兄の知人である貿易商杉本松雄と結婚するため、24歳のとき単身で渡米した。

 杉本が病死した後、帰国して、米国人に日本を知ってもらうために「武士の娘」を書きあげ再度渡米、コロンビア大学講師として数年間、日本文化を教えた。

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 河井継之助記念館

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 ガトリング砲復元モデル

慶応四年二月、継之助は横浜のファーブル・ブラントから1門3000両で2門購入した。五月十九日の長岡城の落城の際、大手門前で自らこの砲を連射した。

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 北越戊辰戦争略史

 慶応四年(1868)一月三日、鳥羽・伏見の戦い。

 三月三日、継之助、江戸長岡藩邸を整理し、ガトリング機関砲やミニエー銃数百挺を購入し、江戸を出航、函館を経由し二十八日長岡へ着く(函館で江戸で仕入れた米を売って大儲けしている)

 三月十五日、北陸道鎮撫総督の高倉永祜・副総督の四条隆平が高田到着。

 三月十六日、総督府、長岡藩参政植田十兵衛を呼びつけ、兵隊を差し出すか、または三万両の軍資金を出せと命令。総督府には越後十一藩の代表が集められたが、この命令は長岡藩にのみ下されたものだった。植田は主席家老継之助がまだ帰国していないことを理由に確答をさけた。

 四月十四日、藩士総登城。継之助は、藩主忠訓(ただくに)出席の下「三百年来の主恩に酬い、義藩の嚆矢たらん」と宣する。

 閏四月十九日、北陸道参謀の山県狂介(有朋)・黒田良介(清輝)高田到着。

 二十一日、新政府軍は、山道軍千五百人と海道軍二千五百人の二軍に分かれ高田を出発。

 二十六日、継之助、軍事総督となる。二十三小隊砲兵予備隊に編成し、摂田屋光福寺に本陣を置く。各所に警備陣を配備。

 同日、山道軍左縦隊は、芋坂・雪峠方面で会津軍・旧幕府歩兵隊(衝鋒隊)を破る。

 二十七日、松代・松本藩兵が小出島の戦いで会津軍を破り小千谷を占領、本営を置く。小出島、小千谷は会津の飛び地であった。

 二十八日、海道軍、鯨波(くじらなみ)の桑名兵を破り柏崎(桑名藩の飛び地)に本営を定める。

 五月一日、花輪彦左衛門を小千谷本営に派遣し会見を申入れる。

 二日、継之助、目付の二見虎三郎と従僕の松蔵を伴い、小千谷の慈眼寺で軍監・岩村精一郎と会談、約三十分で決裂。

 三日、継之助は小千谷会談の翌朝、前島村を警備中の三島億次郎を訪れ、会談の結果を伝えた。「もし和するなら、我を切り三万両を差し出せ、さすれば戦争は避けられる」と迫る継之助に、三島は一度は再考を求めたものの、「是非も無し。死生をともにせん」と応じた。

 摂田屋本陣で諸隊長を前に戦う事由を演説。

 四日、長岡藩開戦決定。奥羽列藩同盟に加盟。

 六日、村松・村上などの下越四藩も加盟し、奥羽越列藩同盟となる。

 十一日、朝日山争奪戦始まる。十三日、長州藩参謀代理・時山直八戦死。

 十九日、早朝、新政府軍大島・槙下方面から信濃川渡河を強行し、急襲。長岡城落城ー森立峠・浦瀬・見附・今町まで占領。藩主忠訓らは森立峠から栃尾へ避難し、八十里越から会津へ落ち延びる。河井継之助ら長岡軍栃尾郷葎谷(むぐらだに)へ退却。

・・・今町、福井、森立峠で戦闘続く・・・

 七月二十四日、長岡六百余名、百束から八町沖を潜行し、長岡城奪回作戦敢行。

 二十五日、未明、富島に上陸、長岡城目指し猛進撃し、奪回に成功。西園寺参謀は関原へ、山県狂介は小千谷方面へ退く。継之助新町(あらまち)口の激戦で銃撃され重傷。

 二十九日、新政府軍猛反撃。長岡城再び落城。

 八月五日、継之助、八十里越から会津只見村にはいる。

 十六日、会津塩沢医師矢沢宗篇宅で没する。42歳。

 九月八日、山本帯刀会津飯寺の戦いでとらわれ、翌日斬首される。

 九月二十五日、藩主・忠訓米沢で降伏。

 七月二十五日、荒町口で左膝下を打ち抜かれた継之助は、門下生外山脩蔵の手当を受けながら、「紈袴(がんこ=白い練り絹の袴をはいた武臣の子弟)は餓えて死せず、儒冠多くは身を誤る」と漢詩を吟じ、「わしも身を誤ったかな」と呟やき、大きく笑った。

 長岡城は再度陥落し、継之助は籠に載せられ、越後と会津の国境である八十里峠にいたると「八十里腰抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠んだ。

 破傷風を発症し死期を覚った継之助は、今後は米沢ではなく出羽庄内藩と行動をともにすべきこと、世子・鋭橘のフランス亡命のことなど後図を花輪彦左衛門らに託し、寅太(外山脩蔵)に、これから武士はいらなくなるから商人になれと言い聞かせた。

 継之助終焉の地である、福島県只見町塩沢にも河井継之助記念館があります。

 阿賀野川ー磐越西線の車窓から

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  長岡城が再度落城した七月二十九日には二本松城も陥落、それだけではなく新潟港も新政府軍の手に落ちている。

 →2017年10月13日「二本松城址・二本松神社」

 七月二十五日、新政府・海道軍は五隻の戦艦に陸兵二千を乗せて阿賀野川河口に上陸、新発田藩は列藩同盟を離脱して官軍に帰順、兵を水原(みずはら)へと嚮導した。

 新潟港は幕府直轄領であったが、代官が出奔したため、仙台、会津、庄内藩の重臣が会議所を設けて運営していた。

 同盟側の握る唯一の開港場で、外国商人特にプロシャ人のスネル兄弟を通じた兵器弾薬の輸入港だった新潟を失ったことは、同盟側にとって大きな痛手であった。

 退路を絶たれることをおそれた恐れた仙台、米沢、山形、上ノ山諸藩の将兵は、会津若松に通じるルートを利用して急いで本国へと引き揚げ、会津藩は孤立することになった。

 「会津藩救解派の中心であり、奥羽越同盟の盟主であった東北の二大雄藩は、この段階に於いて完全に戦意を失った、とみるべきであろう。あとは大藩なるがゆえの体面の保持と、藩内における和戦両様の角逐の収拾に、降伏まで米沢藩は一と月、仙台藩は一と月半の時間を要した。」(綱淵謙錠『戊辰落日』から)

 山田方谷と河井継之助  

 2018年のことだが、「『平成30年7月豪雨災害』で甚大な被害を受けた岡山県高梁(たかはし)市に、長岡市が職員を派遣し、『中越大震災』からの復興経験を活かした支援活動を行う」と報じられたことがあった。

 備中松山藩の藩政改革指導者・山田方谷に継之助が教えを請い、目覚ましい成果を挙げたことを理由に、高梁市を支援するという「チョットいい話」の感じのニュースだったように記憶している。

 山田方谷は農民の出身だったが、五歳のときから寺で朱子学を学び始め、家業の農家と油屋を嗣ぎながらも学問を続け、藩主板倉勝職(かつつね)から奨学金を得て京に遊学、二十五歳で、藩校有終館会頭(教授)に抜擢され、名字帯刀を許された、二十八歳で陽明学に出会い、三十歳で江戸遊学、佐藤一斎の門に入り、同門の佐久間象山とは日々論争に明け暮れたという、三十二歳で有終館学頭(学長)となった。

 嘉永二年(1849)、新藩主・勝静は方谷を松山藩元締役兼吟味役元締めに任命、方谷は藩政改革に取り組むことになり、勝静は藩士らに「方谷の言うことは余の言葉と心得よ」と宣言して抵抗勢力を牽制し、安政元年(1854)元締め兼執政に就任。

 以後藩主勝静が奏者番、寺社奉行、老中など幕閣に列して江戸詰になるたびに、役職名にも変化があったが、方谷は、慶応三年(1867)まで藩政の中心にあって、改革の手綱がゆるむことはなかった。

 下級武士に対して屯田制を導入して農地を開発させ、若手藩士と農民から志願者を募って農兵制(農民によるイギリス式銃砲隊)を導入(長州の奇兵隊は此に習ったもの)、撫育局を設置し特産品の専売制を実施、大名貸と交渉して藩の債務返済を50年延期させたが財政改革の成功で数年後に完済、蒸気船「快風丸」で大阪商人を通さず、江戸に直接で特産品を販売、信用をを失った藩札を回収焼却して兌換可能な新札を発行する、目安箱を設置して領民の意見を採用する、等々多岐にわたるきめ細かな政策を実施し、松山藩の表高は五万石であったが、二十一万石に匹敵する程の実収を挙げ、改革開始から七年で借金を返済、更に十万両の蓄えを作ることに成功した。

 幕末期には、何れの藩でも、藩政改革を試みないようなところは無かったが、備中松山藩ほど目覚ましい成果を挙げたところはなかった。

 領民は方谷を「備中聖人」と讃え、現代の経済学者は「日本のケインズ」と評している。

 安政六年(1859)、三十九歳の継之助は備中松山へ遊学し、山田方谷の教えを請い、長岡の財政改革、藩政改革、兵制改革の手本として役立てたのだった。 

 その方谷にしても安政二年(1855)「徳川幕府の 命脈はおそらく永くはない。歴然とした前兆が現れている。幕府を衣に例えるなら家康公が材料を調え、秀忠公が織り上げ家光公が初めて着用した。以後、歴代将軍が着用してきた。吉宗公が洗濯をし、松平定信公が二度目の洗濯をした。しかしもう汚れと綻びが酷く、新調しないと用にたえない状態になっている。・・・生地がボロボロだから三度目はない。」と語っていた。

 鳥羽伏見の戦いの後、藩主板倉勝静は、将軍慶喜、姫路藩主酒井忠悖、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬とともに江戸へ退却。

 新政府軍は岡山藩に、備中松山藩の討伐を命じた。

 留守を預かっていた方谷は、長州が攻め入ってきたら戦うつもりであったが、松山の領民を戦火から免れしめ、板倉家を存続させるには松山城を明け渡すしかないとの方向に藩論をまとめ、藩主勝静を隠居させ、先代勝職の従弟である勝弼(かつすけ)を新たな当主として、官軍に降伏した。

 鳥羽伏見から藩士150人が帰還すると、岡山藩は隊長・熊田恰の首級を要求、熊田は自刃して果てた。

 五月二日、慈眼寺において、継之助は軍監・岩村精一郎(高俊)に、対し「王道政治の実現」を堂々と主張したとされ、またそれが長岡市民の誇りとも成っている。

 継之助の主張ー長岡藩の藩論は真っ二つになっており、これを統一するのには時間がかかる、その間、会津に対して、帰順の説得を試みる、新政府軍は王道政治をもって幕府と東北諸藩に当たらねばならない、前将軍徳川慶喜の賊の名を除き寛典に処していただきたい、会津藩や庄内藩にも同じ扱いをしていただきたい、こちらで判断ができないのであれば、江戸の大総督府に嘆願書を取り次いでいただきたい。

 岩村は、これを受け付けず、継之助が差し出した嘆願書を振り払ったという。

 後年岩村は、この当時の自分の応対が未熟であったことを認めている(岩村は当時二十三歳)こともあって、西郷や黒田や山懸のような(二人とも海道軍)大物が相手をしていれば、長岡藩の「非武装中立」が認められていただろう、継之助の主張は必ずしも突飛なものではないとする説もあるが、どうだろうか。

 桑名藩は柏崎に六万石を持ち、越後の幕府領五万石を預かっており、会津藩は小出島、小千谷に飛び地をもっていた。

 江戸から長岡に帰る、同じ船に、継之助は桑名・会津藩兵を誘い、乗り合わせていた。

 また長岡帰着から既に二ヶ月、家老上席の継之助が藩論統一に手こずったことは確かであるが、その努力はどの方向を指していたものか。

 長岡藩が継之助を軍事総裁に任命し、藩の命運を托したのは、山道軍が小千谷を占領し、海道軍が鯨波を落としてからのことであり、継之助の「非武装中立論」が、単なる時間稼ぎと見做されたことには、無理からぬ理由がある。

 継之助は小千谷会談に臨む前に、会津藩にも使いを出して自重を頼んでいるが、会津の越後方面総督・一ノ瀬要人は、継之助の意図に疑念を抱き、部下の会津軍に新政府軍を攻撃させ、しかも戦場に長岡藩の旗指物「五段梯子」を残すということをやっている。

 会津に帰順を説得するというが、その工作を早くから続けていたならば,その言に説得力もあったろうが、この段階で急に言い出したのでは、双方の不信を招くのは、当然のことだと私は思う。

 継之助は、江戸を立つ前、牧野藩の支藩である信州小諸藩家老牧野隼之介  と酒を飲み、自分は「忠良の臣、すなわち王臣になるよりも、英雄に なる道を選ぶ」と言っている。

 他方継之助は、つねに「王道政治」を唱え続けた。王道政治とは、何よりも人民を愛し、仁慈を施すものでなければならない。

 恰好は良くないが、継之助は三万両だして(長岡藩には継之助の財政改革で十万両ほどあった)民の生活を安寧ならしめるべきだったのではなかろうか。

 継之助は懊悩したであろう。私も継之助が安易に「英雄の道」を選んだと言っているわけではない。

 森三樹三郎は陽明学について、次のようにいっている。

 「陽明学の一般的な性格について一言しておきたい。陽明学は心の絶対性を信じ、客観的な事物の理を極めずに、いきなり行動に移るという傾向が強い。いわばエンジンの馬力だけが強くて、ハンドルや運転者の眼を欠いた車のようなものである。どの方向に走り出すかは、運転者自身にもわからないことが多い。李卓吾と大塩平八郎、あるいは三島由紀夫の三人を並べてみただけでも、陽明学がいかに異質の方向に流れる可能性をもつかが伺われるであろう。」(「中国思想史 下」(レグルス文庫)から)

 幕末期ほど陽明学が鼓吹された時代はなかった。

 継之助と方谷を比べてみると、方谷の方がズッと陽明学の理想である「知行合一」に近い位置にいる。

 継之助は「才あれど徳なし」のような感じで、どうも山っ気が多すぎたように見えてならない。

 山本五十六の言葉                        

 「山本五十六の言葉」(稲川明雄/新潟日報事業社出版)から。

『やって見せ 説いて聞かせて やらせてみ 讃(ほ)めてやらねば 人は動かぬ。』

 山本五十六の言行録のなかでも最も人口に膾炙する言葉。

 五十六は「仕事を教えるのでも、讃めてやると云うことが、秘訣のようであります。讃めると云うことは馬鹿な奴をおだてると云うことではなく、共に喜ぶことなのであります」と注釈を加えています。

 疑問の余地無き正論や高邁な議論を言葉を振りかざしてみたところで、人は動くものではない。

 実践家であり、現実主義者である山本五十六の面目が躍如するフレーズです。

 どういう場面で発せられた言葉かは分からないが、観念論や理想論に陥りがちな若い部下をたしなめる意味合いがあったのではないだろうか。

 『人生の究極は真たるべく、之に達するは誠のみ。』

 『誠は明(あきらか)なり。』

 五十六は、明治天皇御製「人の世に立たむ教えはあまたあれど、誠一つのほかなかりけり」や「誠即明」と揮毫することを好んだ。

 また東郷平八郎の座右銘「終始一誠意」を、五十六も自らの心の中心に置いたといわれています。

 「誠即明」を説明して、五十六は「人の心は鏡のようなものだ。鏡は明である。誠意には誠意がうつる」といっています。

 二、二六事件の将校たちに愛唱された「昭和維新の歌」の歌詞には「信ずるものはただ誠」とあった。

 陽明学では誠によってのみ真に至ることができるといっているのに、「昭和維新」では、「信ずる」すなわち「真とする」ものは「ただ誠」というのだから、主客が逆転してしまっている。

 山本五十六の「誠」が、主観的で偏狭な正義感情や心情倫理の絶対化とは無縁のものであったことを私は願う。

 『常在戦場』

 牧野家には『 参州牛久保の壁書十八ケ条』『 侍の恥辱十七箇条 』というものがあって、質実剛健な三河武士の精神を鼓吹していた。

『壁書』の第一条に『常在戦場の四文字』とあり、五十六も軍人の心得として、この言葉をよく挙げたといいわれている。

 高野五十六は、海軍大学校時代に、旧長岡藩の筆頭家老だった山本帯刀の名跡を継いで養子となり、高野姓から山本姓になった。

 戊辰戦争の後、山本家は改易廃絶となったが、明治16年に名跡の復活が許され、山本家の再興は旧藩士らの悲願となっていたのである。

 五十六が海軍省軍務局勤務となり、昭和五年一月から始まったロンドン海軍軍縮会議の全権委員随員となったとき、五十六は「僕は、河井継之助先生が、小千谷談判で、天下の和平を談笑の間に決しようとされた、あの精神で行ってくるつもり」と語った。

 次ぎも有名な言葉。

 『 苦しいこともあるだろう。いいたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である。』

 山本五十六は、航空隊、艦隊をあずかると、士官・兵等に猛訓練を課し、為に下士官・兵に軋轢が生じ、制裁が行われることがあった。

 五十六は、これを憂慮し、軍艦のトイレに貼って兵に見せたといわれている。

『衣食住のことで文句を言うんじゃない。とるに足らないことだ。男子には大目的を貫徹することが一番で、それ以外は枝葉末節だ。』

 『女の子供からチヤホヤされたりして、有頂天になるような人間では、とても天下の大事を託すに足らず。考えよ。』

 『人は真剣になると、自然に口数がすくなくなるものだ。多人数、集まったところでも、真剣の気、漲(みなぎる)るときは、満堂寂として、人のざわめきさえもなくなる。 国のなかでも同じこと、報道など、静かに真相を伝えれば、それで十分だ。太鼓をたたいて浮き立たせる必要はない。 広報や報道は絶対に嘘を云ってはならぬ。 嘘を云う様になったら、戦争は必ず負ける。』

 「昭和17年3月なかばごろ、ある夜に幕僚休憩室に4,5名の参謀と長官が談笑していた際、話が軍艦マーチ入りの報道に及んだところ、今までにこにこしていた山本五十六の顔が急に不快になって、このようなことになったという。」

 『国大なりといえども戦いを好めば必ず亡ぶ。天下安といえども戦いを忘れなば必ず危ふし』

 『百年、兵を養うは、国家の平和を守護せんが為である。』

 『米国人は正義感が強く、偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である。特に科学を基礎において学問の上から割り出しての実行力は恐るべきものである。 然も世界無比の裏付けのある資源と工業力があるから、米国の真相をもっとよく見直さねばいけない』

 『 米国の科学水準と工業力をあわせ考え、また、かの石油のことだけとってみても、日本は絶対に米国と戦うべきではない。』

 『世に成敗を問わず全力を尽くすといふ語(ことば)がある。』

 『勇戦奮闘、戦場の華と散るらんは易し。誰か至誠一貫俗論を廃し斃れて已むの難きを知らむ。』                                         

 『敵は敢えて恐れざるも、味方には恐れ入ることもあり。世相紛々といふべきか。』

 『俺が殺されて、国民が少しでも考え直してくれりゃあ、それでもいいよ。』

 『あと百日の間に、小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候。椰子の葉陰より。』

 『人間は淋しさを味わえる様にならぬと駄目だネ。』

『ゴムをいっぱいに引っ張り、伸びきってしまったら、再びゴムの用をなしませぬ。国家としても緊張するのは大切だが、その反面には弾力性を持つ余裕が無ければならぬ。』

 『一死君国に奉ずるは素より武人の本懐のみ、豈戦場と銃後とを問はんや。勇戦奮闘戦場の華と散らんは易し。誰か至誠一貫俗論を拝し斃れて已むの難きを知らむ』

 『述志』から。

 昭和十三年末、陸軍の側から、日独伊三国防共協定を強化し、三国同盟に発展させる計画が提出された。

 昭和天皇がこの同盟案に否定的であることを知った、米内光政(海軍大臣)・山本五十六(海軍省次官)・井上成美(軍務局長)は、これに猛然と反対した。

 この頃逮捕された右翼の斬奸状に、平沼騏一郎(首相)、松平恒雄(宮内大臣)、池田成彬(近衛内閣蔵相)らとともに山本五十六の名前があった。

 山本は海軍次官として、定期的な記者会見で、海軍の立場を詳しく説明したので、「海軍の中で三国同盟に反対している張本人は山本である」と信じられるようになっていた。

 山本は暗殺を覚悟し、昭和十四年五月三十一日「述志」と題した遺書をしたため、次官室の手文庫にしまっておいた。

 山本五十六記念館

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 新潟県長岡市呉服町

 生家跡のある山本記念公園のちかくです。

 入り口玄関脇右側の楓は「山本元帥御遺愛の唐楓(とうかえで)」

 五十六が鎌倉の海軍次官官舎に住んでいたときに買い求め、のち南青山の自宅に移されて、大切に育てられたものです。

 旧山本邸は、都市開発で取り壊されたが、この楓は有志の尽力で、丹念に手入れされ、平成22年に山本五十六記念館に寄贈されたものです。

 記念館には、山本五十六の遺品、写真、書簡などがある。

 ブーゲンビル島で撃墜された一式陸攻の主翼の一部、座席などもある。

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 名将か?知将か?凡将か?愚将か?

「山本五十六は長岡が産んだ最高傑作である」と云われている。

 山本五十六という人物に、「長岡の風土が」色濃く反映されていることは疑うべくもない。

  長岡中学時代、漢文の教師が、生徒全員の将来の志望を尋ねた折りに、五十六は「一生に一度、世界をアッと言わせるようなことをしてみたい」と答えたという。

 連合艦隊司令長官就任直後、祝いにかけつけてきた郷里の後輩に、山本は「旧長岡藩から、長岡中学校から、長岡社から、大日本の連合艦隊司令長官が出たことを君は胸においてくれるだろうね」といった。

 昭和十六年四月、郷里の友人にあてた手紙「又本年中に万一日米開戦の場合には、『 流石(さすが)五十(いそ)サダデガニ 』といわるる丈の事はして御覧に入れ度きものと覚悟致居り候。」

 五十六は、刻苦精励のひとであり、勉強熱心で国際的視野を持ち、小柄ではあったが体力・胆力に優れ、ひとなみ外れた勇気、忠誠心を備えた、まさに武人そのものであった。

 部下に対する思いやりが深く、「赤城」艦長時代には訓練中に帰還が遅れたパイロットがあると、いつまでも艦橋に立ち尽くした。手帳に戦没した部下の氏名を書いて密かな供養をかかさなかった。

隠し芸や趣味は多彩で、麻雀、花札、将棋、トランプ、チェッカーなど勝負事が大好き、宴会で逆立ちや皿回しを披露して喝采を浴び、浪花節や軍歌、唱歌を唱ってみせ、、和歌は玄人はだしと言われた。

 妾を二人もっていたが、これも大将の「人間味」の現れとして、あまり悪いようには言われなかった。

 ある人は「面白い人」と言ったが、「ヤクザみたいな男」だという者もいて、「お飾り型」「御神輿型」「包容型」「人徳型」「人格円満型」が主流の日本のリーダー像のなかで、山本五十六は、際だって突出したキャラクターの持ち主なのであった。

 しかし、南雲機動隊がミッドウェーに向けて出撃したその日に、愛人の河合千代子を呉に呼んで旅館で数日ともに過ごしたとか、三週間ばかり南方へ出張するとの情報が、千代子を通じて新橋芸者に知れ渡っていたなどというのは、いくらなんでも酷すぎるように思う。

 また、マレー沖海戦の際、「長門」作戦室で、「一隻撃沈、一隻大破」か「二隻撃沈」かで、作戦参謀・三和義勇(よしたけ)大佐とビール十ダースを賭けて興じ、電信室から「またも戦艦一隻沈没」の報が伝えられると、航空参謀が「長官、さあ十ダース頂きますヨ」と弾んだ声を挙げ、山本提督は顔を綻ばせ「ああ十ダースでも五十ダースでも出すよ、副官、よろしくやっといてくれ」と応じたというが、これも酷い話だ。

 昭和十六年十二月十日、ベトナムの基地から発進した九六式陸攻、一式陸攻85機が、マレー東方沖で、イギリス東洋艦隊旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈した。

 味方攻撃機は英戦艦の激しい対空砲火を受け、三機が撃墜され、搭乗員二十余名が戦死し、東洋艦隊司令長官サー・トム・フィリップス中将は、責任を負い艦と運命を共にした。

 敵味方の将兵たちが命懸けで戦った結果を賭け事にするとは、不謹慎どころか、一体どういう神経をしているだろうか。

  また、ミッドウェイ海戦で、空母「赤城」「加賀」「蒼竜」が米艦爆隊の猛攻を受け、次々大火災を起こしたことが、「大和」に打電されたとき「旗艦の作戦室では山本長官が渡辺参謀を相手に将棋を指している。何故にあの大事な作戦行動中、しかも空母が次々と撃沈されていくとき将棋をやめなかったのか。あのときの長官の心境は、あまりにも複雑で痛切で、私ごときの理解をはるかにこえるものだったのだろう。連合艦隊付通信長が青ざめた顔をして、空母の悲報を次々と報告にくる。この時も、長官は将棋の手を緩めることなく、『ホウ、またやられたか』の一言だけだった。」( 連合艦隊司令部上等兵曹・近江兵治郎の話)

 山本五十六という人物の「脆さ」が露呈しているようだ。

 この人物は、決定的に重要な場面において、現実から眼を逸らす癖(へき)があるのではないか。

  こういうこともあったが、概して云えば、部下とも気さくに付き合い、人情家で細かな気配りもでき、ユーモアのセンスも持ち合わせ、厳しさと暖かさを持ち合わせ、人を慴伏させるカリスマ性もあった。

 五十六の為人(ひととなり)を伝えるエピソードは数多いが、魅力的な人物であったことは確かで、心酔者が多かったというのも肯けるものがあります。

 ただここでは、人間的な魅力と、軍人としての業績とを分けー無理してでもーて考えてみたい。

 海軍航空本部技術部長、航空本部長時代に、「十八インチ砲塔の新戦艦」(大和と武蔵のこと)を計画する艦政本部に対抗して、山本は「航空主兵」論を展開、それら戦艦の建設費用を航空機や空母建造に回すべきだと主張したが、海軍首脳部は大艦巨砲主義あるいは艦隊決戦主義が大勢であったから、山本の主張が容れられることはなかった。

 しかし、山本は飛行兵の養成を図るとともに、艦上戦闘機と航空母艦の改良を重ね、航空艦隊の編成に注力し、「海軍航空育ての親」とよばれた。

 山本のリーダーシップが最も発揮されたのはこの時期のことであり、山本自身も「自分には航空本部長が一番適任だ。一生でも航空本部長でご奉公がしたい」と人に語った。

 昭和十四年八月二十三日、ドイツは日独防共協定を一方的に破り、独ソ不可侵条約を結ぶという裏切りを行い、八月二十九日、平沼騏一郎首相は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という「名言」を残して総辞職した。

 翌三十日、山本五十六中将は連合艦隊司令長官に親補された。

 米内が、山本を連合艦隊司令長官にしたのは、海軍省においておけば山本が暗殺されるかもしれないと危惧したからであるが、軍令部に勤務したことがなく、作戦についてはシロウトであり、対米戦に反対しながらも航空戦に執着する山本を、連合艦隊司令長官にしたことが、果たして妥当な判断であったかどうか。むしろ山本を海相にして、海軍の意志を明確に示すべきだったのではないか。

 九月一日、山本は和歌山県の和歌浦に入港していた連合艦隊旗艦「長門」に着任。

 同日、ドイツがポーランドに侵入を開始、三日、英仏が独に宣戦布告、第2次世界大戦が始まる。

 昭和十五年九月十七日、近衛文麿内閣、日独伊三国同盟締結、その直前、山本は近衛に、日米戦の見通しを聞かれ、「それは是非といわれれば、はじめ半年や一年は、随分と暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、まったく確信は持てません。三国同盟ができるのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います。」と答えた。

 「山本さんはなぜあんなことをいったのか、軍事に素人で優柔不断の近衛さんがあれを聞けば、とにかく一年半ぐらいはもつらしいと曖昧な気持ちになることはきまりきっていた。海軍は対米戦はやれません、やれば必ず負けます。それで連合艦隊司令長官の資格がないといわれるなら、私は辞めますと、なぜはっきりいいきらなかったか。アメリカ相手に戦って勝つんだといって自分が鍛えた航空部隊に対して、対米戦はやれないといいきることは苦しかったと思うが、あえてはっきりいうべきであった。」

 「国家が亡ぶかどうかの最大の問題だ。滅私奉公こそこのときだ。私はかねがね山本さんに全幅の信頼を寄せているが、この一点だけは同意することができない。山本さんのために惜しむ。」

 井上成美は、戦後、このように語っていた。

 山本は、連合艦隊司令長官になると、対米戦反対論はピタリとやめ、「国を負ひて いむかふきはみ 千万(ちよろず)の軍(いくさ)なりとも 言あげはせじ」との歌を詠んだという。

 戦いの覚悟を述べるのは良いとしても、客観的な戦争の見通しとしては「必敗の戦争」であると直言すべきだったのではないか。

 昭和十六年一月、山本は及川古志郎海相に「真珠湾攻撃」を提案する手紙を書いている「日米戦争において我の第一に遂行せざるべからざる要項は、開戦劈頭に敵主力艦隊を猛撃して、米国海軍と米国民の戦意を喪失して、米国海軍および米国民をして救うべからざる程度にその士気をを沮喪せしむること是なり」

 昭和十六年四月十日、第一航空艦隊(一航艦)を編成、これは空母を集中運用する世界発の機動艦隊であった。

 司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、航空参謀源田実中佐。

 昭和十六年九月十二日、山本はふたたび、日米交渉がまとまらなかったときの日米戦の見通しを近衛首相に聞かれ、「是非私にやれといわれれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧に入れます。しかし、その先のことは、まったく保証できません。もし戦争になれば、私は飛行機にも乗ります、潜水艦にも乗ります、太平洋を縦横に飛び回って決死の戦をするつもりです。総理もどうか、生やさしく考えられず、死ぬ覚悟で一つ、交渉にあたっていただきたい。そして、たとえ会談が決裂することになっても、尻をまくったりせず、一抹の余韻を残しておいてください。外交にラスト・ウォードはないといいますから」

 山本は寧ろ「存分に暴れたい」という気持ちが強くなっているようにも見える。

 近衛に日米合意を成し遂げる能力があると山本が信じていたかと言えば、否であろう。

 十月二日、アメリカは近衛が提案していた日米首脳会談を拒否。

 近衛はルーズベルトとの直接会談で合意を形成、その会談の場から直接天皇の裁可を受け、陸海軍の頭越しに解決しようとした。

 アメリカは会談には反対しなかったが、その前に事務方の交渉で実質的な合意形成がなされるべきだとした。

 盧溝橋事件への派兵決定、近衛声明(「爾後国民政府を相手にせず」)、三国同盟締結、大政翼賛会結成、南部仏印進駐と、近衛内閣でやってきたことをみれば、アメリカが近衛を信用しないのは無理もないが、近衛のほうでも、日本に先制攻撃させることで対ドイツ参戦の切っ掛を作りたいというルーズベルト(とチャーチル)の真意が全くわかっていない、想像だにしなかったのではないだろうか。

 近衛はグルー駐日大使に、命懸けで日米交渉をまとめてみせると宣言し、グルーの賛同を得ているが、日米首脳会談が拒否されるや、あっさり内閣を放り出して、今風の言葉で言えば「ヘタレ」というよりほかないのである。

 松岡洋右などは、南部仏印進駐の報を聞いたとき、涙を流して悔しがったというが、日米開戦が必至とみたからである。

  十月十二日、東条陸将が「帝国国策遂行要領(九月六日御前会議、十月下旬を期して米・英・蘭との開戦準備にとりかかる)を実行できぬ内閣は責任を負うべし、と近衛に進言。

 十月十四日、近衛は東条陸将を自宅に招き、陸軍に中国撤兵について譲歩をもとめるが、東条は日米交渉は成立しないと判断して拒否。

 十月十六日、天皇「帝国国策遂行要領」を白紙還元とする内意を東条に伝えた。

 十月十八日、近衛内閣総辞職、東条英機陸軍中将、首相・内相・陸将を兼任。

 十月十九日、柱島泊地「長門」艦上の山本は、「赤城」「加賀」「蒼竜」「飛龍」「瑞鶴」「翔鶴」の六空母による真珠湾攻撃の決意をかため、先任参謀黒島亀人(かめんど)大佐を軍令部に派遣、「連合艦隊案が通らなければ、山本長官は辞職する」といわせた。

 軍令部総長永野修身(おさみ)大将、次長伊藤整一中将、第一部長福留繁少将らは、やむなくこれを承認。

 軍令部では六月から米英蘭に対する同時作戦計画の立案を開始、具体的には「開戦と同時にフィリピン攻略→フィリピン奪回のための米大艦隊出撃→マリアナ列島線での漸減作戦→日米艦隊の決戦→米艦隊撃滅」と予想し、連合艦隊司令部のハワイ作戦に対しては「危険が多すぎる」として反対していたが、詰めの段階で自らの作戦計画に確固たる信念も無く、山本の脅しに屈したことは情けないというほかない。

 あきれたことに、ミッドウェイ作戦を認めさせるのにも、山本は同じ手を使っている。

 戦務参謀渡辺安次中佐を使って「 山本長官は、この案が通らなければ連合艦隊司令長官を辞任する、といっておられる」と言わせているのである。

 山本は夜8時から、渡辺と将棋を指すのが日課になっており、深夜に及ぶこともあったという。

 山本は人の好き嫌いがはっきりしており、先任参謀黒島亀人と渡辺安次の意見を偏重し、参謀長宇垣纏はネグレクトされた。

 黒島は変人・奇人に属するタイプで、他の参謀と衝突することも少なからずあったが、山本は彼をかばい続けた。

  十月二十四日、新海相嶋田繁太郎大将に手紙「開戦劈頭有力なる航空兵力を以て敵本営に斬込み、彼をして物心共に当分起ち難き迄の痛撃を加ふる外なしと考ふるに立至り候次第に御座候・・・艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にては見込み立たず、結局、桶狭間とひよどり越と川中島とを併せ行うの已むを得ざる羽目に追い込まれる次第に御坐候」

 嶋田は「ハワイ作戦けっこう、貴様がやってくれ」と答えた。嶋田は面倒くさかったのではないだろうか。

 十一月五日、対米交渉の最終案「甲乙二案」決定。同時に十二月初旬を期して陸海軍は作戦準備を整える、とする第二次「帝国国策遂行要領」が決まった。

 第二次「要領」は、前回遂行要領の武力発動時期を一ヶ月延ばしただけのものであった。

 「この時の日本は、経済封鎖に屈して中国から撤退するか、経済封鎖を武力で突破して、あくまで既定国策を遂行するかの選択肢しかない状況に陥っていた。」

 「中国から撤退する決断なく僻戦を主張するのは空論であり、戦争終結の目算もなく突破を主張するのは蛮勇であって、確信のある決断ができなかったのである。」

 「このような状況に追い込まれる前に、国策を転換し、政戦略をめぐらすべきであった。事ここに至っては、日本が自存自立するために必要な最小限の条件を明確にして、これを達成するために、外交、軍事を集約することであったが、遂行要領は自存自衛と大東亜の新秩序建設という両極端の目標を掲げていた。」

 五日の御前会議の直後、東条首相は天皇の意図をくんで、下僚に対し戦争の終結構想について研究することを命じた。

 十一月十五日、政府参謀本部連絡会議「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」

 日本が自給自足体制で、アメリカとの長期戦を戦い抜き、①南方作戦の主要段落②対中国作戦の主要段落(とくに蒋介石政権の屈服の時)③欧州戦局の変化(とくに英本土の陥落、独ソ戦の終末、対インド施策の成功)を好機として、アメリカに継戦意思を放棄させることによって、戦争終結の機会とし、南米諸国、スェーデン、ポルトガル、法王庁などに戦争終結の斡旋を依頼するという内容だが、どうみても単なる「アリバイ作り」の作文で、真剣に戦争終結について研究したようには思えない。

 十一月二十七日、大本営政府連絡会議は「ハル・ノート」を最後通牒と判定した。

 近衛文麿は、真珠湾攻撃の知らせを聞いて「山本五十六君は『初めの一年はどうにかもちこたえられるが、二年目からは全然勝つ見込みはない。けれどももし開戦に決定したら、軍人としてただ一心に戦うだけだ』と答えた。おそらく山本君は、開戦早々に大戦果をあげるから、あとは政治家がなんとか始末をつけてくれというつもりだったのだろう。」ともらした。

 「正月に新年の挨拶のために宮中に行ったんだ。するとね、枢密顧問官の老人までがのぼせあがってしまって、『近衛さん、惜しいことをしましたね。あなたが首相をやめなければ、この大戦果の主人公として、みんなからほめられたでしょうに・・・。いや、惜しいことでした』というんだ。あの老人達は、このままずっと勝ち続けていくと信じているのでしょうかね。来年の正月には、どんな顔をして挨拶するのか、みものですね。」

 近衛は、随分と気楽なことをいっているが、要するに政治は他人事なのである、どうしようもない無責任男なのだ。

 自分で自分に惚れ込んだ、アホバカな政治家ほど始末に困るものは無い。

 戦後歴代首相の中で、近衛文麿に最も類似するのは、あのノートリアスなルーピー・鳩山由紀夫である。

 山本が及川海相に、真珠湾攻撃を提案したと同じ時期の昭和十六年一月、井上成美航空本部長は「新軍備計画論」を具申した。

 「航空機の発達によって主力艦隊同士の決戦は起こらず、敵の戦艦が何隻あってもこちらに十分な航空兵力があればすべて撃沈できる。また空母は運動力があって使用上便利であるが、脆弱であるため、不沈の陸上基地を使用する基地航空兵力が航空兵力の主体となる。」

 「日本がアメリカを屈服させることは不可能であるが、アメリカは日本本土を占領することも可能であり、作戦軍の殲滅も、海上封鎖により日本の使命を制することも可能である。また日米戦は持久戦争の性質を帯びて基地航空兵力が国防兵力の主力になるため、太平洋に散在する島々は非常に大切なものとなる。これらの基地の争奪戦、すなわち上陸作戦と対上陸防御戦が主作戦になる。また、日本が生存して戦争を継続するためには、海上交通の確保がきわめて重要である。」

 「このような戦争方式の変化と日米戦に対応する日本の戦略は、即戦即決の短期戦は成立しないため、まず日本を不敗の地位に置いて持久戦に耐えることができる準備をしておくというものであった。このため、軍備は次の三点を主眼に整備する。」

 「第一は、基地の要塞化を早急に実施すると共に、戦艦、巡洋艦を犠牲にしても基地航空兵力を優先して整備充実する。第二は、日本が生存して戦いをつづけるための海上交通の確保に必要な兵力を充実する。第三は基地防御、通商保護、攻撃のいずれにも使用できる潜水艦を充実する。」

 「この井上の思想は、戦争形態、日本の国力、地政学的条件の違いを正しく認識した上で、日米戦争の様相を的確に把握していた。その戦略は、まさに戦争終結構想の自給自足体制を確立して、長期間の持久戦争をたたかいぬく思想に適合するものであった。」

 (『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐/文春新書)から)

 井上は珊瑚海海戦(昭和十七年五月)で、第四艦隊司令長官であったが、その指揮ぶりは「またも負けたか四艦隊」「頭が良すぎて戦がへただ」「腰抜け」「バカヤロー」などと酷評された。

 井上は、極めて頭脳明晰で優秀な戦術家であったが、その言動には、そこはかとなくシニカルな気分が漂っており、現場向きの人ではなかったようである。

 山本の構想は、攻勢に次ぐ攻勢をかけて米海軍兵力をつぶしてゆき、昭和十七年十月頃にハワイを攻略し、米国の戦意をうしなわせて講和を結ぼうという短期決戦主義である。

 山本が昭和十七年中に講和に持ってゆきたいと考えたのは、日本に十数倍のアメリカの工業力により、米海軍兵力が到底太刀打ちできないほど強大にならないうちに、カタをつけなければならないからである。

 井上は、即戦即決のようなことがいうべくしておこなわれないから、不敗の地位を確保して、持久戦に耐える準備をし、双方新しい手がなく厭戦の風潮になったときに講和するという長期持久戦主義である。

  ワシントン会議で、主力艦の保有比率が対英米6割に抑えられたことを受け、大正十二年改定「帝国軍ノ用兵綱領」で、海軍は邀撃漸減作戦(InterceptionーAttrition Tactics)を採用。

 具体的には「東洋所在のアメリカ艦隊を開戦初頭に撃破し、フィリピン・グァム攻略後は、太平洋を横断して来航するアメリカ艦隊を、潜水艦・航空機および水雷戦隊の夜戦によって急襲し、逐次撃破し、勢力の漸減に努め、機を見て決戦により撃破する」というものです。

 井上の持久戦論も邀撃漸減作戦の延長上にあるもので、合理的に考えれば、これ以外に取るべき方策はない。

 真珠湾では、戦艦、巡洋艦、駆逐艦など19隻が、沈没・転覆・擱坐・大破したが、戦艦8隻はいずれも旧式戦艦であり、そのうち再起不能となった戦艦は「アリゾナ」と「ホクラホマ」だけであって、あとの6隻は修理して、サイパン、レイテ、沖縄戦で艦砲射撃に使われたというのだから、アメリカの工業力には驚き入るというほかない。

 国民は真珠湾攻撃の「大戦果」に熱狂したが、「米国海軍及び米国民をして救うべからざる程度にその士気を沮喪せしむる」「彼をして物心ともに当分起ち難き迄の痛撃をを加える」という作戦目的からすれば、明らかに失敗であると言わねばならない。

 もっとも、伝統的な迎撃作戦によっていたら、開戦後、無傷でフィリピン方面の救援に来るだろうから、わが空母機動部隊は常にそれに備えて待機せざるを得ず、南方作戦に影響がでる、米艦隊の西太平洋を遅らせたのだから、真珠湾攻撃は大成功だったのだと説く者もいる。

 「しかし、山本は開戦初頭に米艦隊主力を撃滅してアメリカの継戦意思を喪失させるという短期決戦を追求しながら、『東亜の要衝に占拠して不敗の地歩を確保』するという長期持久戦の思想も混在させており、その思想自体にも混乱があった。」

 「海軍は、開戦初日に真珠湾のアメリカ太平洋艦隊主力を撃滅したが、戦争は短期間で終結することなく、長期持久戦がはじまったにすぎなかった。しかし、山本長官は第一段作戦終了後も、アメリカ艦隊との決戦を求めてFS(フィジー、ニューカレドニア、サモア)作戦、ミッドウェイ作戦、AL(アリューシャン)作戦、ガダルカナルと、持久戦の地域的範囲から逸脱した作戦を強行して、戦力を消耗させていった。」

 「戦争指導上の混乱は陸軍にもあった。第一段作戦終了後は、陸軍も守勢的戦略態勢に移行してこれを強化すべきであったが、初戦の勝利に幻惑されて攻勢的戦略態勢をつづけた。昭和十七年二月上旬から三月初め頃に、ハワイ、オーストラリア、インドの攻略が検討された際、陸軍は当初これらの作戦に反対したものの、結局はポートモレスビー攻略、フィジー、サモア、ニューカレドニア攻略に同意するように戦争指導の要則から逸脱していった。」

 「田中新一第一部長は第二段作戦の候補として、シベリア攻勢、重慶作戦、インド攻略戦、セイロン攻略戦などを考えていたし、東条首相は『この調子なら・・・オーストラリアまでも容易に占領できると思う。この時期に和平など考えるべきではない』として、和平工作を始めるべきだとした東久邇宮稔彦防衛司令官の意見をはねつけていた。」

 「このように陸海軍ともに、眼前の戦局の好調さに幻惑されて、戦争指導の目的を忘れ、攻勢終末点をはるかに逸脱した作戦を考えるという、戦争指導の拙劣さを露呈した。」

 昭和十七年における海軍機の生産予定は、日本の4000機に対して、アメリカは47800機であった。

 昭和十八年の予定は、日本が8000機、アメリカが85000機であった。

 ミッドウェイの後に、日本海軍に残る正規空母は「瑞鶴」「翔鶴」だけとなり、米海軍には「エンタープライズ」「ホーネット」「ワスプ」「サラトガ」の4隻が残っていた。

 海軍は、あわてて正規空母(攻撃機を載せる)「大鵬」「信濃」や、補助空母(潜水母艦や商船改造)の建造に乗り出したが、新しくつくられた空母のほとんどが、沈められるか復員輸送につかわれただけであった。

 ミッドウェイ海戦以降、味方航空機によって撃沈された米正規空母は「ホーネット」のみ、戦艦は一隻もない。

 山本の「航空主兵」論は、「空母の脆弱性(井上『新軍備計画論』)」と何よりも、アメリカの危機対応能力と工業力とを過小評価したものであった。

 「航空主兵」に拘れば拘るほど、我が方が不利に陥る羽目になってしまった。

 戦後75年を過ぎた今日でも、日本海軍は「大艦巨砲主義」で負けた、「航空主兵主義」なら勝てた、と思い込んでいる人がいるが、これは迷信でしかないのである。

 日本海軍の人事には三つの流れがあった。

 軍政系(海軍省)、軍令系(軍令部)、艦隊系(現場)である。

 軍政、軍令の両系、その中でも海軍省軍務局、軍令部第一部(作戦)に進むのが「出世街道」と見なされ、艦隊系は、駆逐艦、巡洋艦、戦艦と艦型は変わっても、ひたすらな海上生活で、「車引き」と呼ばれていた。

 山本五十六は、巡洋艦「五十鈴」、空母「赤城」艦長、海軍大学校教官、第一航空戦隊司令官を経た後、海軍省軍務局員、第一航空戦隊司令官、海軍省事務局員、二回の米国駐在武官(形の上では軍令部の管轄)、ロンドン海軍軍縮会議全権委員随員、海軍航空本部長、海軍次官などの経歴の後に連合艦隊司令長官となった。

 軍令部の経験が無いためかどうかは分らんが、これも多くのエピソードが物語るところであるが、戦略や作戦指揮において、山本はあまりにも杜撰(ずさん)であった。。

 「純粋に軍事的効果を基礎にして考えるとき大将の戦略はまことにスキが多い。プロとはいえない。真珠湾攻撃にせよ、ミッドウェイ海戦にせよ、結局は日本海軍に都合の良い状況を求め、それにすがって計画をたてている。あるいは、もともと非力な日本海軍としては我に好都合な状況以外では勝算は望めないからだともいえる。」

 「だが、そうだとしても、山本大将の戦略は、その特性が物語るように、時間的にも空間的にも性急さが目立つ上に、非軍事的要素が強い『政治的』戦略といえるのではあるまいか。効果は、ミッドウェイ作戦に顕示されている。」

 「政治的」とは、味方の士気の高揚や、敵の戦闘意欲喪失を狙ったパフォーマンスのことを言っているのである。

 「ミッドウェイ作戦では、ミッドウェイ島攻略と敵機動部隊撃滅という二つの目的が与えられたが(『ミッドウェイ島の攻略に重点をおき、敵艦隊出現せば、鎧袖一触、いっきょにこれを撃滅する』)、両者は質を異にする作戦である。敵機動部隊との戦いならば行動は隠密にせねばならず、かといって、上陸作戦は姿をかくしては行えないからである。しかも、敵機動部隊はミッドウェイ島攻略後に、ハワイからかけつけるものと予想した。」

 山本は南雲に「ミッドウェイ占領よりも米機動部隊殲滅が真の目的だ」とハッキリ伝えておくべきだったが、南雲や幕僚と綿密な作戦計画の打ち合わせが成されることはなかった。

 山本は自分の心から思ったことを人に納得させるまで説明して相手に理解してもらおうとはしない性格だった

 「ここに目標の不明確化と作戦の柔軟性喪失がみられ、またアリューシャン作戦までつけ加えたことによって、兵力の分散という兵理の最も戒めるマイナス効果も生んでいる。」

 その後、ジョンストン島、パルミラ両島を攻略して、ハワイ占領まで考えていたというのだから、うぬぼれ慢心もここに極まったというべきか。

 「その意味では、ミッドウェイ作戦は戦略的に見る限り、みずから招いた敗北というべきだ。」(『指揮官 上』(児島襄/文春文庫)

 南雲一航艦司令長官、草鹿参謀長、大石先任参謀、源田航空参謀を引見し、「『大失策を演じおめおめ生きて帰れる身に非ざるも、只復讐の一念駆られて生還せる次第なれば、如何(どう)か復讐出来るよう取りはからって戴き度(たく)』・・・長官簡単に、『承知した』と力強く答へらる。両者共に真実の言。百万言に優る。」(宇垣纏連合艦隊参謀長)

 「機動部隊が期待にそえなかったことはわれわれ一同の責任はまさに死に値するが、できることなら現職のままいま一度陣頭に立たしていただきたく、長官の特別の斡旋をお願いする旨をのべた。山本長官は終始黙々として聞いておられたが、その眼底に涙が光のをみて、私もまた涙が流れるのをどうすることもできなかった。」(草鹿参謀長)

 山本が、南雲、草鹿、大石、源田の責任を追及しなかったのは、彼らの責任を追及していけば、当然山本の責任に至ることになるからだ、という見方が有力である。

 「指揮官の任務のひとつは、また、責任の所在を明らかにすることである。人事は海軍大臣の管轄ではあるが、明白な失策を部下が行ったと認められるときは、その責任を追及すべきであり、さらにその責任が我が身に及ぶ場合は、自分も責任をとらなければならない。」

 「太平洋戦争中、米軍では二十人以上の将官ががクビになった。ほとんどの理由が戦意不足である。サイパン攻略戦の真っ最中、司令官H・スミス中将は師団長R・スミス少将の解任を上申して実現させた。理由はただスミス師団の前進速度がおそいというだけだったが、中将は頑として主張した。『一人の不適当な指揮官は千人の損害を招く』と。」

 対英米蘭開戦のとき連合艦隊司令部の参謀は、12人いたが、砲術参謀、潜水参謀、情報参謀というものがなかった。

 これも「航空主兵」主義の表れと言うことかも知れないが、情報参謀を欠くというのは、山本の情報軽視の姿勢を表わすものである。

 作戦が優先的で、情報と兵站が軽視されるのは、日本陸海軍の通弊であるが、山本五十六の場合、特にこの傾向が酷い、ほとんど粗雑というべきであろう。

   ミッドウェイ開戦前日の、六月四日夜、南雲艦隊後方300浬にあった「大和」の敵信班は、ミッドウェイ北方海面に敵空母らしい呼び出し信号を発見、ところが「無線封止中でもあり、また一航艦は連合艦隊より優秀な敵信班を持ち、しかも敵に近いので当然「赤城」もこれを採っているだろうから、とくに知らせる必要はあるまい」という意見がでて、「赤城」にこの情報が届くことはなかった。

 米機動部隊が既に、ミッドウェーの北東330浬の地点で待ち伏せしているのに、連合艦隊司令部は「赤城」もこれを分っているはずだという不確実な憶測から機動部隊に知らせず、「赤城」のほうではミッドウェイを爆撃しても、ハワイから期待通りに空母が出動してくれるだろうかと心配している、滑稽というのか、情けないというべきか。

 六月五日五時三十分の米空母発見の報に続く攻撃命令も、黒島先任参謀の「機動部隊には搭載機の半数は艦船攻撃に待機させるように指導してあるから、いまさらいわなくてもいい」という意見で、「赤城に」発信されることはなかった。

 山本長官の攻撃命令が出ていれば、山口多聞指揮下の艦爆が敵空母に向けて発艦した可能性があったわけだから、黒島は死ぬまでこの時のことを悔やんでいたという。

 現代では交通、工場、建設現場の事故の90パーセントは「ヒューマンエラー」に起因すると言われている。

 「ヒューマンエラー」とは「~だろう」「~なはずだ」といった独りよがりな憶測で安全確認を怠ること、いわゆる「うっかりミス」のことをいうのである。

 山本司令部は、選りすぐられた作戦のプロフェッショナルが集まってるはずなのに、どうしてこうも決定的な場面で「うっかりミス」を繰り返すのか、不思議なくらいである。 

 「大和」が通信をためらったのは、自分の位置が敵に知られ潜水艦などに狙われることを恐れたからであるが、それなら最初から地上基地に連合艦隊司令部を置くべきで、中途半端な位置に「大和」を置くべきではなかったのである。

 ニミッツは常にハワイに司令部をおいて、全軍を指揮していた。

 大西瀧治郎中将は、山本が「大和」にしがみついて、「大和」を活用しないことに批判的であった。

 柱島泊地には全国から、「山本長官へ」といって肉や酒肴、特産品が贈られてきた。

 昼は山本と参謀の会食で、軍楽隊のクラシックや軽音楽の演奏付で、フルコースの仏蘭西料理であった。

 そこで、艦隊の将兵たちは「大和」のことを、「大和ホテル」とか「大和御殿」と呼んでいた。

 大西瀧治郎が山本を訪問した際、長時間待たされるたので、無断で長官室に入室したところ、莫大な慰問品、内地からの名品などに囲まれた山本が、せっせと返礼の手紙を書いていたということがあったらしい。

 大本営参謀辻政信が、ガダルカナルに置き去りにされた将兵への補給を要請するため、トラック島の「大和」に山本を訪ねたとき、夕食に、黒塗りの膳にビール、鯛の刺身、鯛の塩焼きなどが並んでいたので、辻はあきれかえったという。 

 第二師団の第二回総攻撃が失敗し、ガ島攻略の見込みがなくなったのは十月二十六日のことだったが、軍令部がメンツを捨て、ガ島奪回方針を変更し、放棄撤退が決定されたのは十二月三十一日のことであった。

 昭和十八年三月、山本は、再建なった第三艦隊の母艦飛行機隊のすべてをラバウルの陸上基地におくり、基地航空部隊の飛行機隊と合せて、ソロモン群島と東部ニューギニアの敵艦戦と飛行機を撃破する「い」号作戦を計画した。

 山本と参謀たちは、飛行機隊の出撃を、白い第二種軍装を着て、帽子を振りながら、一機一機見送った。

 大西瀧治郎は、このような山本のパーフォーマンスを忌み嫌っていたという。

 大西瀧治郎は「特攻の父」とよばれて、あまり評判が良いとは言えないが、「その肝甕のごとく、思想は周密かつ深刻であり、しかも全然無私であった。国家のために何が最善であるかということが 、その判断および行動の基準をなしていたように思われる。」(源田実)

  ハワイ真珠湾攻撃は、山本五十六が、第十一航空参謀長の大西少将に命じて計画立案させたものであったが、大西は作戦行動の秘密保持の困難さから「敵に大なる打撃を与え死ぬのは玉砕であるが、事前の研究準備を怠り、敵の精鋭なる兵器の前に、単に華々しく殺されるのは瓦砕」とし、作戦の実行には最後まで反対であった。

 ミッドウェイ作戦には終始、否定的な態度をとった。

 「大胆、緻密、無私」という指揮官に必要な資質に於いて、大西は遙かに、山本を凌駕しているのではないか。

 ミッドウェイ海戦の戦果は大本営発表によれば「米航空母艦エンタープライズ型一隻及びホーネット型一隻撃沈、彼我(ひが)上空に於いて撃墜せる飛行機百二十機、我が方の損害、航空母艦一隻喪失、同二隻大破、巡洋艦一隻大破、未帰還飛行機三十五機」であった。

 国民はこ、れを我が方勝利と受け止め「どこまで勝ったら気ががすむのかなあ」などと言って、大いに沸いた。

 軍令部は天皇にも空母四隻喪失の大敗北だったことを知らせなかった。

 山本は常々、大本営発表はいいことも悪いことも、真実を発表すべきであると言っていたが、ミッドウェイ海戦の大本営発表については口をつぐんだ。

 ミッドウェイ海戦の真相が暴露されたら、開戦の英雄の評判はガタ落ち、海軍の威信も失墜したであろうが、永野軍令部総長も、嶋田海相もそんなことは望まなかった。

 「い」号作戦は、昭和十八年四月二日に始まり、四月十六日に終結(中止)が下令され、「艦船の撃沈は巡洋艦1、駆逐艦2、輸送船15隻、大小破が輸送船8隻、飛行機は不確実機を含めれば134機を撃墜、あるいは撃破」するという「大戦果」を挙げ、連合艦隊には「非常に満足に思う旨連合艦隊司令長官に伝えよ。尚、ますます戦果を拡大するように」という天皇陛下のお言葉が軍令部総長を通じて伝えられた。

 しかし「連合軍の実際の損害は、撃沈されたのは駆逐艦、海防艦、タンカー、輸送船が各1隻で、輸送船1隻が擱坐、撃墜・撃破された飛行機25機という『僅少な損害』だった。飛行機ではむしろ日本側のほうが損害は多く、零戦18機、艦爆16機、一式陸攻9機、合計43機に登っていた。」

 「日本側の戦果報告は明らかに誇大だった。それは搭乗員たちが艦船が煙を上げれば『撃沈』『大破』と報告し、さらに同一艦船を別の搭乗員がまた『撃沈』『大破』としたために、戦果はネズミ算式にふくれあがっていったのだ。」

 「加えて指揮官や幕僚達もなんらチェックをせず、足し算を繰り返して『大戦果』を作り上げていたのである。そして山本長官もその誇大戦果を素直に信じ、前線視察をしてからトラック島に引き揚げることにしたのだった。」(『山本五十六の真実 』平塚柾緒/河出文庫)

 「昭和十九年半ば以降、全く勝算が亡くなっていた戦争を、各種の理由を設けて続けてきたのはなぜか。多くの指導者たちにとっては、戦争を続けることの方がそれをやめることよりもやさしかったからであった。さらに具体的に言えば、明治開国以来の歴史から、彼らは戦争に勝つ方法は一応しっていたが、負け方は知らなかったのであった。」(『真実の太平洋戦争』奥宮正武/PHP文庫)

 次の本を参考にした   

 「真実の太平洋戦争」(奥宮正武/PHP文庫)

 「指揮官 上下」(児島襄/文春文庫)

 「近衛文麿と日米開戦ー内閣書記官長が残した「敗戦日本の内側」(川田稔/中公新書)

 「日本海軍の驕り症候群 上下」(千早正隆/中公文庫)

 「素顔のリーダー ナポレオンから東条英機まで」(児島襄/文春文庫)

 「勝つ司令部負ける司令部 東郷平八郎と山本五十六」(生出寿/新人物文庫)

 「山本五十六の真実」(平塚柾緒/河出文庫)

 「日本を滅ぼした国防方針」(黒野耐/文春新書) 

2020年9月 3日 (木)

狛犬セレクション

  能生白山神社(糸魚川市)  

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 辛国神社(藤井寺市)

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 長崎諏訪大社の稲荷神社

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 伊豆大島「ゴジラ上陸の地」碑

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 諏訪大社本宮

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 薦神社

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 二見輿玉神社

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 関根神社(高岡市)

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 築地本願寺

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 神田明神の獅子山

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 須衛都久神社(松江市)

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 伏見末広神社

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 鞍馬山

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   香取神宮

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 春日神社(奈良県高市郡高取町佐田)

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 境内に高さ2メートル・対角長36メートルの八角円墳、塚明神古墳があり、発掘調査の結果、草壁皇子の陵墓であることが確実視されている。

 それまでは、200メートルほど南にある岡宮天皇真弓丘陵が、草壁皇子の墓とされていた。

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 清水寺

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 室生龍穴神社

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 角鹿(つぬが)神社(気比神宮境内社)

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 孝安天皇陵の隣の神社

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 孝安天皇玉手丘上陵(こうあんてんのうたまてのおかのえのみささぎ)奈良県御所市大字玉手。

 神社は、写真で御陵の右側にあったが、廃社のようだ。地図にも載っていない。

 狛犬の顔面が垂直に切り取られていた。

 誰か世話をする人がいるのだろう、境内はそれほど汚れているわけではないが、不気味な気配が漂っているように感じた。

 神社の真向かい側に、天皇陵の礼拝所らしき建物があり、電灯が点いていたから、まだ使われているようだ。

 狛犬の顔が削られたのは、天皇陵を睨んでいたのが嫌われたからかもしれない。

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 亀戸香取神社

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 荏原神社

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 十二柱神社

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 貴船神社奥之院

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 船橋大神宮(意富比神社)の獅子山

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 天孫神社(大津市)

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2020年8月28日 (金)

敵基地攻撃能力

 「日本国民は日本の政府が、外国の核の脅威から、いかなる手段を用いても自分たちを守るよう要求する権利を持っており、その実行のために政府の機構や、予算、法律憲法変える必要があれば、当然、躊躇してはならないし、政府の行動に不要な制約をを課してはならない。」

「核兵器は使われない限りにおいて、有効な武器である。つまり威嚇や恫喝で相手にわが意志を押しつけるには、核兵器はいまだに極めて有効な兵器であることは確かだろう。しかし、金正恩の分別に期待することはやめたほうがいい。『日本が核兵器を所有すればそれで抑止力となる』という考えは誤りだ。その理由は『核抑止力は、分別のある者に対してだけ働くから』だ。北朝鮮はそのような相手だろうか。」

 「日本に必要なのは核抑止力ではなく、役に立つ防衛力だ。そのために必要なのは、繰り返すが、日本が先制攻撃能力を持つことであろう。ミサイル防衛も大事だが、100%ではない。通常兵器による先制攻撃能力を持つことで、抑止力は高まるのである。」

 「先制攻撃は侵略ではない。外国の領土に侵攻する能力ではなく、日本の一般市民を守るために必要な能力だ。自国を名指しで標的にしている敵性国家に対して、備えておくことはあくまでも、防衛努力であり、そのために北朝鮮の核・ミサイル施設を攻撃し無力化する能力を蓄積しておかねばならなかった。

 「日本の人々は、北朝鮮によるミサイル攻撃の脅威に晒されることなく、安寧に生きる権利を持っている。本章を収録するインタビューを行った2017年10月の時点では、日本はまだ、北からの通常弾頭による恐ろしい攻撃の脅威を取り除く手段を持っていた。しかし、北朝鮮が核開発を終えてしまった2019年秋以降は、それが不可能になる。このことを日本はもっと真剣に考えるべきだったろう。」

 (当然2018年の米朝会談についての言及はない。)

 「日本はこの時『防衛手段として北の核・ミサイル施設を先制攻撃するか、金正恩に服従して生きるか』どちらかを選ばざるを得なくなる、岐路にに立たされていたのだ。」

 「しかも、日本はすでに保有している戦力を、先制攻撃ができるように、簡単な改修を加えるだけで、たやすく問題解決ができたのだ。自衛隊の最小限の装備を流用し、コストもかからず、すぐできる修正で、北朝鮮の核ミサイルの危険性を長期間にわたって除去する能力をもつことができる。やらない手はなかった。」

 「そもそも北朝鮮の国防費はアメリカの4~5%以下であるにもかかわらず、百万人の兵力を維持し、ミニ潜水艦を建造し、通常兵器から潜水艦発射弾道ミサイルまで多くの装備を開発している。もちろん、日本の国防費よりずっと少ない額でこれら凡てを行い、日本より多くの攻撃兵器を持っている。」

 「しかし、北朝鮮は整備された防空体制を欠いている。技術的な理由で。防空には莫大なカネがかかる。北にはソ連時代の旧式のレーダーがあるだけで、新式の地対空ミサイルはなく、即応迎撃が可能な航空部隊もない。つまり北朝鮮の上空を守る手段はなく、外国に向けて「窓」が空いているに等しい。」

 「それに対して、日本には約200機のF-15がある。これは戦闘機と称されているものの、実際は二基のエンジンを積んだ強力な航空機で、日本から北朝鮮までの距離を考慮すると、戦略爆撃機として使用することができる。日本の整備状況では、約200機のうち通常70機がいつでも完全運用可能であり、これらを活用しようとするなら、、日本は各種の空対地ミサイルを購入して整備すべきだろう。」

 「さらに専門的なことを言えば、F-15の航続距離を伸ばすことが重要であり、そのために必要な燃料タンク密着型増槽(Conf0rmal fuel tanks)を、機体の胴体部に沿って取り付けるだけでそれが可能になるのだ。このタンクはボーイング社から購入できる。とても簡単なことなのだ。」

 「もしくは、日本がすでに保有している、主力戦闘機F-2に搭載可能なJDAM(通常爆弾を精密誘導型に変えるキット)をF-15にも装着できるよう、改造することも検討されていい。」

 「次ぎに、北朝鮮にあることがわかっている各関連施設や、ミサイル関係のあらゆるターゲットを選定する。これはどんなに多くとも全部で250カ所以下であるため、やろうと思えば今すぐにでも、可能性、蓋然性のあるターゲットをすべて選定し、「ここは飛行場、これはどこそこの機関の施設」と照準点(aiminng point)を次々に決めて、空自は自力で、日本がこれまで得た情報や、自前の衛星で集めた情報をもとに攻撃を開始することができるのだ。」

 「あるいは、偵察部隊を空から送り込み、ターゲットを明確にしたうえで攻撃することも可能だ。北朝鮮から反撃される恐れはない。」

 「重要なのは『戦時のメンタリティ』だ。平時の官僚的なメンタリティでは、『防空システムを完全に破壊して安全を確保してから目標の攻撃に移る』となるだろうが、これでは失敗する。」

 「今日本に必要なのは、平時のメンタリティで、『対地攻撃能力についての合意を図る』ことではなく、実際に使える装備を『研究のため』と称して購入し、ワシントンと北京にたいしてメッセージをおくることなのだ。」

 「北朝鮮を攻撃するために核兵器は必要ない。テクニカルに言って、去年の段階であれば『窓が開いている』北朝鮮国内のターゲットを、日本が爆撃して完全に破壊することは可能だったのである。」

 「重要なのは、日本がその能力を持っていることをきちんと認識することだった。そのまま日本が手を拱いて何もしなかった結果、2019年秋以降、北が核弾頭の搭載が可能なミサイルを実戦配備してしまうと、そうなれば今度こそ、打つ手はなくなる。だからこそ、ことここに到っては日本の対応は柔軟かつ受動的になるしかないのだ。」

 「もちろん、先制攻撃能力を持つといっても、民主主義の国である日本では、法的な問題もあるだろう。その点は専門外の私からは明確なことをもうしあげられない。また一個の国力は人口、経済規模、技術水準だけではなく、国としてのまとまりも重要なようそだ。公に議論することで国論が割れれば日本の分裂につながる。国論の分裂は、結果的に『何もできない』事態を引き起こすだけだ。」

 「だからこそ、日本政府がまずやるべきは、行政的な手続きを粛々と進めることだろう。部品一つ購入するだけで明確な一つのシグナルとなる。国論を二分するのではなく、目立たないような形でワシントンや北京に『日本は本気である』と伝えることが重要だ。」

 「繰り返すが、自国民が脅威に晒されている時、その直接の危険を除去するために先制攻撃を行う権利はあらゆる国家が保持しており、日本政府がそうした意志を持つことに大きな意味がある。」

 (『ルトワックの日本改造論』(エドワード・ルトワック/奥山真司訳/飛鳥新社)から)

 「北朝鮮の核兵器は、日本の安全保障上にとって最大の脅威である。しかし、戦略面では日本にとってポジティブな要素でもあるのだ。なぜならそれは北朝鮮の中国からの戦略的な独立を保障し、中国による朝鮮半島の支配を防いでいるからである。」

 「もし北京が平壌をコントロールできる状態になれば、かなりの確率で韓国もコントロールできるようになるはずだ。韓国内にも中国の冊封体制を受け入れようとする人間は多いからだ。いいかえれば、平壌の政治的指導層は、中国からの朝鮮半島の独立を実際に保障しているのだが、韓国政府、そして文在寅大統領はその独立には貢献できていない。」

 「日本にとって、核武装したままの北朝鮮は最悪だ。しかし中国に支配された朝鮮半島は、より最悪の安全保障上の脅威となってしまう。」

 「韓国は北朝鮮問題に対する当事者意識や国防への責任意識をまるで持ち合わせておらず、ただビジネスだけに関心を示しているのだ。」

 「日本やアメリカなど、北朝鮮の問題に直面している周辺国が気づかなければならないのは、『北朝鮮問題』は存在しないということだ。われわれが直面しているのは、単体としての『朝鮮半島問題』なのである。この問題は二つの国で構成されている。一つは北朝鮮であり、どんな手段でも核武装の解除を進めるべき国だ。そしてもう一つは、韓国という無視すべき国である。」

 「米軍が朝鮮半島から撤退することはありえない。非核化が実現し、北朝鮮との関係が100%改善したとしても、米軍は撤退しない。そもそも北朝鮮もそれを望んでいない。中国の脅威があるからだ。核武装抜きで北朝鮮が中国に対抗するには、米軍の朝鮮半島におけるプレゼンスが不可欠なのである。朝鮮半島を中国の支配下に置かせない。それが米軍の北東アジアでのポジションなのだ。」

 「同様の問題(コストパーフォーマンスのこと)は、『イージス・アショア』にも見られる。ミサイル防衛システムを強化するために、イージス艦に搭載されているイージス・システムを陸上に設置するというものだが、この実現までに6年をかけるというのである。そもそも北朝鮮への対応としてはあまりに遅すぎる上に、日進月歩で技術が進む現代において、6年前のシステムなど、出来たときには時代遅れになっている危険性もある。つまり、そこには『作戦実行的メンタリティー』が、決定的に欠けているのだ。」

 (『日本4.0 国家戦略の新しいリアル』(エドワード・ルトワック/奥山真司訳/文芸春秋)

 「自民党は8月4日、配備計画を断念したイージス・アショアの『代替機能』の早急な検討を行うよう求めた上で、専守防衛の方針のもと、『相手領域内でも弾道ミサイル等を阻止する能力』いわゆる的基地攻撃能力の保有をも含めた抑止力の向上が必要とする、提言を政調審議会で諒承し、同日安倍首相に手渡した。」

 「日本の新たなミサイル防衛について、閣議後の記者会見で問われた河野太郎防衛省は『与党の提言を受け止めながら、イージス・アショアの代替案について、そして新たなミサイルの脅威に対応できるように政府としても、しっかり検討していく』と述べた。

 某新聞社記者=P「自民党の提言にあったような『相手領域内でミサイルを阻止する能力』を検討する場合は、周辺国の理解が重要になってくると思いますが、現状では、特に中国や韓国から十分に理解を得られる状況ではないのではないかと思いますが、現状認識で理解を得る際に必要だと思われることがあれば、お願いします。」

河野太郎=K「すいません、周辺国ってどこのことですか・」

P「主に中国や韓国のことです。」

K「主に中国がミサイルを増強している時に、なんでその了解がいるんですか。」

P「韓国に関してはいかがでしょうか。」

K「なんで韓国の了解が必要なんですか、わが国の領土を防衛するのに。」

 「誘導弾の攻撃を受けて、これを防御する手段がないとき、独立国として自衛権を持つ以上、座して死を待つべしというのが憲法の趣旨であるとは、どうしても考えられないのであります。」(1956年、鳩山一郎内閣の政府見解)

 『敵基地攻撃能力』『先制攻撃能力』『ミサイル阻止力』『専守防衛』(これは日本国内でしか通用しない概念)という言葉に、憲法解釈が錯綜して、すっきりした議論は期待すべくもないが、肝心なことは、日本国民は、政府に対し、外国の武力による脅威から自分たちを守るよう要求する権利をもっており、政府はこれに応えて防衛意志を明らかにしなければならない、このことを日本人がしっかり自覚することだ。

2020年8月10日 (月)

上田城

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 上田城おもてなし隊、特訓中。2015年末。

 正月からの大河ドラマ「真田丸」の放映に合せて、「真田丸歴史観」がオープンするので、工事関係車両で雑然とした感じ。

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 明治時代に旧上田藩士、町民等によって「松平(しょうへい)神社」が建てられた。

 上田城の二つの櫓が再建され、城址公園の体裁が整ってきた昭和28年(1953)、真田、仙石、松平の歴代上田城主を合祀し、「上田神社」と改称、昭和38年「真田神社」と改称され、現在に到る。

 私が上田城を訪ねたのは2016年5月。

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 関ヶ原の戦いの後、真田昌幸・信繁は紀伊国九度山に配流され、上田城は、徳川軍によって徹底的に破却され、堀も埋め立てられた。

 昌幸の長男・真田信之は真田領を安堵されたが、上野国沼田城を本城として、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて、政務を行った。

 信之が、信濃国松代に転封されたのち、元和八年(1622)、小諸藩から仙石氏が入部、上田城の再建工事が始められた。

 仙石氏が、但馬国出石へ転封の後は、松平氏(藤井松平家)が藩主となり、幕末まで続いた。

 真田氏、仙石氏、松平氏の藩主屋敷があった、この場所は、今は長野県立上田高校敷地になっている。

 「古城の門」と呼ばれる、この門は、焼失したのち寛政三年(1791)に再建されたもので、現在、上田高校の正門として使用されています。

 朝7時に開門。

 上田高校、松代高校、群馬県沼田高校では、ジャージに「真田六文銭」をプリントしているらしい。

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 上田高校校歌「関八州の精鋭を、ここに挫きし英雄の、義心のあとは今もなお、松尾が丘の花と咲く」

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 上田市立博物館には「山際勝三郎記念室」があります。

 上田市出身の山際勝三郎は、兎の耳に繰り返しコルタールを塗布することで、世界発の人工癌の発生実験に成功した。

 人工癌については、デンマークのヨハネス・フィビゲルが寄生虫による人工癌発生で、ノーベル賞を受賞しているが、これは1950年代になって、ビタミンA欠乏症のラットに寄生虫が感染したときに起こる特殊な病変であって、人工癌ではなかったことが証明された。

 山際は、四度もノーベル賞にノミネートされたが、結局、受賞には至らなかった。残念というよりほかない。

 国友一貫斎(1778~1840)が製作した、日本で最初の反射望遠鏡。重要文化財。

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2020年7月26日 (日)

小田原城・二宮神社

 小田原城

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 テレビの時代劇で北条早雲が主人公になることは滅多にないが、三十数年前だか、北大路欣也が北条早雲(伊勢新九郎)を演じていたことを想い出した。あべ静江が北川殿をやっていたことも覚えている。

 検索してみたところが、このドラマは、早乙女貢「北条早雲」を原作とする『若き日の北条早雲』で、太田道灌は芦田伸介、その他にもハナ肇、仲谷昇、江原真二郎、藤岡琢也、江波杏子、梶芽衣子・・・ナレーションが黄門様の東野英治郎などと、随分と豪華キャストなのだった。

 司馬遼太郎の『箱根の坂』を読んだのは、この後の事だったような気がしている。

 一介の素浪人(司馬作品では室町幕府の下級武士)であった伊勢新九郎は、今川義忠の奥方になった妹の北川殿を助け、甥っ子の竜王丸(氏親)を今川家当主とするため、家督を簒奪した小鹿範満(おしかのりみつ)を討ち取って、長享元年(1487)五十五歳で興国寺城を与えられ、足利茶々丸の堀越公方を滅ぼし、伊豆を支配下に修めて韮山城を獲得、大森藤賴の小田原城を攻めて関東管領・山内上杉、相模守護・扇谷上杉の勢力を東に駆逐し、永正十三年(1516)、八十四歳で、新井城に三浦導寸、義意(よしおき)父子を攻め滅ぼし、三浦半島を掌中にして、相模・伊豆二カ国を領する戦国大名となり、永正十六年(1519)、八十八歳(数え年)で韮山城で死去。

 このようなストーリーは、元和年間、北条氏の旧臣であった三浦浄心(茂正)によって書かれた「北条五代記」の伝えるところでありー『若き日の北条早雲』『箱根の坂』もこれを踏襲しているがー北条早雲は最近まで、世間一般では、出自の明白でない「一介の素浪人」が己の野心と才覚のみを頼りに堀越公方足利家を滅ぼし、戦国大名となるという「下克上の典型」であって、しかもそれが五十歳を過ぎてからのことだから「大器晩成の典型」と見做されてきたのだった。

 しかし、ここ四十年ほどの研究成果で、このような早雲像は大きく修正変更を迫られており、近年は、「新しい早雲像」が世間一般に、認知されるようになってきた。

 まず「北条早雲」すなわち「伊勢新九郎長氏」という名前であるが、本当は「伊勢新九郎盛時」出家後は「伊勢早雲庵宗瑞」と呼ぶのが正しいらしい。

 二代目氏綱のときに伊勢から北条氏へ改姓されているが、この時に、盛時も長氏へと改名され、北条氏の当主嫡男は代々「伊勢新九郎長氏」と仮名していたことから、江戸時代の初め頃に「伊勢新九郎長氏」「北条早雲」が定着した。

 また、早雲の生年は、18世紀前半に書かれた軍記物語『関八州古銭録』から、永正十六年八十八歳で死去から逆算して永享四年(1432)とされていたが、これ実は母方叔父の伊勢貞藤の生年で、早雲の生まれは、干支二回り下の康正二年(1456)。

 生誕地は備中荏原庄で、父親は室町幕府八代将軍足利義政の申次衆(取り次ぎ役)の一人である伊勢盛定、母親は宗家の伊勢貞国の娘。

 第九代将軍義尚に申次衆として仕え、長享元年(1487)駿河へ下り、小鹿範満(おしかのりみつ)を討つており、これには義尚のお墨付きがあったとみるべきものらしい。

 つまり早雲は「一介の素浪人」などではなく、幕府官僚として活躍したのは十代後半から二十代のことであり、東国へ下向したのは三十歳代のことで死去は六十四歳であったことになる。 

↓小田原提灯

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 「宗瑞という人間を知る上で『早雲寺殿廿一箇条』は最も良いテキストかもしれない。この掟書は後世の偽作という説もあるが、伊勢本宗家の家訓書類似している部分もあることから、全くの偽書とは言い切れないとされている。

 第一条の『仏神を信仰すること』から始まり、第二条と第三条の『早寝早起き』、第十二条の『すこしの暇があれば本を読むこと』、第十七条の『友を選べ』をはじめとした二十一の戒めは、当時の武士の考え方を知る上で貴重なだけでなく、現代社会の生き方にも通じる。こうしたことから宗瑞は、室町幕府のエリート教育(大徳寺での僧侶教育も含む)を受けた教養豊で道徳的な人物だと分ってくる。

 武士にありがちな自己顕示欲や自己主張は極めて弱く、俗世の煩悩や欲望からも解脱した僧侶的な人物が浮かび上がってくる。その人格を一言で表わすと、「クールな現実主義者」だろうか。

 一見、理想主義者に思われるかも知れないが、理想は理想として掲げ、その手段は現実主義そのものである。形骸化しつつあった幕府の威光を早々に脱ぎ捨て、実力こそがすべてを決するということを体現していったことからも、それは明らかだろう。

 また、その政治思想には一貫性や継続性があり、民を重んじることにかけては他の大名の追随を許さず、その証として、当時としては極めて緩やかな四公六民という税率を崩さなかった(これは五代にわたって引き継がれる)。こうしたぶれない姿勢が衆望に繋がり、宗瑞は多くの国衆(国人と士豪)と人格的主従関係を結んでいくことになる。また民からは、『頼うだる人(頼りがいのある人)』として慕われていった。」

 「つまり宗瑞は、職人気質の実直な為政者だったのだ。」

 (『北条氏康 関東に王道楽土を築いた男』(伊東潤・板嶋恒明/PHP新書)から)

 「万民を憐れみ給う事。ふる雨の国土をふ(う)るほすに同じ」(三浦浄心)

 「上下万民に対し、一言半句、虚言を申すべからず。そらごと言いつくればくせになりて、せせらる也。人に頓(とん)とみかぎらるべし。人に糺され申しては、一期の恥と心得るべきなり。  」(『廿一箇条』第十四条)

 早雲の理想主義は、氏綱、氏康、氏政、氏直と代々脈々と受け継がれることになった。

 北条氏綱『五箇条の御書置』が実に良いが、何か、北条氏の滅亡を予感させるものがあるようにも感じます。

 「大将によらず、諸将までも義を専らに守るべし。義に違ひては一国二国切りたるといふとも、後代の恥辱いかが。・・・昔より天下をしろしめすとても、一度は滅亡の期あり。人の命はわずかの間なれば、むさき心底ゆめゆめあるべからず。」

 「すべて人に捨ていたる者はこれなく候。・・・その者の役に立つところをば遣ひて、役に立たざるところをば遣はずして、何れをも用に立て候を良き大将と申すなり。・・・此の者は一向の役に立たざるうつけ者よと見限り候事は大将の心には浅ましき狭き心なり。」

 「惣て侍は古風なるをよしとす。・・・当世風を好む者は是軽薄者なり」

 「手際なる合戦に夥敷き勝利を得るときは、驕りの心い出来たり、敵を侮り或いは不行儀なること必ずある事なり。・・・勝って兜の緒を締めよといふ古語忘れ給ふべからず。」

 検索すれば全文を読むことが出来る。

 名君の誉れ高い三代氏康は、天文十五年(1546)川越合戦で、古河公方・山内上杉・扇谷上杉連合軍を打ち破り、扇谷上杉を滅ぼし、山内上杉憲政を越後へと敗走させ、沼田城を拠点として、山内上杉の上野(こうずけ)まで勢力を拡大し関東の中心部を手中に収め、甲相駿三国同盟(武田信玄、北条氏康、今川義元)を締結した。

 氏康は「人民を慈しむ慈悲深い政治家」「早雲に勝るとも劣らぬ逸物」「用兵術に優れた名将」として評価が高い。

 「北条氏は『決戦回避』と『拠点固守』(籠城策)を基本戦術としており、たとえ相手が佐竹・宇都宮・結城・里見といった格下大名でも、敵に勢いがあると見れば、この方針に則った戦い方をしてきた。

 一見この戦術は消極的で臆病に思えるかもしれないが、ここにこそ北条氏の大名としての真骨頂がある。すなわち大名とは軍団である前に統治主体であり、領民の命と財産を守る義務があるということを、北条氏が肝に銘じていたことの証である。

 川中島のような無人の湿地帯で大合戦をするならまだしも、肥沃な農耕地を抱える北条氏の領国内で野戦となれば、たとえ勝てたとしても、その痛手は計り知れない。そこで決戦を回避し、城内に領民を保護することで経済的ダメージを最小限にし、敵が去った後の復興を迅速に行うのである。

 この戦略思想は、最終的に小田原城などの北条氏の拠点城で見られる惣構(そうがまえ、大外郭)に行き着く。惣構によって、耕作地だけでなく商業地までも取り込むことで、城内で農耕や商売ができるようになり、敵が去った後、即座に経済活動を再開できるようになった。」

 氏康が死去した元亀二年(1571)の小田原城は、東西1300メートル、南北は約750メートルの規模に広がっていた。

 四代氏政・五代氏直は、三代氏康が立派すぎたのと、何よりも豊臣秀吉に滅ぼされたことをもって、戦国武将としては低く評価されがちであり、不当に貶められていところがあります。

 氏政は国府台の戦い(第二次国府台合戦、永禄七年(1564)、家督を譲った後の氏康も陣中にあった)で、里見氏を南総に追いやり、上杉謙信や武田信玄が小田原城に攻め込んできたときも、ともに撃退している。

 「氏政という人間は、父の氏康よりも家康に似ている。軍才では家康におよばないものの、外交面では家康を上回る手腕を発揮し、交渉と調略を駆使して版図のの拡大に成功している。

 このことからも、氏政は慎重で周到な人物だったと思われる。しかも家康以上に領国当地に力を注ぎ、在地国人や農民から収奪しようというのではなく、彼らとの共存共栄を目指したという点で、現代的価値観からも評価できる。」

 「また氏政は、北条氏を戦国最大級の大名(役230~280万石)へと飛躍させた上、検地と所領役帳を基盤とした領国統治システムを完成させたという功績もある。

 それではなぜ、氏政は北条氏を滅亡に導いてしまったのか。その理由を強いて探せば、氏政は何事にも慎重で手堅くなりすぎるところがあり、ここ一番の果断さに欠けていたからではないだろうか。」

 天正六年(1578)上杉謙信死去。謙信の養子三郎景虎(北条氏康七男)と同じく養子の上杉景勝の間で跡目争いが勃発、「御館(おたて)の乱」、三郎景虎は敗死、甲相同盟瓦解。

 天正七年(1579)北条氏政、徳川家康と同盟を締結、続いて織田信長とも同盟を結び、翌年、家督を氏直に譲り、氏直は信長の娘を正室に迎えた。

 天正十年(1582)三月、武田勝頼は天目山に追い詰められ、勝頼と正室の桂林院(北条氏康の娘)、息子の信勝はそろって自害し、甲斐源氏の名門・武田家は滅亡した。

 「戦後の論功行賞で、信長は上野一国を滝川一益に、駿河一国を徳川家康に、甲斐一国を河尻秀隆に、また信濃国を戦功のあった家臣達にわけあたえた。ところが北条氏は、織田方に与したのに何の恩恵にも与れないどころか、自力で回復した東上野や東駿河を取り上げられた。信長は武田領侵攻作戦における北条氏の貢献度が、なきに等しいと評価したのだ。この時の中央政権に対する不振が、後に豊臣政権を容易に認められない要因の一つになっていく。」

 天正十年六月二日、本能寺の変、続いて天正壬午の乱。

 信長横死の確報を掴んだ北条軍はただちに北上を開始、上野東部を奪回し、上野、下野、常陸、上総、下総、武蔵、駿河、甲斐、相模、伊豆の十カ国に跨がる広大な領土に覇権を打ち立て、氏直は北条家の最大版図を画したのだった。

 広大な領土を支配する本拠地として小田原城は更に拡張され、天正十八年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めの時は、城下町を囲む9キロメートルの広大な総構えを完成し、その規模は最大に達していた。

 早雲の時から、北条氏が護持し続けてきた、関東独立国家構想が実現したように見えなくもないが、結果的には上杉勢、真田勢、東方衆一統勢力(佐竹義重・宇都宮国綱・結城晴朝)等との戦いに忙殺され、西方の徳川家康・豊臣秀吉への対応は疎かにならざるをえず、天正十四年(1586)、上杉景勝、徳川家康が秀吉に臣従したときには、気付いてみたら周り一面豊臣方という状況に陥ってしまったのである。

 何時をもって『戦国時代の始まり』とするかについては、応仁の乱(応仁元年(1467)~文明九年(1477))、明応の政変(明応二年(1493))、伊豆討ち入り(明応2年(1493)伊勢盛時、堀越御所に攻め入る、管領・細川政元、第十代将軍・義澄の指示があったらしい)などとする説があり、『戦国時代の終り』については、信長入京(永禄十一年(1568))、足利義昭追放(天正元年(1573))、秀吉の関白任官(天正十三年(1585))、秀吉の小田原攻め(天正十八年(1590)、関ヶ原の戦い(慶長五年(1600))、家康に征夷大将軍宣下(慶長八年(1603))、大坂夏の陣・元和偃武(元和元年(1615)などとする説がある。

 諸説の妥当性について、あれこれ言う程の見識も無いが、「始め」にも「終り」にも北条氏の名前がでてくるところが興味深い。

 これは「戦国時代」を「戦国大名の時代」として把握する見方で、北条氏こそが戦国大名の典型ないしは理想型を体現するものと見做されたからである。

 多くの戦国大名が、お家騒動・跡目争いで、骨肉相食む闘争を経験しているが、北条家にそのようなことはなかった。

 上杉謙信は、領民を養うために端境期に関東へ攻め込んで略奪を繰り返したし、武田信玄は国人小領主に土地を与えるために、即ちモチベーションを維持するために、他国領土への侵略を専らとせざるを得なかったが、北条氏は、国人層からも領民からも「頼りがいのある殿様」と慕われ続けた。

 戦国大名としては、完璧に近い統治体制を築き上げた北条氏であったが、その完璧さの故に、つまりは成功体験に自縛され、天下統一を目指す新たな政治勢力ー戦闘のプロフェッショナルによる軍団組織の編成、南蛮貿易による最新兵器の調達、商業資本を利用した情報網の全国展開、天皇の権威を利用した巧みな外交戦略ーの台頭に、為す術を失ったのではなかろうか。

 東国に一大覇権を打ち立て、難攻不落の一大城郭を築き上げたことから来る、驕りと油断もあったに違いない。

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 天正十八年七月、秀吉は小田原城に入城し、徳川家康の旧領五カ国を没収し、北条氏旧領関東八カ国を与えた。

 家康家臣大久保忠世が小田原城に入り、城は改修されたが、慶長十九年(1614)大久保忠隣は改易され、小田原城は破却、寛永九年(1632)稲葉正勝が入場して、大改修で城は一新、貞享三年(1686)大久保忠朝が封ぜらたが、元禄十六年(1703)の大地震により、城内の建物は大部分が倒壊焼失した。

 本丸御殿を除き建物群は再建されたが、明治三年(1870)に小田原城は廃城となり、天守などが売却され解体された。

 後、小田原足柄県庁が置かれ、明治34年には、二の丸に御用邸が建てられたが、関東大震災(大正十二年(1923)で御用邸のほか、石垣も全壊した。

 小田原市民の要望が実って、江戸時代の雛形や指図をもとに、昭和三十五年(1960)、鉄筋コンクリート、複合式三重四階の天守が復興され、続いて、常磐木門、銅門、馬出門が再建された。

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 「忍者集団といえば、西国の伊賀や甲賀が有名だが、東国にも存在した。「乱破(らっぱ)」および「透破(すっぱ)」といわれているのがそれである。透破は主として甲斐・信濃・美濃の山岳地帯で、乱破は伊豆や関東を主舞台として活動していた。」

 「彼らは山野の抜け道をよく知っていて、草むらに伏して姿を見せない。速歩や木登り、潜水、操船、飛翔術にすぐれ、忍びと盗みを得意とした。屈強な先頭集団でもあったので、戦国時代になると諸大名は争って彼らを雇い入れ、その特技を生かして敵情偵察などに使った。」

 相州乱破、すなわち「北条氏が配下としていた乱破に、風魔党というのがあった。相模の足柄下郡風間村に住んでいた一族であったといわれる。本来は風間(かざま)であるが、通称の風魔のほうがそれらしい凄味があるためか、一般的には風魔で通っている。」

 天正九年(1581)黄瀬川の戦いにおいては「北条・武田両軍が、伊豆三島近郊の黄瀬川をはさんで対峙すると、二百人の風魔党は四手に分かれ、毎夜、黄瀬川を渡って武田の陣場に忍び入り、陣内を攪乱した。人を生け捕り、つなぎ馬の綱をを切てこれを乗りまわし、夜討ちをかけ、ここかしこに放火し、四方八方からいっせいに鬨の声をあげる。驚きあわてた武田方は、同士討ちをはじめる者さへ出る始末で、大混乱に陥った。」(『伊豆水軍物語』(長岡治/中公新書))

 敵方の撹乱工作に悩まされた武田方は、十数人の透破を風魔党に紛れ込ませて、頭目を討ち取ろうと図った。

 「夜の仕事を終えた風魔一党二百人は、黄瀬川の川原に集合した。首領が灯を掲げ、なにやら合い言葉をとなえると、一党の者たちがいっせいに立った。これは「居すぐり(立ちすぐり)」といって、味方のなかに混じっている敵を見分ける方法である。武田方の透破は、合い言葉を知らなかったため、たちまち見つかって斬られてしまった。このように後方を撹乱されつづけた武田勝頼の軍勢は士気を喪失し、ついに決戦をあきらめて甲州へ引き揚げていった。風魔党乱破の見事な勝利であった。」

 一党の首領は風魔小太郎信之といって、これは風魔の首領に代々受け継がれた名前であった。

 北条氏が滅んだ後、風魔は江戸に移り住んで盗賊集団となったが、下総国・向崎の高坂甚内というものが「関東の盗賊の首領は風魔の残党だ」と奉行所に密告したため、一網打尽に捉えられた。

 この甚内という男も盗賊の親玉で、一説に因れば、武田透破の末裔であったらしい。 

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 報徳二宮神社

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  報徳二宮神社 神奈川県小田原市城内

 二宮金次郎尊徳(たかのり)を祀る。

 明治二十四年(1891)従四位贈の折、神社創建の議が起こり二十七年鎮座された。

 明治四十二年社殿を増築し神苑を拡張して現在に至っている。

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 地湧(じゆ)の思想家 

 小田原城址公園の坂を降りてくると二宮神社があった。

 そういえば二宮金次郎は小田原だったと気付いて、立ち寄ってみた。

 帰ってから地図を確認してみると、すぐ近くに報徳博物館というのもあるらしい。

 二宮尊徳や報徳社については、名前を聞いたことがあるという程度だったのだが、これもいい機会だからと、『報徳記』『二宮翁夜話』『三才報徳鈞毛録』など(『日本の名著26 二宮尊徳』(児玉夕幸多 責任編集/中央公論社)と『二宮金次郎』(童門冬二/集英社文庫)、『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー/池田昭訳/岩波文庫)、『二宮翁夜話』(福住正兄/佐々井信太郎校訂/岩波文庫)を手に取ってみた。

 私は瞠目し、私の「尊徳像」が予断と偏見の産物であったことを思い知らされた。

 明治になって、西洋流の資本主義が主流になり、報徳仕法が廃れたのは、当然と言えば、その通りだが、尊徳の経済思想「一円融合・生々発転・開闢」「勤倹・分度・推譲」は、今なお有効性を持っている、いやそれどころか、「資本主義の終焉」が囁かれるようになった今日においては、一段と重要性を増しているのではないだろうか。

 またユートピアニズム、ポピュリズム、リベラリズム、リバタリアニズム、偽善エコロジー等の論客による、温暖化論、環境保護論、自然保護論が世界中を席巻しつつあるようだが、尊徳の「天道・自然・人道」は、これらの論の嘘っぽさ・詐略・欺瞞を見破る、有力な対抗兵器として、大いに再評価されるべきなのではないだろうか。

 二宮金次郎は、打ち捨てられた荒れ地に、菜種を植えることから始めて、零落した生家を立て直し、農民として自立、小田原藩家老服部十郎兵衛宅の家政を立て直したことから、小田原藩の支藩・下野国宇津桜町領の再建を引き受けることになり、次いで常陸国真壁郡青木村の仕法、さらに下館藩、烏山藩、相馬中村藩などからの依頼を受け、門人に任せたものをも含めれば、六百余りの村々の再興計画に関わり、安政三年(1865)十月二十日、七十歳、下野国・今市報徳所で死去した。

 農作業の工夫から出発した金次郎の思索は、「天道・人道」の形而上学の高みにまで達したが、その肉体と精神が「大地のリアル」を離れることは、決して無かった。

 そこで、私は金次郎のことを「地湧(じゆ)の思想家」と呼んでみたいのだ。

 「小田原藩主・大久保忠真が、日光東照宮に参詣した帰りに、桜町陣屋」にいた二宮金次郎に会った。その時、忠真は『なんじの道は以徳報徳(徳をもって徳に報いる)に似たり』といった。以後、金次郎はこの大久保忠真の言葉を大切にして、『報徳』という言葉を使いはじめた。金次郎が四十五歳の時のことである。」(『二宮金次郎』から)

 「私の手を見てくれ、私の足を見てくれ、私の書簡を見てほしい、そして私の日記も見てほしい。おずおずとおそるおそる深い淵をのぞくように、薄い氷の上をわたるように生きてきたことを見出すだろう。」(安政二年(1855)十二月三十一日の日記)

 以下は『二宮翁夜話』から。 

 「世の学者皆草根木葉等を調べて是も食すべし、彼も食すべしと云へども、予は聞くを欲せず、如何となれば自ら食して、能く経験するにはあらざれば甚だ覚束なし、且つかゝる物を頼みにせば、凶蔵の用意自ずから怠りて世の害になるべし、夫れよりも凶蔵飢饉の惨状、甚敷きを述る事、僧侶地獄の有様を絵に描きて、老婆を諭(さと)すが如く、懇々と説き諭して、村毎に積穀(つみこく)を成す事を勧ムルの勝れるに如かざるべし、故に予は草根木皮を食すべしと決して言ず、飢饉の恐るべく、圍穀(かこいこく)をなさしむるを務とす」

 「世間には草根木皮等を食せしむる事も有れど、是は甚宜しからず、病を生じて、救ふべからず、死する者多し、甚危き事なり、恐るべき事なり、世話人に隠して、決して草根木皮などは、少しにても食ふ事勿れ、此一椀づゝの粥の湯は、一日に四度づゝ時を定めて、屹度与ふるなり、左すれば、假令(たとひ)身体は痩するとも決して、餓死するの患(うれい)なし、又白米の粥なれば、病の生ずる恐れも必なし、新麦の熟するまでの間の事なれば、如何にも能く空腹を堪え、起臥(おきふし)も運動も徐(しづか)にして、成る丈腹の減らぬ様にし、命さへ続けば、夫れを有難しと覚悟して、能空腹を堪えて、新麦の豊熟を、天地に祈りて、寝たければ寝るがよし、起たければ起るがよし、日々何も為るに及ばず、只腹のへらぬ様に運動し、空腹を堪ゆるを以て、夫れを仕事と心得て、日を送るべし、新麦さへ実法れば、十分に与ふべし、夫迄の間は死にさへせざれば、有難しと能々覚悟し、返す返すも艸木の皮葉を食ふ事勿れ、草木の皮葉は毒なき物といへども腹に馴れざるが故に、多く食し日々食すれば、自然毒なき物も毒と成りて、夫れが為に病を生じ、大切の命を失ふ事あり、必食する事なかれと、懇(ねんごろ)に諭して空腹に馴らしめ、無病ならしむるこそ、救窮の上策なるべけれ」

 「窮の尤も急なるは、飢饉凶歳より甚だしきはなし、一日も緩(ゆるう)すべからず、是を緩うすれば人命に関し、容易ならざるの変を生ず、変とは何ぞ、暴動なり、古語に小人窮すれば乱す、とある通り、空しく餓死せんよりは、縦令(たとひ)刑せらるゝも、暴を以て一時飲食を十分にし、快楽を極めて、死に付んと富家を打毀し、町村に火を放ちなど、云べからざる、悪事を引起す事、古より然り、恐れざるべけんや」

 「天道は自然に行はるる道なり、人道は人の立つる所の道なり。元より区別判然たるを相混するは間違いなり。人道は勤めて人力を以て保持し、自然に流動する天道の為に押し流されぬ様にするにあり。天道に任する時は、堤は崩れ、川は埋まり、橋は朽ち、家は立ち腐れとなるなり。身の行も亦此の如し、天道は寝たければ寝、遊びたければ遊び、食ひたければ食ひ、飲みたければ飲むの類なり。人道は眠たきを勤めて働き、遊びたきを励まして戒め、食べたき美食を堪え、飲みたき酒を控えて明日の為に物を貯ふ是人道也。思ふべし」

  「人道と云 、天理より見るときは善悪なし、其証には、天理に任する時、皆荒れ地となりて、開闢のむかしに帰るなり、如何となれば、是則天理自然の道なればなり。夫(それ)天に善悪なし故に、稲と莠(はくさ、えのころぐさ)とを分かたず、種ある物は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ、人道はその天理に順うといへども、その内に各区別をなし、稗(ひえ)莠を悪とし、米麦を善とするが如き、皆人身便利なるを善とし、不便なるを悪となす。爰(ここ)に到りては天理と異なり、如何となれば人道は人の立る處(ところ)なればなり。

 人道は譬(たとへ)ば料理物の如く、三杯酢の如く、歴代の聖主賢臣料理塩梅(あんばい)して拵(こし)らへ)たる物なり、されば、ともすれば、破れんとする故に、政(まつりごと)を立て、教(おしへ)を立て、刑法を定め、礼法を制し、やかましくうるさく、世話をやきて、漸く人道は立なり、然(しかる)を天理自然の道と思ふは、大なる誤りなり、能く思うべし。」

 「人の賤しむところの畜道は天理自然の道なり、尊む處の人道は、天理に順うといへども又作為の道にして自然にあらず。」

 「万国共開闢の初めに、人類ある事なし、幾千歳の後初て人あり、而して人道あり、夫禽獣は欲する物を見れば、直ちに取りて喰ふ、取れる丈の物をば憚らず取て、譲ると云ふ事を知らず、草木もまた然り、根の張らるゝ丈の地、何万迄も根を張て憚らず、是れ彼が道とする處なり、人にして斯の如くなれば、即盗賊なり、人は然らず、米を欲すれば田を作て取り、豆腐を欲すれば、銭を遣りて取る、禽獣の直に取るとは、異なり夫人道は天道とは異にして、譲道より立物なり、譲とは今年の物を、来年に譲り、親は子の為に譲るより成る道なり、天道には譲道なし、人道は人の便宜を計りて、立し物なれば、動(やや)ともすれば、奪心を生ず、鳥獣は誤ても、譲心生ずる事なし、これ人畜の別なり、田畑は一年耕さざれば、荒蕪となる、荒蕪地は、百年経るも自然田畑となる事なきに同じ、人道は自然にあらず、作為の物なるが故に、人倫用辨するところの物品は、作りたる物にあらざるなし、故に人道は作る事を勧るを善とし、破る悪とす、百事自然に任すれば皆廃る、是を廃れぬ様に勧るを人道とす」

 「人の用ふる衣服の類、家屋に用いる四角なる柱、薄き板の類、其他白米搗麦味噌醤油の類、自然に田畑山林に生育せんや、仍て人道は勤めて作るを尊び、自然に任せて廃を悪む、夫虎豹の如きは論なし、熊猪の如き、木を倒し根を穿ち、強き事言べからず、其労力も又云べからず、而して終身労して安堵の地を得る能わざるは、譲る事を知らず、生涯己が為のみなるが故に労して功なきなり、縦令人といへども、譲の道を知らず、勤めざれば、安堵の地を得ざること、禽獣に同じ、仍て人たる者は、智恵は無くとも、力は弱くとも、今年の物を来年に譲り、子孫に譲り、他に譲の道を知りて、能行はば、その功必成るべし、その上に又恩に報うの心掛けあり、是又知らずば有べからず、勤めずば有べからざるの道なり」

 「夫(それ)自然の道は、万古廃れず、作為の道は怠れば廃る、然るに其人作(じんさく)の道を誤て、天理自然の道と思ふが故に、願う事成らず思ふ事叶わず、終に我が世は憂き世なりなどといふに至る。」

 「人身あれば欲あるは則天理なり、田畑へ草の生ずるに同じ、堤は崩れ堀は埋まり橋は朽ちゐ是則天理なり、然れば、人道は私欲を制するを道とし、田畑の草を去るを道し、堤は築立(つきた))て堀はさらひ。橋は掛替るを以て、道とす」

 「天理は万古変ぜず、人道は一旦怠れば忽ちに廃す、されば人道は勤(つとむ)るを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず、夫人道の勤むべきは己に克つの教なり、己は私欲なり、私欲は田畑に譬れば草なり、克つとは、此田畑に生ずる草を取捨る勤(つとめ)なり、己に克は、我心の田畑に生ずる草をけづり捨てとり捨て、我心の米麦を繁茂さする勤なり、是を人道といふ、論語に己に克って礼に復(かへ)るとあるは此勤なり」

 「世の中に誠の大道は只一筋なり、神といひ儒いひ仏といふ、皆同じく大道に入るべき入口の名なり、或いは天台といひ、真言といひ、法華いひ禅と云ふも、同じ入り口の小路の名なり」

 「神仏儒を初、心学性学等枚挙に暇あらざるも、皆大道の入口の名なり、此入口幾箇(いくつ)あるも至る處は必一の誠の道なり、是を別々に道ありと思うは迷いなり、別々なりと教るは邪説なり、譬は不二山に登るが如し、先達に依りて吉田より登るあり、須走より登あり、須山より登るありといへどおも、其の登る處の絶頂に至れば一つなり、斯の如くならざれば真の大道と云べからず、されども誠の道に導くと云て、誠の道に至らず、無益の枝道に引き入るを、是を、邪教と云、誠の道に入らんとして、邪説に欺かれて、枝道に入り、又自ら迷いて邪路に陥る者、世の中少なからず、慎まずあるべからず」

 「世の中に異なしといへども、変なき事あたはず、是恐るべきの第一なり、変ありといへども、是を補ふの道あれば、変なきが如し、変ありて是を補ふ事あたはざれば、大変に至る、古語に三年の貯蓄(たくはえ)なければ、国にあらずと云り、兵隊ありといへども、武具軍用備ざればすべきようなし、只国のみにあらず、家も又然り、夫万(よろづ)の事有余無ければ、必ず差支え出来て家を保つ事能わず、然るをいはんや、国天下をや」

 「大事をなさんと欲せば、小さなる事を、怠らず勤むべし、小積(つも)りて大となればなり、凡小人の常、大なる事を欲して、小さなる事を怠り、出来難き事を憂ひて、出来易き事を勤めず、夫故、終に大なる事をなす事あたわず、夫れ大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり」

 「世界の中、法則とすべき物は、天地の道と、親子の道と、夫婦の道と、農業の道との四つなり、此道は誠に、両全完全のものなり、百事此四つを法とすれば過ちなし」

 「天地の真理は、不書の経文にあらざれば、見えざる物なり、此不書の経文を見るには、肉眼を以て、一度見渡して、而て後肉眼を閉ぢ、心眼を開きて能見るべし、如何なる微細の理も見えざる事なし」

 「或(あるひと)問老子に、道の道とすべきは、常道にあらず、云々とあるは如何なる意ぞ、翁曰、老子の常と云へるは、天然自然万古不易の物をさして云へるなり、聖人の道は,人道を元とす。夫人道は自然に基づくといへ共、自然とは異なる物なり、如何となれば、人は米麦を食とす、米麦自然にあらず、田畑に作らざればなき物なり、其の田畑と云物、又自然にあらず、人の開拓に依りて出来たるものなり、其田を開拓するや、堤を気付き皮を堰き、溝を掘り水を上げ畔を立て、初めて水田成る、元自然に基くといへ共、自然にあらずして、人作なること明らかなり」

 「すべて人道は斯の如き物なり、故に法律を立て、規則を定め、礼楽と云刑政と云、格と云式と云が如き、煩わしき道具を並べ立て、国家の安寧は漸く成る物なり、是米を喰わんが為に、堤を築き堰を張り、溝を掘り畔を立てて、田を開くに同じ、是を聖人の道と尊むは米を食んと欲する、米喰仲間の人の事なり」

 「道の道とすべきは、常の道あらずと云へるは、川の川とすべきは常の川にあらずと云に同じ、夫堤を築き、堰を張り、水門を立てて引きたる川は人作の川にして、自然の常の川にあらぬ故に、大雨の時は、皆破るる川なりと、天然自然の理を伝えるなり、

 理は理なりといへ共、人道とは大に異なり人道は、此川は堤を築き、堰を張りて引きたる川なれば年々歳々普請手入れをして、大洪水ありとも、破損のなき様にと力を尽くし、若流出したる時は、速やかに再興して元の如く、早く修理せよと云を人道とす

 元築たる堤なれば、崩るる筈、開きたる田なれば荒るる筈といふは、言ずとも知れたる事なり、彼は自然を道とすれば、夫を悪しと云にはあらねど、人道には大害あり。到底老子の道は、人は生まれたる物なり、死する当り前のことなり是を嘆くは愚なりと云へるが如し、人道は夫と異なり、他人の死を聞いても、扨(さて)気の毒の事なりと嘆くを道とす、況や親子兄弟親戚に於るおや」

 「仏教にて此世は僅の假の宿、来世こそ大事なれと教ふ、是又、欲を以て欲を制するなり、夫幽(いう)世の事は、目に見えざれば、皆想像説なり、

 然といえ共、艸(くさ)を以て見る時は、粗(ほぼ)見ゆるなり、今茲(ここ)一草あらん、この草に向ひて説法せんに、夫汝は現在、草と生まれ露を吸い肥しを吸い、喜び居るといへ共、是は皆迷ひと云物ぞ、夫此世は春風に催されて、生出たる物にて、実に假の宿ぞ、明日にも、秋風吹立ば、花も散り、葉も枯れ、風雨の艱難を凌ぎて成長せしも皆無益なり、此秋風を、無常の風云恐るべし、早く、此世は假の宿なる事を悟りて、一日も早く実を結び種となりて、秋にも焼けざる蔵の中に入りて、安心せよ、此世にて肥を吸ひ、葉を出し花を開くは皆迷なり、早く種となり、艸の世を捨よ其種となりて、ゆく處に、無量斯々の娯楽ありと説くが如し、是欲の制し難きを知って、是を制するに欲をもってして勧善懲悪の歌とせしなり。然るを末世の法師等此教えを以て、米金を集めるの対策をなす、悲しからずや」

 「門人某『笛吹ず太鼓たゝかず獅子舞の跡足になる胸の安さよ』と云ふ古歌を誦(じゅ)す、翁曰此歌は、国家経綸の大才を抱き功成り名を遂げ其業を譲て、後に詠吟せば許すべし、卿(きみ)が如き是を誦す、甚だ宜しからず

 此歌の意を押極る時は、其意不受不施に陥るなり、其人にあらずして、此歌を誦するは、国賊と云て可なり、論語には幼にして孫弟ならず、長じて述る事なく、老て死ざるをさへ賊と云へり、まして況や、卿等が此歌を誦するや、大に道に害あり、夫前足になりて舞ふ者なくば、焉んぞ跡足なる事を得んや、上に文武百官あり、政道あればこそ、皆安楽に世を渡るゝなれ、此の如く、国家の恩恵に浴しながら、此の如き寝言を言は、恩を忘れたるなり、我今卿が為に此歌を読直して授くべし。向後は此歌を誦されよ、と教訓あり、其歌『笛を吹き太鼓たゝきて舞へばこそ不肖の我も跡あしとなれ』」

 「学者書を講ずる悉(くは)しといへども、活用する事を知らず、徒に仁は云々義は云々と云り、故に社会の用を成さず、只本読みにて、道心法師の誦経するに同じ、古語に権量謹み法度を審(つまびらか)にすとあり、是大切の事なり、之を天下の事とのみ思う故に用をなさぬなり、天下の事などは差置て、銘々己が家の権量を謹み、法度を審にすることこそ肝要なれ」

 「尊き大道も書に筆して、書物と為す時は、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし、

 我が教は実行を尊む、夫経文と云ひ経書と云、その経と云は元機(はた)の立糸の事なり、されば、竪糸ばかりにては用をなさず、横に日々実行を織込て、初めて用をなす物なり、横に実行を織らず、只縦糸のみにては益なき事、弁を待たずして明らかなり」

 「夫世の中に道を説たる書物、算ふるに暇あらずといへども、一として癖なくして全きはあらざるなり、如何となれば、釈迦も孝子も皆聖人なるが故なり、経書といひ、経文と云も、聖人の書たる物なればなり、故に世は不書の経、即物言ずして四時行われ百物なる處の、天地の経文に引き当て、違いなき物を取て、違えるは取らず、故に予が説く處は決して違わず」

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 「仏家にては、此世は假の宿なり、来世こそ大切なれと云といへども、現在君臣あり、妻子あるを如何せん、縦令(たとひ)出家遁世して、君親を捨妻子を捨るも、此身体あるを如何せん、身体あれば食と衣との二つがなければ凌がれず、船賃がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり、故に西行の歌に『捨果し身は無き物と思へども 、雪の降る日は寒くこそあれ」と云り、是実情なり、儒道にては礼に非れば、視る事勿れ、聴事勿れ、云ふ事勿れ、動く事勿れと教えれども、通常汝等の上にては夫れにては間に合わず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非れば、経書にあるも経文にあるも、予は取らず、故に予が説く處は、神道にも儒道にも違えることあるべし、是は予が説の違えるにはあらざるなり」 

 「仏者殺生戒を説くといへども、実は不都合の物なり、天地死物にあらず万物また死物にあらず、然る生世界に生まれて殺生戒を立つ、何を以て生を保んや、生を保つは,生物を食するに依る、死物を食して焉(いずくんぞ)生を保つ事を得ん、人皆禽獣蟲魚飛揚蠢動(ひようしゅんどう)の物を殺すを殺生云て、草木菓穀を殺すの、殺生たるを知らず、飛揚蠢動の物を生と云ひ、草木菓穀生物に非ずとするか」

 「翁曰、世人の常情、明日食うべき物なき時は、他に借に行んとか、救いを乞んとかする心はあれども、儞明日は食ふべき物なしと云時は、釜も膳椀も洗ふ心なし、と云へり、人情実に然るべく尤もの事なれども此心は困窮其身を離れざるの根元なり、如何となれば日々釜を洗い膳椀を洗ふは明日喰わんが為にして、昨日迄用ひし恩の為に、洗ふにあらず、是心得違ひなり、たとひ明日喰ふ可物なしとも、釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて餓死すべし、是今日迄用ひ来りて、命を繋ぎたる、恩あればなり、此心ある者は天意叶う故に長く富を離れざるべし、富と貧とは、遠き隔(へだて)あるにあらず、明日助らむ事のみを思いひて、今日までの恩を思ざると、明日助からん事思ふては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二つのみ、是大切の道理なり、能々心得べし」          

 「天地は一物なれば、日も月も一つなり、されば至道二つあらず、至理は万国同じかるべし、只理の極めざると尽くさざるあるのみ、然るに諸道各々道を異にして、相争うは各区域を狭く垣根を結回して、相隔つるが故なり、共に世界域内に立籠りし、迷者と云て可なり、此垣根を見破りて後に道は談ずべし、此垣根の内に、籠もれる論は聞も益無し、説も益無し」

 「翁曰、老佛の道は高尚なり、譬て云ば、日光箱根等の山岳の峨々たるが如し、雲水愛すべく、風景楽むべしといへども、生民の為に効用少なし、我道は平地村落の野鄙なるが如し、風景の愛すべくなく、雲水の楽むべきなしといえでも、百穀涌出れば国家の富源は此處にあるなり、仏家知識の清浄なるは譬ば浜の真砂の如し、我党は泥沼の如し、然といえども蓮花は真砂に生ぜず、大名の城の立派なるも市民の繁花なるも財源は村落にあり、是を以て至道は卑近に有て、高遠ににあらず、実徳は卑近にありて、高遠にあらず、卑近決して卑近にあらざる道理を悟るべし」

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