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2008年12月 2日 (火)

高天彦(たかまひこ)神社(ⅱ)

 私は千葉県の下総中山(市川市と船橋市にまたがる)という所に住んでいる。)昔風にいうと下総国葛飾郡中山鄕。房総半島の付け根のこのあたりを下総(しもうさ)、サキッチョの部分を上総(かずさ)というのだが、この地名の由来について、「風土記逸文」に次のような話がある。昔この国に高さ数百条にも及ぶ楠が生えた。神祇官が占ってみると大凶事の兆しであると出た。そこでこの木を切ると南に向かって倒れて、上の枝が落ちたところを上総、下の枝が落ちたところを下総(しもつふさ)ということになった。また景行天皇条に、次の話。景行天皇が筑紫に遠征して後国(みちのしりのくに)の三宅(みけ)に至ったとき、長さ九百七十条の櫟(くぬぎ)の倒木があった。この木が立っているときには、朝日を遮って杵島山を隠し(きしまのやま)を隠し、夕日に照らされて阿蘇山を隠すほどであったという。景行は感心して、この国を御木国(みけのくに、福岡県三池)と呼ぶことにした。「古事記」の仁徳天皇条にも巨樹の話があって、朝には木の影が淡路島にも及び、夕日の影は高安山を蔽った、とある。似たような話は「肥前国風土記」、「備前国風土記」逸文、「筑後国風土記」逸文にもある。

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 各地に太陽崇拝と結びついた巨樹崇拝の習俗があって、それが記紀や風土記が編まれた8世紀の初め頃には、既に神話、伝承の世界の出来事になっていたことがわかる。これは(ⅰ)で述べた素朴な形の樹木崇拝が発展したようにも見えるが、私はやはり、神話の進化のレベルを異にしているように感じている。アンソニイ・ウォーレスは宗教進化の初段階を次のように順序付けている(大林後掲論文から孫引き)。シャーマン的宗教→共同体的宗教→オリュンポス的宗教→一神教。一神教が必然的なものかどうか疑問なので、これは無視することにして、共同体的宗教とシャーマン的宗教を峻別する必要もないと想うが(私は人類が定住生活を開始したことによって宗教観念の萌芽が生まれたと考える。宗教は最初から共同体的・シャーマン的だったとのではないか)、共同体的→オリュンポス的の進化段階については、記紀神話の物語がまさしく、それに対応するものだ。オリュンポス的段階のカミとはムラ→クニ、あるいは部族衝突→部族連合が形成される社会変動の過程で、各部族の神々を吸収し、再編成し、秩序付けるために要請された、「神々の王」的性格を備えたカミなのである。神名は様々であろうが、このような巨樹神は各地にあって、影の及ぶ範囲は神威の拡大を示しているのではないか。タカギ神もそのようなカミの一柱であった。

 樹木と太陽神ということで私が思い出すのは、1998年世田谷美術館の「三星堆」展である。「NHKスペシャル」で放映されたので、「アア、あれか」という人も多いと想うのだが、枝に十個の太陽(鳥の形をしていた)をブラ下げた、青銅製の巨大神樹(高さ4m)が展示されていた。「山海経」にでてくる扶桑の大木で、東方にあって次々に太陽を発射するらしい。黄河文明に相対して、長江中流域に大規模な青銅器文明、すなわち長江文明があったとする見方が近年有力になりつつある。長江文明の一画を担う三星堆文化はB,C3500〜2000年にかけて存続した。長江文明を造った人々はオーストロアジア語族だったらしいのだが、春秋時代、戦国時代にかけて、中原の民族に圧迫され雲南からタイ、ビルマの山岳地帯へと拡散していった。この地域の少数民族の習俗、神話、伝承と弥生時代のそれとの類似性には、只ならぬものがある。高床式の建物や、銅鼓文様と銅鐸文様の著しい類似、着物の形、巨樹崇拝、鳥居の存在など。首長が死ぬたびに都(居住地?)を替える風習なども注目に値する。これについては、あとで「鳥越健三郎氏の原弥生人論」として書くことにする。タカギ神もまた長江文明の拡散過程の中で日本に渡来したカミなのではないだろうか。水稲栽培の伝来とも関係があると思う(赤米や餅米を栽培する点も似ている)。

 もうひとつ巨樹崇拝との関係で気になるのは日本海側の巨木文化遺跡である。北陸から東北地方にかけての縄文時代の早期、中期の遺跡から、直径1m弱の巨木をサークル状に並べた痕跡が発見されている(ウッド・サークル/石川県の真脇遺跡、チカモリ遺跡、富山県の桜町遺跡など)。有名な三内丸山遺跡からも大きな木柱痕が発見されていて、物見櫓の蹟だという人もいるが、やはり神殿の蹟だと思う。この巨木祭祀の文化が祖型となって、出雲大社の巨大神殿や、諏訪神社の「御柱祭り」、伊勢内宮の「心の御柱」へと連続しているとするのが有力説というのか常識的な見方である。「心の御柱」はタカギ神の象徴だという説もあり、そのようなカミの習合関係もありうることと考える。このような巨木文化は宇宙樹型というのか、世界建造儀礼にかかわるもので、前出の巨樹崇拝とはまた別の系統なのだろう。北海道、東北地方の縄文時代のストーン・サークル遺跡との関連性は当然あるものと見なすべきである。ド・シロートは、北方モンゴロイドによってシベリア経由で伝来したものと想像している。

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 天孫降臨神話については北方ユーラシアのアルタイ系の遊牧民族の影響が濃厚である。また日本神話に、ギリシャ神話と類似のモチーフと構造を持つものが散見されることは夙に指摘されることだが、タカミムスビの造形にもその影響をみいだすことができる。タカミムスビの投げ返した矢によってアメノワカヒコが死ぬ話など、太陽神のアポロンが放った矢が、不貞を働いた愛人のコローニスを射抜いて殺した話と酷似するところがある。また日本神話の三貴子による三界分治<アマテラスー高天原/ツクヨミー夜の食国/スサノオー海原(あるいはツクヨミー海原/スサノオー根の国)>がギリシャの<ゼウスー天空/ポセイドンー海原/プルートンー冥府>と相似することは明らかであろう。                                                         
                                                                    さて、私はこれまで日本の神様のほとんどが、外来神、来訪神であると強調してきた。カミの観念が単独に渡来したわけではない。漁労文化、照葉樹林文化、焼き畑農耕文化、稲作文化、騎馬文化、金属文化、弥生時代中期にはクニ造りの文化、仏教文化。文化複合の数千年にわたる波状的な伝来とともに、新たなカミが渡り来て、すでに土着化した神々と角逐し、習合し、変質し、どこのものでもない、他ならぬ日本の神々が形造られてきたのだ。記紀神話は国家的、体系的性格が強いといわれ、事実そのとうりなのだが、これを過度に強調して、要するに天皇権力の弁証論だ、作り話だと決めつけてしまう態度には大いに、反発を感じる。記紀神話は8世紀の初め頃にヤッツケ仕事で仕立て上げられたというものではない。社会の変動にともなう神々の再編成は、古墳時代の早い時期から繰り返しおこなわれ、その痕跡を記紀の記述から読み取ることも可能だと考える。新しいカミをうけいれ、古いカミに置き換えるということは、すなわち我々は、そも如何なる存在であるのか、と自問することであった。素朴で未熟な、このような思索が積み重ねられて「日本的なるもの」の祖型が形作られたのである。


高天彦神社にはイチキシマヒメ(市杵島比売命)、菅原道真も祭られているらしい。イチキシマヒメは三輪山や大和神社にも(末社として)祭られている。大和の方面では結構人気のあるカミである。これもナカナカ興味深いことだ。

 高天彦神社の裏側には神体山の白雲嶽がある。土蜘蛛の窟というもある。近くの極楽寺の東側には極楽寺ヒビキ遺跡というのがあって、葛城氏の屋敷跡らしい。いずれも準備不足で見過ごしてしまった。残念である。

 タカミムスビは、国家神、世界創造神へと神格を上昇させていった。しかし、この場所に、おそらく2000年以上に渡って葛城の地主神として鎮座し続けたカミの名前には、やはり高天彦が相応しいと思う。


次の本を参考にした。

 「皇室の神話・二つの建国神話」(岡政男/「平成6年歴史読本特別増刊 日本国家の起源を探る」所収) 「古代日本のルーツ 長江文明の謎」(安田嘉徳/青春出版社) 「日本王権神話と中国南方神話」(諏訪春雄/角川選書) 「三星堆ー中国五千年の謎・驚異の仮面王国」展図録(世田谷美術館 1998年) 「即位御前記」「産霊の信仰」(折口信夫全集 第20巻/中公文庫) 「自然と神」(肥後和男/民間伝承の会版「日本民俗学のために」所収) 「日本宗教の進化と日本神話の性格」(大林太良/「日本の古代13 心のなかの宇宙」(中央公論社)所収) 「神話の系譜ー日本神話の源流を探る」(大林太良/青土社) 

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